ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

不動明王信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月19日 (金)

不動尊から転送)
移動: 案内, 検索

目次

概要

不動明王(ふどう・みょうおう)は、密教の仏尊の一つである。大日如来の化身とされ、衆生を悟りに導く役目を役目を担っているとされる。醜悪な姿を持ち、その姿はインドの奴隷をモチーフにしたと言われ、愚昧な衆生を教化するためにこのような姿を取っているとされる。五大明王の一尊。

不動信仰はほぼ日本仏教においてのみ見られる信仰である。『大日経』などの密教経典を典拠とする仏尊であるが、中国密教チベット密教においても日本のような不動信仰は存在しない。日本に密教を伝えた空海が創始したと言っても過言ではない。

不動明王は日本密教を代表し象徴するといえる。真言密教、天台密教、および修験道において篤く信仰され、日本で最も信仰されている仏尊の一つでもある。密教寺院の護摩堂や不動堂に祀られる。山岳信仰においては必ずといっていいほど祀られ、特に滝場や岸壁、岩窟に祀られることが多い。行者の守護尊とされ、特に修験道においては修験者の装束は不動明王を象ったものだとされている。高僧や行者が生身の不動明王と化したという伝説は多い。

国家鎮護の本尊としても重視され、平安時代には国家的な祈願を行う五壇法が何度も行われた。また宮中の真言院で毎年正月に行われていた真言宗最高儀式である後七日御修法では、曼荼羅と共に不動明王を含む五大明王の画像が祀られていた。一方で、貴族の現世利益の信仰を集めた。平安時代中期には貴族社会に広く普及した。また不動明王の持つ剣から、武力を象徴するものとして反乱鎮圧の祈願が行われ、また武家の信仰も集めた。本地垂迹説が隆盛すると、様々な神社の本地仏とされた。現世利益の信仰は、近世の到来とともに民衆社会に受け入れられたが、特に千葉県の成田不動に対する信仰は独自の展開を見せ、現代においても不動信仰の代表的地位を占めている。

火と水を象徴し、光背の火焔や護摩の火は前者であり、滝場に祀られることや波切不動の存在は後者を示している。図像としては大師様十九観様に分類されている。その他、黄不動など異形の不動明王も知られている。いくつかの国宝の彫像が現存しているが、東寺講堂のものはその代表である。関連する信仰としては、五大明王の信仰や、童子信仰、また倶利伽羅龍王信仰がある。


歴史

起源

起源はよく分からないらしい。不動明王への信仰は日本では隆盛しているが、同様に密教を奉ずるチベットや、往時の中国密教においても目立っては見られない。日本以外においては、一般には知られない仏尊であり、取り立てて信仰される仏尊ではなかった。

不動信仰の根本経典となる『大日経』のサンスクリット語経典の存在は確認されていないが、チベット語訳が現存しており、『大日経』の発祥がインドであることは確実である[1]。またナーランダー寺院遺跡から不動尊と思われる彫像が発掘されており[2]、インド密教に由来することはほぼ確かであるといえる。

また時代は下るが、17世紀のチベット僧ターラナータは、インドに遊学し『インド仏教史』を記しているが、このなかに過去のインド密教において不動明王が信仰されていた説話が収録されている[3]。32章によると、マハーバーラ王の時代、ジェーターリという阿闍梨は諸国巡行中にカサルバナというところで、不動尊の憤怒像を見たが、羅刹鬼であると思い、信仰する気にはなれなかった。ところが、夢のなかで、釈迦の心臓の中から多くの不動尊が出現し、害敵を滅ぼしていくのを見た。そこで自分が釈迦の教化方法について不信心であったことを悟り、後悔した。そこでターラー菩薩に祈ったところ、その罪を償うために多くの論書を書くように言われ、そのようにしたという。また33章には、マハーバーラ王の滅後、周辺民族が攻撃してきた時、ヴィクラマシーラ寺院のある僧侶が不動尊を供養する大法会を行い、その供物をガンジス川に流したところ、敵船は崩れ去ったという。

