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修法師制度

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年4月14日 (火)

修法師から転送)
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修法師(しゅほっし)は日蓮宗の祈祷師。法華経寺行堂の成満者に対し、日蓮宗久遠寺派が授与する資格と、遠寿院行堂の成満者に対し、遠寿院が授与する資格がある。修法師になるためには荒行堂(加行所)で100日荒行の修行をする。

流派

  • 積善房流:身延山積善房を拠点とした一派。江戸時代の積善房10世の仙寿院日閑を中興とする。楊枝加持を始めた。七面山の信仰の広まりと共に山中修行する僧侶が登場。七面山に近い身延山東谷に修行僧が集まった。積善房もその一つだった。14世満行院日順、一道院日法(1659-1719、身延山岸之坊24世)、中山経王院日詳、22世普門院日憲(1760-1829)らが優れた祈祷師として知られた。一道院日法は堀川本蔵寺を拠点に鴨川で1000日荒行を行い、京都内外の注目を集めた。霊元上皇が帰依し、「経王祈祷所」の勅額と「大験者上人」の号を与えた。1819年(文政2年)、蓮華谷に移転。1870年(明治3年)火災で焼失。加行所は休止となった。
  • 智泉院流:中山両流の一つ。中山法華経寺智泉院を拠点とする。中山25世の行巌院日長が智泉院日住に命じて加行場を設置した。1644年(正保1年)に開設した。1841年(天保12年)10月、日啓と日尚が政変に巻き込まれて処分。行堂閉鎖となった。しかし、ひそかに活動はしていたらしい。1869年(明治2年)に加行を開いた記録があるが、1874年(明治7年)に火災で焼失し、読経堂のみ残して灰燼と帰した。1878年(明治11年)再建上棟式を行ったが、強風で倒壊した。
  • 遠寿院流:中山両流の一つ。中山法華経寺遠寿院を拠点とする。1670年(寛文10年)頃、院家側の主導で積善房流の経王院日詳(1608-1678)を招いて円立坊を創建。1824年(文政7年)までには遠寿院と改称。世情混乱で1867年(慶応3年)から1871年(明治4年)まで行堂停止。1868年(明治1年)4月10日、法華経寺の火災で焼失。1872年(明治5年)に改めて開堂した。文明開化、「淫祠邪教」の禁止の風潮の中、祈祷の存続が危ぶまれるが、中山112世河田日因と遠寿院25世朝田日光(1845-1879)の尽力で存続した。1876年(明治9年)5月8日、「加行規則並順序等」を定め、宗派管長の公認を得た。法華経寺住職は「伝主」、遠寿院住職は「副伝主」と称している。1878年(明治11年)修法者規則を制定。1888年(明治21年)、再行堂(先輩寮)を建立。1893年(明治26年)修法取締規則を制定。1897年(明治30年)荒行堂に付属する行堂(寮)を建立。1898年(明治31年)荒行堂を修復。1903年(明治36年)頃は現在の読経堂が初行堂で、30畳敷きで鬼子母尊神を祀り、堂の南には水行場もある。初行堂の前に再行堂があり、その奥に五行堂があった。1897年(明治30年)頃、伝書を整備。遠寿院は戦後、日蓮宗久遠寺派から離脱し、本寺である法華経寺の中山妙宗に所属。久遠寺派の荒行堂は身延山に移転。のち遠寿院は久遠寺派に復帰。1960年(昭和35年)から1973年(昭和48年)まで荒行堂は身延山と遠寿院の双方で開設された。1973年(昭和48年)3月、中山妙宗が日蓮宗久遠寺派に合同すると荒行堂の一本化を図られ、身延山の荒行堂が法華経寺に移転。一本化はならず、宗派とは別に遠寿院の行堂が営まれている。
  • 普明院流:身延積善房流から派生した一派。高槻一乗寺6世の普明院日栄(1615-1693)を開祖とする。日栄は身延山東谷で苦行を挑み満行。のち各地を布教。和歌山藩主夫人の養珠院の帰依を得て、芝正伝寺など数十寺を復興させた。養珠院の仲介で、身延山に伝わる相伝の伝授を請願し、1653年(承応2年)、「身延山伝師」に任命された東光院日春から江戸の「某所」で伝授を受けた。中山からも切紙を得ている。
  • 三沢流:身延積善房流から派生した一派。静岡三沢寺の貞光院日富と勧持院日相が身延の仙寿院日閑に学び、開いたという。日相が弟子に与えた1675年(延宝3年)の修法曼荼羅が現存する。松江松平家の外護を得た。幕末まで江戸大久保法善寺を江戸出張所とした。
  • 唯観流:唯観日勇(1639-1691)が妙見菩薩に祈念し如意を感得。1680年(延宝8年)七面山で百日修行を終えて祈祷修法の極意を得たという。京都本瑞寺の忍辱鎧日栄が唯観流を受け継いだ。日栄は1732年(享保17年)『修験故事便覧』を出版。この書は修験道で現在も重用されている。唯観流はのち廃絶。
  • ささめ流:中山から日陣門流に伝播した一派。蓮着寺日暹が開祖。寛永初年、日暹は伯父(叔父?)にあたる中山21世日現から密かに「三十八箇条の切紙」を伝授されたという。名称は蓮着寺の近くにある「ささめが浦」に由来する。
  • 桑名流:通明院日隆(1632-1710)の行った祈祷法。異色の弾指加持を行った。日隆は身延日暹の弟子で、苦行を行い、験術を得た。祈祷で桑名藩主松平定重の病気を治したという。のち松平定重に招かれ伊勢円妙寺の開山となった。
  • 本教院流:信徒の岩城日正が明治後期に創唱した。岩城日正は千葉中山の出身で、明治20年代に法華経寺の龍王池で神示を受け、本教院と称した。30年代には「実大乗寿量本教院」教長を名乗り、自ら大僧正を称した。「修験道法華経加持祈祷法」と名付けた祈祷法を伝授し、大正時代に身延山の醍醐の滝に籠もって弟子を育成した。岩城日正は1938年(昭和13年)滝野川一里塚教会で死去。池上本行寺に埋葬された。

(以上、日蓮宗事典など)


修行と制度

日蓮宗久遠寺派の制度としては次の通り。法華経寺で行われる。 毎年11月1日に入行し、翌年2月10日に成満する。毎朝午前2時頃に起きて午後11時頃まで1日7回水行を行う。水行の合間にひたすら読経する。また様々な指導や伝授を受ける。睡眠時間は1日3時間。食事は朝夕2回の一汁一菜。入行会は午前9時、常修殿に集合。祖師堂で法要。式典。諸堂巡拝の後、午後3時頃、瑞門をくぐって荒行堂に籠もる。成満会は午前6時に瑞門が開門され出堂し、祖師堂で法要が営まれる。初行を終えた者に「修法師辞令」が授与される。地元に帰ってから自坊などで帰山式を行う。

最初の入行を初行といい、再行・三行・四行・五行となる。段階的に相伝書の内容を伝授される。全て伝授されると「修法師範」となるらしい。6回目からは「参籠」と呼ぶ。参籠5回で「伝師相承」となり、合計千日おえると阿闍梨号(●●阿闍梨)を授与されるようだ。全国修法師連合会がある。

加行所

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BF%AE%E6%B3%95%E5%B8%AB%E5%88%B6%E5%BA%A6」より作成

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