| 寺院
| 所在地
| 年
| コメント
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1
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| インド
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| 釈迦の教化を受けた月蓋長者が、長者の前に顕現した阿弥陀三尊の仏像を作成しようとしたところ、龍王から授かった閻浮檀金が変じて阿弥陀三尊像となった。これが善光寺如来である(「善光寺縁起」)。
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2
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| 百済
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| 時を経て、善光寺如来が百済の聖明王のもとにもたらされた。善光寺如来は次に日本に渡ることを託宣した。
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3
| 太子山向原寺
| 奈良県高市郡明日香村
| 552(欽明13)
| 552(欽明13)年、善光寺如来の意思によって、善光寺如来は日本に渡り、日本に仏教が伝えられた。いわゆる仏教公伝である。宮中では崇仏論争が起きたが、蘇我稲目が自邸に善光寺如来を祀った。しかし、疫病が起こり、崇仏をしたための神祇の祟りだとされて、寺は焼却され、善光寺如来は難波の堀江に捨てられた。その後の593年(推古1年)、同地には推古天皇の豊浦宮が造営され、603年(推古11年)、天皇が小墾田宮に移ったあと、豊浦寺となった。現在、浄土真宗本願寺派の太子山向原寺が建っており、阿弥陀如来が祀られている。同寺にも「なにわ池」がある。
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4
| 和光寺
| 大阪府大阪市西区
| 552(欽明13)-602(推古10)
| 善光寺如来は厄災の元凶と見なされて難波の堀江に捨てられた。602年、本多善光が通りかかると、姿を現した。元禄11年(1698)、幕府が難波の堀江とされる「阿弥陀池」の地を善光寺に寄進し善光寺大本願第113世・智善上人が浄土宗和光寺を創建した。尼寺。大阪大空襲で大きな損害を受けた。
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5
| 不断山善光寺(八尾善光寺)
| 大阪府八尾市垣内4-41
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| 本田善光は善光寺如来を奉じて信濃に向かう途中、当地に滞在した。住民とともに参籠していると善光寺如来が二つに分裂したので分身仏を祀ったという。融通念仏宗。
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6
| 南面山無量寿院善光寺(小山善光寺)
| 大阪府藤井寺市小山1-16-39
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| 本田善光は善光寺如来を奉じて信濃に向かう途中、のち善光寺屋敷と呼ばれる地に滞在した。そこで隆聖と知り合い、ともに祈願したところ、善光寺如来が二つに分裂したので分身仏を祀ったという。戦国時代に廃絶し、江戸時代に現在地に再建したという。浄土宗。
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7
| 如来寺(昼飯善光寺)
| 岐阜県大垣市昼飯町1104
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| 本田善光は青墓宿と赤坂宿の間の花岡山で休息し昼食を取った。記念として三尊杉を植えた。のち1195年(建久6年)、甚目寺の定尊が善光寺で分身仏を得て、当地に一寺を創建した。織田信長により焼失し、江戸時代、現在地に再建された。
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8
| 黒田善光寺
| 愛知県名古屋市東区筒井1-14-30
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| 信濃に向かう道中、尾張国黒田村で宿泊。夢中にて善光寺如来が出現し、労をねぎらった。すると善光寺如来は本田善光を背負い、信濃まで飛来したという。本田善光は分身仏を模刻して旧跡に祀ったのが当寺という。1388年(元中5年/嘉慶2年)、名古屋に移転。江戸時代初期、移転し、戦後、現在地に移転した。
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9
| 元善光寺(坐光寺)
| 長野県飯田市
| 602(推古10)-642(皇極1)
| 本多善光は、善光寺如来を麻績の自邸に祀って寺院とし、「坐光寺」と称した。
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10
| 諏訪善光寺
| 長野県諏訪市湖南4890
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| 長野に向かう途中、ここに滞在したという。
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11
| 小県・西蓮寺
| 長野県小県郡長和町古町3892
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| 長野に向かう途中、地元の住民が歓迎したという。
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12
| 本覚院
| 長野県長野市
| 642(皇極1)-
| 642年(皇極1年)、長野に遷座し、644年(皇極3年)、勅によって伽藍を造営した。現在の本善堂の場所だという。
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13
| 花岡平
| 長野県長野市
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| 一説によると、最初に鎮座したのは当地という。長野霊山寺がある。
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14
| 蓮池山往生院
| 長野県長野市
| 1197(建久8)
| 源頼朝が善光寺如来を往生院に遷座して仮本堂としたという。そのため権堂という地名が残っている。往生院は現在の西方寺に連なる。往生院も現存。
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15
| 朝日山
| 長野県長野市
| 1556(弘治2)
| 武田信玄が、川中島で村上義清と戦った時、善光寺も類焼したが、善光寺如来は炎の中から姿を現して、朝日山に移ったという。
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16
| 甲斐善光寺(定額山浄智院善光寺)
| 山梨県甲府市
| 1556(弘治2)-1582(天正10)