8世紀の始めごろ、インド僧の善無畏(637-735)が中国長安に渡来して、『大日経』を訳した。その中国人弟子の一行(683-727)は、師匠の説をまとめて『大日経疏』を編纂した。720年には金剛智(671-741)とその弟子不空(705-774)が渡来して多数の経典を漢訳したが、不動明王信仰の重要な経典がいくつか含まれていた。金剛智は『不動使者陀羅尼秘密法』を漢訳し、不空は『底哩三昧耶経』や『立印聖無動儀軌』を漢訳した。しかし、中国密教の最盛期においても、特に注目される仏尊ではなかったらしい。

またチベット仏教においても不動尊は信仰されているが、目立った存在ではない。チベットでも不動尊の図像は見られる。図像的特徴は共通している部分は多いが、両眼の間に第三の目があり、立像が多いのはチベットの不動尊の特徴という[4]。また群衆を踏みつけている不動尊もあるという。これらは後期密教の影響を受けた不動尊の図像であり、日本の不動尊とはやや系統を異にする。

不動信仰が隆盛するのは、空海が日本に密教を伝えてからのことである。

日本への導入

空海は大和の久米寺で『大日経』を読み、衝撃を受けて、密教を修する志を立てた。唐長安に留学して当時興隆していた中国密教を学び、その密教の後継者となって日本に帰国した。空海は多数の経典や曼荼羅類、仏具、そして修法を持ち帰った。空海が招来した経典のなかには不動明王に関する経典がいくつか含まれていた。 空海が不動明王信仰を重視した具体的な様子がわかる記録は残されていないが、不動明王信仰を重視したのが空海であることは間違いないだろう。空海は『秘蔵記』や『宗秘論』のなかに不動明王について簡単に説くほか五つの不動明王に関する著作が知られている。『聖無動尊念誦儀軌法品』、『聖不動尊功能』、『無動尊瑜伽成就法軌次第』、『不動明王念誦次第』、『〓十九種相観想略頌文』がそれである。ただ『聖無動尊念誦儀軌法品』、『聖不動尊功能』については偽作の可能性が否定出来ないという。

空海が持ち帰った不動明王は、三つ知られている[5]神護寺本胎蔵界曼荼羅の不動明王、『仁王経五万諸尊図』の不動明王、東寺講堂の不動明王像である。ほかに高野山正智院の不動明王も早期のものという。 神護寺本曼荼羅は密教の曼荼羅で現在の曼荼羅の原本となったものである。東寺講堂の不動明王像については、823年(弘仁14年)、空海は嵯峨天皇より東寺を与えられて、伽藍を造営したが、このとき講堂の西方に五大明王を祀った。このときの一尊である。また東寺の西院御影堂は元来は空海の自坊であったというが、ここに空海の念持仏であったという不動明王が祀られている。これには頭頂部に頂蓮という蓮がついており日本渡来以前の特徴を持っている。

空海と不動明王については次のような伝説がある。 高野山南院に、木彫りの三尺二寸の不動明王像が残されているが、これは空海が長安にいるときに、恵果より材木を与えられて、空海が自ら彫り、恵果によって開眼された像という。そして、空海が帰国の際に暴風雨にあって船が日本海の藻屑と化しそうになったとき、この不動明王像が剣を払って波を切るかまえをし、暴風雨を鎮めたという。これがいわゆる波切不動という[6]

このほか、空海に由来を求める不動明王がいくつかある。もっとも代表的なのが神護寺護摩堂(現存しない)の不動明王像で、空海作とされる。これがのち遷されて成田不動となったとされる。また志明院の岩屋不動は、空海作とされるが、日本最古の不動明王出現の地を称している。金閣寺(鹿苑寺)にある石不動明王も空海作という。御室の蓮華寺はもと北嵯峨にあり、岩屋を空海が刻んで不動明王とし、「きゅうり封じ」の秘法を伝えたのに始まるという。ほかにも空海に由来する由緒を持つ不動を祀る寺院は多い。

