ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

大坂本願寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月28日 (木)

移動: 案内, 検索
石山本願寺模型(真宗大谷派難波別院展示)

大坂本願寺(おおさか・ほんがんじ)は、摂津国大坂にあった時の本願寺蓮如が創建した坊舎が起源。第10代証如、第11代顕如の時代に御影が遷されて本願寺となり、約50年使われた。11年にわたる石山合戦の戦場となり、多数の出城や砦を擁した。隣接して生国魂神社やその神宮寺の法案寺、本願寺に臣従していた大坂興正寺があった。 跡地は現在の大阪城跡の周辺だと考えられている。大阪城蓮如名号碑が建てられている。遺構はほとんど見つかっていない。石山本願寺本願寺遷座旧跡も参照。

目次

歴史

大阪城公園
  • 1496年(明応5年)11月:蓮如が「一字の坊舎」を建てる。没後、実賢が住する。
  • 1497年(明応6年)4月:上棟式
  • 1497年(明応6年)11月:総石垣門竣工
  • 1499年(明応8年)3月25日:蓮如、山科本願寺で死去。
  • 1506年(永正3年):大坂一乱で石山の蓮能・実賢が実如と対立し、山科本願寺軍に攻められて追放された。
  • 1532年(天文1年)6月:証如が入る。
  • 1533年(天文2年):山科本願寺の焼失を受けて御影が遷座。
  • 1533年(天文2年)5月:細川家法華衆徒の軍勢の攻撃を受ける。
  • 1536年(天文5年):火災で西町・北町の140~150軒が焼失。(天文日記)
  • 1538年(天文7年):法案寺寺地を鹿苑院から借用し、実質的に敷地に組み込む。
  • 1539年(天文8年):証如、山科帰還を断念。
  • 1542年(天文11年)11月:阿弥陀堂竣工。二堂が並ぶ。
  • 1559年(永禄2年):門跡寺院となる。
  • 1562年(永禄5年)1月23日:火災で2000軒が焼失。(厳助大僧正記)
  • 1564年(永禄7年)12月26日:大火。御堂の他、900戸の民家が焼失。(言継卿記、イエズス会日本通信)
  • 1570年(元亀1年)1月:織田信長が本願寺に寺地の退去を要求。
  • 1570年(元亀1年)9月6日:顕如、全国の門徒に檄文を発す。石山合戦始まる。
  • 1570年(元亀1年)9月12日:本願寺軍が信長軍に先制攻撃を仕掛ける。開戦。
  • 1571年(元亀2年):第1回講和。
  • 1574年(天正2年):戦闘再開。本願寺軍が信長軍を攻撃。
  • 1575年(天正3年):第2回講和。
  • 1577年(天正5年):本願寺軍の中核となっていた雑賀衆が降伏。
  • 1578年(天正6年):本願寺側に付いていた毛利水軍が敗退。
  • 1578年(天正6年)11月:有岡城の荒木村重が信長に造反するが敗退。
  • 1580年(天正8年)3月:信長の斡旋で、朝廷が本願寺に対し、石山退去を命じる。
  • 1580年(天正8年)4月9日:石山合戦終わる。顕如は退去して御影を奉じて鷺森本願寺に遷座した。
  • 1580年(天正8年)8月2日:教如、開城。この時、寺内から火が起こり伽藍は焼失したという。
  • 1583年(天正11年):豊臣秀吉が大坂城の築城を始める。
  • 1585年(天正13年):大坂城、天守・本丸御殿など竣工。
  • 1615年(元和1年):大坂夏の陣。大坂城焼失。
  • 1620年(元和6年):藤堂高虎が徳川家の大坂城再建を開始。
  • 1622年(元和8年):天守が竣工。
  • 1929年(昭和4年):「蓮如上人碑」建立。
  • 1931年(昭和6年):大阪城復元天守閣竣工。

境内・関連旧跡

石山本願寺模型・真宗大谷派難波別院展示-03.jpeg

寺内六町

石山本願寺模型・真宗大谷派難波別院展示-02.jpeg
  • 南町
  • 北町
  • 西町
  • 新屋敷
  • 清水町
  • 北町屋

画像

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール