出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年9月3日 (土)
顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺(河内国渋川郡)にある浄土真宗寺院。院家の格式を持ち、御坊、別格別院だった。浄土真宗本願寺派。滋賀県大津市の本願寺近松別院を兼務していた。顕証寺を中心に久宝寺寺内町を形成した。初名は西証寺。久宝寺御坊。山号は近松山。(参考:同名寺院顕証寺)
歴史
- 1470年(文明2年):蓮如、河内地方を巡教。
- 明応年間:蓮如、西証寺を創建。十一男の実順を初代とする。
- 1506年(永正3年):河内国の錯乱。実順、一時幽閉。
- 1529年(享禄2年):蓮淳、河内の西証寺に入り近江顕証寺の「等身の御影」を奉遷し、顕証寺と改称。近江顕証寺は兼帯所とする。河内国の触頭となる。
- 1539年(天文8年):蓮淳、顕証寺を子の実淳に譲り近江に帰る。
- 1541年(天文10年):この頃から久宝寺寺内町が形成される。
- 1542年(天文11年):蓮淳、顕証寺に再任。この頃、河内一向一揆。
- 1560年(永禄3年):院家になる。
- 1570年(元亀1年)9月:織田信長、朱印。
- 1570年(元亀1年)10月20日:豊臣秀吉、黒印地
- 1598年(慶長3年)12月26日:5人連署の朱印。
- 1600年(慶長5年)9月21日:徳川家康の朱印状。禁制。幕政下で河内国の触頭として認められた。
- 1606年(慶長11年):寺内町で対立。反対派住民と河内・慈願寺が長瀬川対岸に移り八尾寺内町を開発した。本願寺の東西分裂が背景にあるとされる。
- 1710年(宝永7年)4月:本堂再建。
- 1762年(宝暦12年):三業惑乱始まる。
- 1806年(文化3年)7月11日:三業惑乱で処分を受ける。住職が本山預押込になっただけでなく、触頭としての職務も停止された。
- 近代:別格別院となる。
組織
歴代住職
世数
| 名前
| 生没
| 在職
| 略歴
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1
| 実順
| 1494-1518
| ?-1518
| 兼性。蓮如の十一男。1494年(明応3年)生。1505年(永正2年)得度。蓮如から西証寺を継ぐ。1506年(永正3年)、河内国の錯乱で京都に一時幽閉。1518年(永正15年)3月11日死去。25歳。右衛門督。母は蓮能尼(畠山政栄の娘)。
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2
| 実真
| 1517-1529
| 1518-1529
| 実順の長男。1517年(永正14年)生。1518年(永正15年)西証寺住職。1529年(享禄2年)5月16日死去。13歳。
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3
| 蓮淳
| 1464-1550
| 1529-1539
| 兼誉。蓮如の六男。幼名は光徳。1464年(寛正5年)生。実順妻の妙祐の父に当たる。はじめは大津近松顕証寺に入る。1529年(享禄2年)10月、西証寺に入り、近松の等身の御影を奉遷して顕証寺と改称する。近松御坊、堅田御坊、赤野井顕証寺を兼務。長島願証寺、河内・恵光寺を創建。本願寺10世証如の外祖父。1539年(天文8年)引退するが、実淳の死去で1542年(天文11年)顕証寺住職に再任。1550年(天文19年)8月18日死去。本法院と号す。
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4
| 実淳
| 1492-1542
| 1539-1542
| 兼盛。蓮淳の長男。1492年(明応1年)生。幼名は光徳。1502年(文亀2年)出家。1532年(天文1年)近江顕証寺が六角氏に焼かれたため、一時、本願寺を離れた。1539年(天文8年)顕証寺住職。1542年(天文11年)6月28日死去。51歳。嗣子なし。乗勢院と号す。通称は少将。
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5
| 蓮淳
| 1464-1550
| 1542-1550
| 1542年(天文11年)、顕証寺住職に再任。1550年(天文19年)8月18日死去。
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6
| 証淳
| 生没年不詳
| 不詳
| 教忠。実淳の猶子。蓮淳の孫。長島願証寺2世実恵の四男。1560年(永禄3年)院家となる。淳大院と号す。
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7
| 顕淳
| 1578-1609
| 不詳
| 佐尋。証淳の子。1578年(天正6年)生。1590年(天正18年)出家(1587年(天正15年)とも)。1595年(文禄4年)、准如に恭順する誓詞を提出。1597年(慶長2年)京都方広寺大仏供養に准如の代理として出仕した。1609年(慶長14年)12月21日死去。徳進院と号す。通称は三位。
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8
| 准誓
| 1597-1659
| 不詳
| 昭専。顕淳の子。1597年(慶長2年)生。1659年(万治2年)8月死去。63歳。顕応院と号す。
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9
| 准教
| ?-1660
| 不詳
| 昭蓮。准誓の子。1660年(万治3年)2月死去。載仁院と号す。
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10
| 寂淳
| 1657-1689
| 1669-1689
| 円澄。円証。西本願寺13世良如の三男。1657年(明暦3年)生。14世寂如の弟。幼名は千代麿。法橋権大僧都。1669年(寛文9年)顕証寺住職。1671年(寛文11年)3月福井別院を兼務する。1672年(寛文12年)4月、理助院(理照院?)と号す。1689年(元禄2年)2月4日死去。33歳。
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11
| 寂寿尼
| 生没年不詳
| 不詳
| 准教の娘。寂淳の室。寂淳の死後、住職を継ぐ。1710年(宝永7年)4月、本堂を再建。自久院と号す。
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12
| 寂峰(法如)
| 1707-1789
| 1720-1743
| 常剛。西本願寺17世法如。亀山・本徳寺8世寂円の次男。1720年(享保5年)9月23日顕証寺に入り、翌日得度。本山の静如(除歴)の引退を受け1743年(寛保3年)3月7日、西本願寺を継承し17世法如となる。
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13
| 法真
| 生没年不詳
| 不詳
| 闡教。西本願寺17世法如(寂峰)の次男。18世文如の弟。幼名は孝丸。法印権大僧都。1780年(安永9年)11月、本徳寺を兼務(歴代外)。三業惑乱で、翻意して三業帰命説を支持し、1803年(享和3年)1月、強制帰国の処分を受けた(大坂から?)。1806年(文化3年)7月11日、幕府が監督不行届で西本願寺を処分した時、法真も本山預永押込の処分を受けた。江戸の築地御坊に蟄居になったとも。理宣院・究竟院と号す。
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?
| 文淳
| 1780-1802
| 1793-1802?
| 暉宣。西本願寺18世の文如(1744-1799)の三男。19世本如の弟。1780年(安永9年)生。幼名は昔丸。1788年(天明8年)顕証寺法嗣。1793年(寛政5年)顕証寺住職。室は法真の娘。1802年(享和2年)死去。23歳。普寂院と号す。
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?
| 摂衆(広如)
| 1798-1871
| 1809-1819
| 大谷光沢。西本願寺20世広如。文淳の子。1798年(寛政10年)生。幼名は祥寿丸。1809年(文化6年)8月3日出家。顕証寺を継承する。1811年(文化8年)法眼。1819年(文政2年)10月、西本願寺の法嗣となり、1826年(文政9年)継承し20世広如となる。1871年(明治4年)死去。
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14
| 近松摂真
| 1801-1881
| 1823-?
| 本願寺執行。法真の四男。1801年(享和1年)生。摂津広教寺闡侃の養子となる。1817年(文化14年)得度。1823年(文政6年)顕証寺住職となり、広教寺を兼務。1871年(明治4年)本願寺派事務都監。1879年(明治12年)執事。1880年(明治13年)6月から1881年(明治14年)10月まで本願寺一等執行。教区制度の設置、集会規則制定、1881年(明治14年)10月に第1回定期集会を開催するなど西本願寺教団の近代化に貢献した。1881年(明治14年)11月5日死去。華蔵院と号す。権大教正。
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参考
| (近松沢潤)
| 1826-1868
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| 大谷光威。徳如。近松摂真の長男。1826年(文政9年)生。1847年(弘化4年)5月、大谷光沢の養子となり西本願寺の法嗣となる。勤王派として動き、中山摂観や大原重徳と接近。京都御所の猿ケ辻を守護する。摂河泉を巡教し、維新の趣旨を説くが道中で発病。1868年(明治1年)4月14日死去。43歳。
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15
| 近松沢含
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| 近松摂真の子。
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16
| 近松尊定
| 1864-1917
| 1907-1917?
| 近松沢含の子。1864年(元治1年)生。1883年(明治16年)4月得度。1900年(明治33年)西本願寺執行。1902年(明治35年)仏護寺19世。1907年(明治40年)顕証寺住職。侍真長、顧問上首、会行事など歴任。1917年(大正6年)3月19日、管長代理。1917年(大正6年)6月3日死去(5月31日とも)。普照院と号す。
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| ?
| 生没年不詳
| 不詳
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| 近松照定
| 生没年不詳
| 不詳
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19
| 近松照俊
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| ?-2017
| 龍谷大学卒。声明を得意とする。勤式指導所講師。本願寺名誉侍真。相愛大学講師。
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20
| 近松真定
| 1977-
| 2017-
| 1977年(昭和52年)生。2017年(平成29年)顕証寺住職。本願寺名誉侍真。本願寺派布教使。本願寺派輔教。勤式指導所講師。相愛大学講師。行信教校講師。中央仏教学院講師。
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河内十二坊
資料
史料
- 『反正紀略』「顕証寺殿旅館ヘ押寄御退去ヲ勧ル事并夜中御出立之事」[1]
- 「顕証寺所藏古文書並びに古記録」[2]
- 「顕証寺喚言師語録」[3]
- 『真宗聖教現存目録』「顕証寺所蔵」[4]
- 『藤井寺市史史料編』「誓願寺・久宝寺顕証寺関係」[5]
文献
- 1928『久宝寺村誌』「顕証寺」[6]
- 谷下一夢1959「顕証寺蓮淳について」『龍谷大学論集』360
- 北西弘1969「顕証寺蓮淳とその書状―大小一揆研究序説」[7]
- 1974『八尾の史跡散歩』「久宝寺寺内と久宝寺御坊顕証寺」[8]
- 2002『藤井寺市史』「三業惑乱と八尾別院顕証寺」[9]
- 木下光生2005「近世河内中本山真宗寺院の葬送とその存立基盤」
- 2010『顕証寺長屋門附属西長屋・東長屋・渡廊解体修理報告書』
- 2011『顕証寺本堂調査研究報告書』
- 櫻井敏雄2012『寺内町の中核としての真宗寺院―顕証寺を中心として』
- 2020『智慧のともしび―顕証寺本蓮如上人絵ものがたり』
- 渡辺克典ほか2021「大阪府八尾市顕証寺所蔵の寺宝『大蛇骨』(シャチ頭骨)」『地学研究』67-1