古代

天台密教の成立と不動明王

天台宗においては、最澄によって簡単な密教の概略は伝えられていたが、その奥義は伝えられていなかった。そのため、真言宗への対抗のためにも、新たに中国より最新の密教を導入する必要があった。そこで入唐したのが円仁円珍であった。 円仁は留学中、会昌の廃仏に会って、命の危険にさらされた。円仁が官吏に追われた時、小さな堂宇に逃げ込み、不動明王の真言をひたすら唱えた。官吏たちは堂宇に入ってきたが、そこには他の仏像に混じって新しい不動明王像があった。官吏が怪しんで尋ねると、不動明王となった円仁は日本から仏教を学びに来た僧侶であると答えた。すると官吏は驚愕して、皇帝に報告したところ、他国の聖として見逃してもらえたという。

空海の甥にあたり、天台宗寺門派の祖とされる円珍(814(弘仁5)-891(寛平3))も不動明王に縁深い人物として知られている。いわゆる三不動のうち、黄不動赤不動は円珍が感得した不動明王とされる。

黄不動金色不動明王ともいい、『天台宗延暦寺座主円珍伝』によると、838年(承和5年)、冬山で円珍が修行しているとき、眼前に奇妙な「金人」が出現し、円珍がこれを画工に書かせたことに由来するという。このあともたびたび円珍は金色不動明王の出現にあって、助けられたという。これは『大日経』や後の『不動十九観』に記述される不動明王とも大きく異なる異形の不動明王で、剣を持ち、羂索を携えることは同じであるが、正面を向いて仁王立ちをして、弁髪がなく、目をはっきりと見開き、条帛をまとわず、筋肉隆々の裸体をむき出しにし、空を踏んでいるという特殊な姿形をしている[7]

後世、この黄不動は天台宗で信仰を集め、複製が作られた。その一つに黄不動をもとにした彫像があるが、これは三井寺の大師堂に円珍像とともに祀られ、伝法潅頂の受者にのみ開示される秘仏となっている[8]。このほか、複製の画像が曼殊院門跡三千院門跡円満院門跡に祀られている。太神山不動寺は円珍が金色不動明王を祀った寺という。

一方、赤不動は同じく円珍が修行中に感得した不動明王であるが、その有り難さのために、円珍は岩に頭を打ち付けて頭血を絵の具に混ぜて描いたものという。のち高野山に遷されて、高野山明王院の本尊となった。

比叡山回峰修行の創始者と知られる相応は、不動明王を篤く信仰した。859年(貞観1年)、相応は葛川の三の滝で修行中に滝壺に不動明王を感じて飛び込んだところ、抱きついた仏が桂の木となった。相応はその桂の木で不動明王を彫り、本尊として祀った。これが葛川明王院の創始という。

相応はさらに葛川で修行中、不動明王に兜率天に行きたいと願を掛け、不動明王の頭に乗って兜率天に登ったが、法華経の暗誦を求められてできなかったので入ることが出来なかった。その後、法華経を暗誦できるようになって願が成就したという。その後、865年(貞観7年)、このときの不動明王を祀ったのが、比叡山無動寺であるという。兜率天に訪れる条件に法華経の暗誦が設定されている点は、法華経を根本経典とする天台密教らしい点といえる。

相応が創始したとされる比叡山千日回峰行は、無動寺において七日間の断食を行うが、不眠不臥で不動明王の真言を十万遍唱え続けるという。あるいは九日間かけて七百座の護摩を焚き、断食を行う。これらの修行を通して、行者は生身の不動明王になるという。

平将門の乱と不動明王による調伏祈願

931年(承平1年)、平将門の乱が起きると、高野山の波切不動を熱田神宮に遷座させ、朝敵降伏の祈祷を行った。平定の後、高野山に還座したが、宝剣は熱田神宮に残されたという[9]。しかし、その後の宝剣は不詳である。

またこの戦乱においては、寛朝(宇多法皇の孫。広沢流の開祖)が勅命を奉じて、神護寺護摩堂の本尊であった空海自作の不動明王を下総に遷座し、朝敵降伏の祈祷を行った。平将門平定後に印旛郡公津ケ原に一寺を建てて奉安し、神護新勝寺と称した。のちの成田山新勝寺である。