| 武田信玄が甲府に一寺まるごと移転した。この甲斐善光寺の地は善光寺開基本多善光の葬送の地だとされる。浄土宗。本坊三院十五庵あった。浄土宗甲州触頭。500mほど北に本多善光の墓である「善光塚」がある。
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17
| 岐阜善光寺(愛護山善光寺安乗院)
| 岐阜県岐阜市
| 1582(天正10)
| 武田信玄没後の1582年(天正10年)、織田信長が善光寺如来を岐阜に遷座した。文禄元年(1592年)から慶長5年(1600年)頃、織田信長の孫・織田秀信が岐阜善光寺を建立。安乗院と満願寺によって護持されてきたが、満願寺は廃仏毀釈によって廃寺となる。真言宗醍醐派の善光寺安乗院が現存している。明治24年火災。大正1年再建。真言宗。
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18
| (善光寺東海別院 双蓮山善光寺)
| 愛知県稲沢市
| 1582(天正10)
| 善光寺如来が岐阜から尾張に遷座する途中の宿泊地とされる。明治44年に、旭住上人が大勧進より勧請して創建。天台宗系単立。
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19
| 鳳凰山甚目寺
| 愛知県海部郡甚目寺町
| 1582(天正10)
| 1582年(天正10年)6月、信長の子・織田信雄が遷座。甚目寺の本尊観音菩薩は、善光寺本尊とともに物部守屋に捨てられた仏像3体のうちの1体であるという。ちなみにもう1体の勢至菩薩は、安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。善光堂に善光寺如来も祀る。前庭に「善光寺如来御遷座紀念塔」がある。のちの大本願上人、智慶は甚目寺の尼僧。真言宗智山派。
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20
| 鴨江寺
| 静岡県浜松市
| 1582(天正10)-1583(天正11)
| 1582年(天正10年)、徳川家康が遷座。大宝3年(703)、行基菩薩によって創建。高野山真言宗。
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21
| 甲斐善光寺
| 山梨県甲府市
| 1583(天正11)-1597(慶長2)
| 1583年(天正11年)に甲斐善光寺に還座。(甲斐善光寺に戻らなかったという鴨江寺の伝もある)
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22
| 京都・方広寺
| 京都府京都市
| 1597(慶長2)-1598(慶長3)
| 豊臣秀吉により、焼失した大仏殿大仏の代わりに、方広寺の本尊として迎えられた。天台宗。
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23
| 伝豊臣秀頼再興如来堂
| 長野県長野市
| 1599(慶長4)-1615(元和1)
| 善光寺如来の祟りを恐れた豊臣秀吉により、慶長3年に長野に戻された。翌年、秀吉の子・秀頼が再建したと伝える。
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24
| 西方寺
| 長野県長野市
| 1615(元和1)
| 正治元年、法然が創建し、永正元年5月、誠誉良公が中興したという(M45『善光寺案内』)。1615年(元和1年)3月30日、善光寺本堂が焼失。一時、西方寺本堂が仮本堂となったという。西方寺は善光寺大本願菩提所。最初の長野県庁庁舎。浄土宗。明治31年10月に第三教区宗学教校が設置されたが、明治35年に近隣に移転した(M45『善光寺案内』)。
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25
| 寛永仮堂
| 長野県長野市
| 1615(元和1)-1642(寛永19)
| 東面していた。延命地蔵西方。
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26
| 権堂
| 長野県長野市
| 1642(寛永19)-1650(慶安3)
| 寛永19年5月に焼失。再建をめぐって大勧進・大本願の争いが起こる。その間、権堂にまつられたという伝説がある。
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27
| 慶安仮堂
| 長野県長野市
| 1650(慶安3)-1666(寛文6)
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28
| 寛文仮堂
| 長野県長野市
| 1666(寛文6)-1700(元禄13)
| 慶安仮堂が荒廃したため、再建した。
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29
| 西方寺
| 長野県長野市
| 1700(元禄13)-1707(宝永4)
| 1700年(元禄13年)、善光寺本堂(寛文仮堂)が焼失。西方寺に遷座。再建のための用材が焼失して、再建事業が頓挫する。
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30
| 現在の本堂
| 長野県長野市
| 1707(宝永4)-現在
| 松代城主・真田信房が造営。
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31
| 善光寺 雲上殿
| 長野県長野市
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| 緊急時の避難先という。
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| 不捨山光明院十念寺(浜善光寺)
| 新潟県上越市
| 1554(天文23)-慶長年間
| 1554年(天文23年)、上杉謙信は、武田信玄の侵略に備えるため、善光寺如来を上越に遷座させ、十念寺を創建した。浜善光寺と呼ばれた。十念寺は現存し、浄土宗寺院である。大本願別院。世尊院の寝釈迦が出現した寺院とされる。
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| 米沢城御堂
| 新潟県米沢市
| 慶長年間~明治初期
| 慶長年間、上杉家は米沢に転封されたため、善光寺如来は米沢城内の御堂に遷座した。御堂は上杉謙信の遺骸を祀る廟所で、善光寺如来は謙信遺骸の左脇に祀られた。
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| 上杉家?
| ?
| 明治初期~昭和初期
| 米沢城は廃城となり、御堂に代わって城跡に上杉神社が建てられた。遺骸は廟所へと遷座した。詳細は不明だが、善光寺如来はこのとき上杉家に引き渡されたものと思われる。
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| 八海山法音寺
| 新潟県米沢市
| 昭和初期~現在
| 昭和初期、善光寺如来は上杉家より菩提寺であった法音寺に遷座した。法音寺は領内の真言宗寺院の筆頭で、上杉家の葬儀を取り仕切っていた。もともと米沢城内にあったが、明治初期に現在地に移転した。真言宗豊山派である。
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