平安貴族と五壇法

平安時代の貴族たちは現世利益を祈願するために僧侶に護摩を焚かせた。護摩は不動明王を本尊とするのを一般とし、まれに降三世明王が本尊とされた。 さらに五壇法が編み出され、五大明王を並べてそれぞれに護摩壇を用意し、五人の阿闍梨によって同時に五つの護摩を焚かせた。940年(天慶3年)の平将門の乱のときに、宮中でなされたというが定かではない。確実な初見は、959年(天徳3年)の東寺での五壇法という。また延暦寺では961年(応和1年)に行われている。『源氏物語』にも五壇法に関する記述が見られ、清少納言の『枕草子』にも五壇法の記述があるという。藤原道長は娘彰子の皇子出産の際に五壇法を行った。其時の皇子は後一条天皇となった。道長は晩年に法成寺を建てたが、その伽藍の一つとして五大堂がある。道長の次女皇太后は病気平癒祈願のために五大堂に参籠。まもなく死去したがその遺言により、五大尊と百体の不動明王を安置したという[10]。現在、東福寺同聚院にある不動明王はもと法成寺五大堂の不動明王だという。

981年(天元4年)、円融天皇(あるいは村上天皇のときともいう)の病気平癒祈願のための五壇法が行われた際、良源や上記の寛朝が参加し、良源は中央の不動明王を担当し、寛朝は降三世明王を担当したが、それぞれ護摩を炊いているあいだ、本尊のように見えたという[11]

平安時代初期に書かれた『日本霊異記』には不動明王は一切登場しないがその後の『今昔物語』(12世紀前半)や『宇治拾遺物語』(13世紀前半)には不動明王の説話が多数出てくる。『枕草子』(996年(長徳2年)か)には当時の世相が記されているが、「仏は如意倫、千手すべて六観音、薬師仏、釈迦仏、弥勒。地蔵。文殊。不動尊。普賢。」として既に主な仏の一つとして数えられている。『紫式部日記』には彰子出産のときに五壇法を行じたことが詳細に記録されている。

生身不動明王の信仰

平安時代後期、高野山に大伝法院を建立した覚鑁(1095(嘉保2)-1143(康治2))は、金剛峰寺の僧侶と対立して、襲撃を受けた。乱入した僧兵が堂内を見渡すと二つの不動像があった。覚鑁は不動尊に化していたのである。僧兵はどちらが覚鑁なのか見分けようと、錐を片方の不動像の膝の上に突き刺したところ、覚鑁ではないほうの不動像の膝から血が吹き出し、覚鑁をかばったという。この不動明王は錐揉不動として根来寺にある。 あるいはこんな伝説もある。毎日、不動明王への供養を欠かさなかった覚鑁であるが、昼間、不動明王に香花を捧げて礼拝していた。ところが夜間、覚鑁の住房を見ると、今度は不動明王が禅定に入っている覚鑁に対して、香花を供えて礼拝していたというのである。覚鑁と不動明王はお互いに礼拝、供養しあっていたという。

平安時代の経典研究

円仁の弟子安然は天台宗でありながら密教を教学の中心とし、ついに天台宗をもって真言宗と呼んだが、その著作のなかに『不動明王立印儀軌修行次第』がある。ここでは不動十九観を説き(十九の性質・特徴)のち、不動明王の造形の元となった。菅原道真の孫、淳祐は『要尊道場観』を記して不動明王の十九観についてさらに考察を加えている。

中世

蒙古襲来(弘安の役)の際、高野山の波切不動は再び敵国降伏祈祷のため筑前鹿島に遷座した。乱の後、高野山に戻ったが、火焔形をその場に残したという[12]。現在、この波切不動を奉安した旧跡に火焔塚が伝存している。

不動明王に関わりがある僧侶としては文覚明恵が知られている。文覚は那智の滝で修行していた時、激しい修行のため死んでしまったが不動明王の使いの童子によって蘇生させられたという。明恵は臨終の時に不動明王を見て、弟子たちに真言を唱えるように命じたという。

近世

五色不動の創建

江戸が新たな政治の中心となると、その周囲に不動尊が祀られ、やがて五色不動と言われるようになった。目黒不動目白不動目赤不動目黄不動目青不動である。

成田山の隆盛

平将門の乱のときに創建されたと伝える成田山新勝寺であったが、照範のときに江戸へ出開帳を行い、将軍家一族の信仰を得て、隆盛の端緒となった。歌舞伎役者の初代市川団十郎が成田山に願を掛けて長子を得たことから篤い信仰者となった。1703年(元禄16年)、市川団十郎親子は、森田座で「成田山分身不動」を上演し、初代は胎蔵界の不動明王を演じ、二代目は金剛界の不動明王を演じた。このとき多数の賽銭が舞台に投じられたという。その後、市川家は成田屋を屋号として代々厚く信仰している。成田山は江戸時代終わりまでに約二十回の出開帳を行い、江戸大衆の心を掴み、江戸から成田まで多くの参詣者が訪れた。近世末には二宮尊徳が事業に行き詰まった時に成田山に参籠して「動かざるの心」を得て、事業を成就したという。成田不動の信仰については成田不動信仰を参照。

成田山と浄土宗

成田山は、浄土宗僧侶の信仰を集めたことは特筆できる。 浄土宗の名僧、道誉貞把は、和泉の生まれであったが増上寺で学んでいた。帰郷の後、説法で言葉に詰まって恥をかき、発奮して再び東国に遊学した。このときに成田山に参籠していると、夢のなかで不動明王が出現して、利剣と鈍剣を示し、どちらを飲むかと聞かれた。利剣を飲むと答えたら、不動明王は道誉の喉に利剣を突き刺した。道誉は血を一升吐いて死んだがすぐに蘇生した。それ以来、道誉は経典をすらすらと暗誦できるようになったという。 宗派を超えて活躍した名僧祐天にも同様の説話が伝えられている。祐天は修行時代、なかなか経文を覚えることができなかった。増上寺開山堂に参篭していたところ、成田不動のもとに行けというお告げを受けた。そこで成田山に行き、断食修行を行った。その結願の日、雷鳴が轟いて寺の僧侶が不動明王の姿となり、祐天に「お前は前世の因縁により、文字の読めないものとなった。智慧を得たいなら、長短の剣のうち一振りを飲んで、悪血を吐き出すが良い。長い剣、短い剣のどちらを飲むか」と迫った。祐天は「呑んで死ぬのが同じなら、長い剣を呑みます」と答えると、不動明王は裕天の喉に剣を突き立てて、裕天の体を貫いた。裕天は絶命したが、まもなく蘇生したところ、周囲の僧侶が般若経を読み聞かせたところ、一度聴いただけで正確に覚えるようになったという。のち裕天は増上寺住職となり、死後は祐天寺に祀られた。 以降、浄土宗の僧侶までもが成田山に参詣するようになったという。

経典研究

契沖の師匠として知られる浄厳は、真言律宗の湯島霊雲寺を開いたが、著書を多数執筆し、不動明王についても、『不動忿怒瑜伽要抄』を記した。同時代の隆光も『聖不動経慈怒抄』を記している。

信仰

不動明王の尊格

密教の根本経典である『大日経』によると、不動明王は「不動尊」「無動尊」「不動主」という名称で登場する。いずれも原語となるサンスクリット語は同じであると考えられ、サンスクリット語では「アチャラナータ」と呼ばれる。『大日経』のサンスクリット語経典が発見されていないことから、この「アチャラナータ」というサンスクリット語はおそらく、漢訳経典やチベット語経典からの復元で、「アチャラナータ」と書かれたサンスクリット語経典があるわけではないものと思われる[13]。アチャラナータは「動かない守護者」とか「動かないものの守護者」という意味であるという[14]。あるいは「山岳の主」という意味とも解釈できるといい、山岳信仰との関連が指摘されている[15] 渡辺照宏によると、『大日経』には不動明王の異名と解釈できるような単語が他にもいくつかあるが、これらは異名ではないという。『大日経』息障品に、「不動摩訶薩」や「真言大猛不動大力者」、『大日経』普通真言蔵品に「大〓障聖者不動主」[16]とあるのは不動明王の異称ではなく、文章上、そういう単語が並んだだけだという。

『大日経』具縁品に「不動大名」とあるのもチベット語経典から参照すると「不動大我」のほうが適訳ではないかといい、意義としては「不動尊」と大きく変わらない。また同じく『大日経』具縁品に「不動如来使」とあるが、チベット語経典には「如来使」の部分の言葉がなく、漢訳における加筆の可能性が無視できないという[17]

『大日経』に登場する「不動尊」が明王であることについては『大日経』にはどこにも書かれていない。しかし、『大日経疏』第九巻の『大日経』息障品解説によると、「不動明王」と明記されている[18]。不空訳『底哩三昧耶不動尊聖者念誦秘密法』には「不動明王」「不動尊明王」「無動明王」とある。

曼荼羅においては胎蔵界曼荼羅の持明院に配置されている。般若菩薩を中心に不動明王、降三世明王、勝三世明王、大威徳明王が配置されている。

既に述べたように生身不動の信仰がある。不動明王を信仰するものは不動明王と一体になり、不動明王そのものに成るというものである。観想法のなかに、不動明王と一体になることを観じることが記されており、その信仰に基づくものである。不動明王の姿になったと伝えられる高僧としては、円仁、良源、覚鑁などが知られている。山伏の装束が不動明王を象ったものであるというのも、同じ信仰に基づくものである。

不動明王は岩場、洞窟、瀧場に祀られることが多い。 剣は智慧の象徴とされる。 修験道では『聖不動経』という経典が作られ、使われている。

印契と真言

不動明王の十四根本印について、その名称のみ列挙しておく。根本印、宝山印、頭密印、眼密印、口密印、心密印、四処加持印(甲印)、師子奮迅印(悪叉波印)、火焔印、火焔輪止印、商〓印、渇〓印(剣印)、羂索印、三股金剛印などがある。[19] 不動明王の真言は三種類あり、大呪(火界呪)、中呪(慈救呪)、小呪がある。

  • 大呪:ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバ・ビキンナン・ウン・タラタ・カン・マン
  • 中呪:ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン
  • 小呪:ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン

渡辺照宏によれば、不動尊の修法に用いる真言はこの他にもあり印契とともに用いられるという[20]

修法

不動明王に関わる修法としては不動法のほか、安鎮法、仏頂尊勝法などが知られている。安鎮法は『聖無動尊安鎮家国等法』、仏頂尊勝法は『仏頂尊勝陀羅尼儀軌』(不空)による

また天台宗の安然は「不動十九観」という観法を編み出した。これは現在の不動明王像の造形の直接の根拠の一つ(十九観様)となっている。

図像

大師様と十九観様がある。

不動明王信仰の展開

変化身

  • 波切不動
  • 黄不動
  • 青不動
  • 赤不動
  • 厄神明王:両頭愛染明王
  • 身代わり不動
  • 錐鑚不動

不動明王の眷属

不動明王の眷属としては三十六童子、あるいは八童子、二童子が知られている。四十八使者というのもある。このほか、不動明王の化身として倶利伽羅龍王が知られる。ただ眷属も不動明王の化身ともいう。

倶利伽羅竜王はサンスクリット語では「クリカ」である[21]。剣にまとわりつく龍の姿として表される。『倶利伽羅龍王陀羅尼経』によると、昔、不動明王が95種の外道と、論争になった時に、不動明王が智火剣に変化したら、相手も同じく智火剣に変化したので、不動明王はさらに倶利伽羅大龍に変化して相手を降伏させたという。

矜羯羅童子はサンスクリット語で「キンカラ」といい、「奴隷」「随順」「従者」の意味であり、また羅刹の一種の名であるという。『仏頂尊勝心破地獄法』には「龍王、変じて二人の使者と成る。矜迦羅使者と制多迦羅使者とこれなり」とある。矜羯羅童子を本尊とする修法もあり、『不空羂索陀羅尼経』や『ていり経』『不動使者秘密法』に記載されている。『文殊儀軌経』には緊迦羅明王とあり、明王に昇格している。 制多迦童子はサンスクリット語を「チェータカ」といい、やはり「奴隷」を意味する言葉である。中国経典では「息災」と解釈されていることもあるが誤りという。『不空羂索陀羅尼経』に制多迦を本尊とする修法がある。

八大童子は『聖無動尊一字出生八大童子秘要法品』に基づくものである。ほかに八大童子について記した経典はなく、中国で考案された説と思われる。

  • 恵光童子、恵喜童子、阿耨達童子、指徳童子、烏倶婆〓童子、清浄比丘童子、矜羯羅童子、制多迦童子

四十八使者については『勝軍不動明王四十八使者秘密成就儀軌』に記載されている。三十六童子については典拠となる経典は不詳である。

五大明王

不空の『仁王護国般若儀軌』において三種輪身説が説かれたが、空海『秘蔵記』にも触れられているが、五智如来のそれぞれに三種輪身説が当てはめられた。


  • 自性輪身、正法輪身、教令輪身
  • 大日如来般若菩薩、不動明王
  • 阿しゅく如来、金剛薩〓、降三世明王
  • 宝生如来、金剛蔵王菩薩、軍荼利明王
  • 無量寿如来文殊菩薩、大威徳明王
  • 不空成就如来、金剛牙菩薩、金剛夜叉明王

天台宗では烏枢沙摩明王を入れるという。

五大明王が五壇法の本尊となったことは既に述べた通りである。後七日御修法においても五大明王の画像が祀られた。また五大明王は五大力菩薩とも習合し、同一視された。五大力菩薩を本尊とする仁王経法も盛んに行われた。

神仏習合説

不動明王を本地仏とする神社には次のようなものがある。大山阿夫利神社兵主大社貴船神社本社、多度神社御上神社金刀比羅宮多田神社飯綱権現杉山神社石上神宮平野神社白髭神社六孫王神社熱田神宮八剣宮などである(当然のことながら本地仏は一定するものではなく、多説ある場合が一般的である。)。これらを見ると、不動明王が持つ剣、あるいは不動明王の化身とされる剣からの連想なのか、熱田八剣宮、石上神宮などの剣に関係する神社や、六孫王神社、多田神社などの武家に関係する神社が不動明王と関連づけられている。


不動明王と荒神信仰

また宮家準は、不動明王と三宝荒神の関連を指摘している[22]。不動明王と三宝荒神は像容や祭日が類似しており、三宝荒神の供養には『荒神経』や『般若心経』とともに不動明王の真言を唱えたり、三宝荒神の御幣を切るときに、その切る刀を「不動倶利伽羅」と呼んだりしている。

不動明王と木曽御嶽信仰

木曽御嶽信仰においても不動明王は最重視される神仏の一つであるが、やはり御嶽行者を守護する尊格として信仰されている。また木曽御嶽信仰において広く行われる御座儀礼は、普寛が不動明王より直に伝授されたものとされる。

一覧

五大明王


波切不動

成田不動

五色不動

黄不動

参考文献

  • 渡辺照宏、1975年(昭和50年)『不動明王』朝日選書
  • 『不動信仰事典』

脚注

  1. 渡辺照宏『不動明王』195頁。
  2. 渡辺照宏『不動明王』195頁。
  3. 渡辺照宏『不動明王』195-196頁。
  4. 渡辺照宏『不動明王』194頁。
  5. 『不動信仰事典』58頁。
  6. 渡辺照宏『不動明王』45頁。
  7. 渡辺照宏は、儀軌に沿わない図像として黄不動を批判的に見ている。渡辺照宏『不動明王』154頁。
  8. 大師堂には中央に円珍、南側に御骨大師、北側に黄不動が祀られている。『大津市志』下巻1624頁。
  9. 渡辺照宏『不動明王』45頁
  10. 渡辺照宏『不動明王』62-63頁。
  11. 渡辺照宏『不動明王』58頁。
  12. 渡辺照宏『不動明王』45-46頁。
  13. あるいは、他のサンスクリット語経典や逸文に拠るのかもしれない。
  14. 渡辺照宏『不動明王』134頁。
  15. 渡辺照宏『不動明王』54頁。
  16. 「不動王」とするのは誤記という。渡辺照宏『不動明王』137頁。
  17. 他の経典には、「不動使者」、「聖者無動使」という名称が見える。
  18. 渡辺照宏『不動明王』137頁。
  19. 渡辺照宏『不動明王』199-201頁。
  20. 『不動明王』204-205頁。
  21. 倶利伽羅の羅は漢訳のときに謝って挿入された文字という。
  22. 宮家準はその両者の背後に日本古来の荒ぶる神をみている。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール