ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

平安神宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月25日 (木)

移動: 案内, 検索
平安神宮
へいあん じんぐう
Heian-jingu (9).jpg

東神苑

概要 平安京を代表する天皇を奉斎する神社。
奉斎 桓武天皇、孝明天皇
(土岐昌訓論文)
所在地 京都府京都市左京区岡崎西天王町
所在地(旧国郡)
所属(現在) 神社本庁
格式など 官幣大社別表神社勅祭社
関連記事 桓武天皇旧跡


目次

概要

平安神宮(へいあん・じんぐう)は、京都府京都市左京区岡崎にある平安京を記念する霊社。平安京の最初と最後の天皇である桓武天皇孝明天皇を祀る。官幣大社別表神社勅祭社。大極殿を模した社殿がある。境内に天王塚陵墓参考地がある。


歴史

岩倉具視の創建案

1929年(昭和4年)建設の大鳥居

最初に平安京を記念するために桓武天皇奉斎神社の創建を計画したのは岩倉具視だった。右大臣岩倉具視は1876年(明治9年)、京都府から京都御所内に桓武天皇から孝明天皇の歴代天皇を祀る神社の創建の請願を受けている。これが岩倉の頭に残っていたのかどうかは分からないが、最晩年の1883年(明治16年)に「京都皇宮保存に関する建議」を提出。この案の中に「即位礼、大嘗祭、立后は京都で行うこと」、賀茂祭の復興、石清水祭の復興とともに桓武天皇奉斎神社の創建が含まれていた。 岩倉具視の意を受けて、宮内省がかなり具体的な案を作成していた。この時点で名前を「平安神宮」とし、社格を「官幣大社」とすることが計画された。鎮座地を京都御所の仙洞御所とし、社殿に旧賢所を用い、神霊は皇霊殿から分霊することとし、さらに賀茂祭のような勅使参向の例祭の実施を検討していた。図案はもちろん、予算や人員なども計画されており、今すぐ実行にとりかかることができるような状態であったが、岩倉具視が同年7月20日に死去したため、凍結された。 またこの計画は、地域住民や自治体からの請願がなく、社寺行政担当の内務省ではなく、宮内省主導で計画されるなど異例の計画で、また天皇を祀る神社の創建も盛んでない時期であった。時機に合わず、岩倉具視の独断で進められたことから、関係部署との齟齬があり、計画がお蔵入りになったとも考えられている。

平安遷都千百年記念祭と平安神宮の創建

内国勧業博覧会会場と平安神宮

明治20年代、1894年(明治27年)は794年(延暦13年)の平安遷都から千百年になることから、平安遷都を記念する機運が高まり、「紀念祭協賛会」が設置されていた。ところが政府は第四回内国勧業博覧会の京都での実施を1895年(明治28年)と内定していた。そこで、これに合わせて、京都府は、1895年(明治28年)を「桓武天皇が初めて大極殿にて元日拝賀を受け、平安京の設備が整備されてから千百年」として、「平安御奠都千百年紀念祭」の実施を政府に請願した。1892年(明治25年)のことである。このとき、桓武天皇を祭り、祭典を実施する案が盛り込まれた。 1893年(明治26年)、帝国議会で京都での内国勧業博覧会の実施が決議されると、京都府は紀念祭の具体案のなかで、平安京大内裏大極殿の跡地に、大極殿を半分か三分の一の大きさで復元し、「平安宮」という桓武天皇を祀る神殿とすることを提案した。発案者は湯本文彦であったと考えられている[1]。しかし、大極殿跡にあたる千本丸太町は市街地で狭隘なため、内国勧業博覧会の会場である岡崎を建設地とし、会場の中心となる「紀念殿」として建設することとした。まもなく京都府は伊東忠太に設計を依頼した。

1893年(明治26年)9月3日、内国勧業博覧会の「紀念殿」として地鎮祭が盛大に行われた。この時点では、博覧会期間中のみの施設であって、どうやら正式な「神社」として創建することは考えられていなかったらしい。 紀念祭協賛会は、地鎮祭の直後、大極殿建設の計画を拡張して、桓武天皇を祀る神社とし、「平安神社」と称すことを提案した。宮内省と調整したところ、10月には社格を官幣大社とし、名称を平安神宮とし、さらには鎮座祭を1890年(明治23年)創建の橿原神宮に準じて行うことの内報がもたらされた。

1894年(明治27年)1月、改めて「平安神社創立発起人総代」が政府に請願書を提出し、2月に創立許可が正式に出た。7月には正式に内務省が社格と名称を発表した。工事は着々と進められ、1895年(明治28年)1月に竣工した。3月15日に鎮座祭が行われた。

時代祭の創始

内国勧業博覧会の会期は1895年(明治28年)4月から7月までであった。明治天皇の臨席を仰いで「平安奠都千百年紀念式典」を4月30日に実施する予定であった。しかし、時に日清戦争の真っ只中で、天皇は広島大本営に滞在。過労により延期となった。そこで平安奠都の日である10月22日を替わりの日程とした。式典は10月22日から26日まで行われ、その奉祝行事として10月25日に実施されたのが「時代風俗行列」であった。この行列が翌年10月22日に時代祭として行われるようになった。

孝明天皇の合祀

長岡天満宮に譲渡された旧本殿

1925年(大正14年)、帝国議会で孝明天皇の業績を称え、京都に神宮を創建することが建議され、決議されたが、具体的な動きに繋がらなかった。1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位にあたって、即位式と大嘗祭が京都御所で実施されることを機会として、京都府は「孝明天皇聖徳奉彰会」を設立したが、記念誌を発行したのみであった。 1937年(昭和12年)、徳富蘇峰が「明治七十年」と題した記事を発表し、孝明天皇奉祀を説いて、世論が動いた。5月、京都市議会が平安神宮に孝明天皇の合祀を政府に請願した。まもなく了承され、1938年5月1日、昭和天皇は祭神増加を命じた。

このため、本殿を造営し、合祀のために東本殿と西本殿に分けることとなった。同年、工事が始まった。旧本殿は長岡天満宮に譲渡された。

紀元二千六百年の1940年(昭和15年)10月17日、桓武天皇の東本殿への遷座祭が実施された。 19日、孝明天皇の西本殿への鎮座祭が行われた。御神体は勅使の掌典の庭田重行が東京から捧持。

勅祭社列格と戦後の再建

  • 1945年12月15日:勅祭社となる(「現在勅祭社一覧」)。
  • 1967年1月30日:孝明天皇100年祭。高松宮、宮内庁次長ら参列。
  • 1971年1月6日:東西本殿、内拝殿、祝詞殿など焼失。
  • 1974年3月15日:正遷座祭。

境内

大極殿
  • 本殿:
  • 拝殿(大極殿):
  • 神門(応天門):
  • 白虎楼:
  • 蒼龍楼:
  • 神楽殿:
  • 額殿:
  • 建国記念之碑:
  • 天王塚陵墓参考地:蒼龍楼北側の廻廊の東側に位置する。
  • 遥拝所:陵墓参考地のそばにある。
  • 祓所:蒼龍楼東側の廻廊内にある。
  • 地主社:中神苑の池の北東にある。

組織

宮司

平安神宮歴代宮司
代数 名前 生没 在職 略歴
1 壬生基修 1835-1906 1895-1897 伯爵壬生家当主。尊攘派公卿。七卿落ちの一人。庭田重基の三男。壬生道吉の養子。1835年(天保6年)生。1858年(安政5年)従四位下。条約勅許問題で、八十八卿列参事件に参加。1863年(文久3年)の8月18日の政変で京都を脱出。長門、太宰府に下向する。1867年(慶応3年)12月、帰洛。1868年(明治1年)6月、戊辰戦争で会津征討越後口総督の参謀を務める。新政府では越後府知事、東京府知事、山形県権令、元老院議官、貴族院議員などを歴任。1884年(明治17年)子爵となり、1891年(明治24年)伯爵となった。1895年(明治28年)2月16日から1897年(明治30年)3月10日まで平安神宮宮司。1906年(明治39年)3月6日死去。72歳。墓所は二尊院多磨霊園(?)。変名は万治修一郎。
2 冷泉為紀 1854-1905 1898-1898 神宮大宮司。伯爵冷泉家当主。1898年(明治31年)2月7日に平安神宮宮司となるが、まもなく同年6月27日に伊勢神宮宮司(のち大宮司)。(略歴は、伊勢神宮#組織を参照)
3 三室戸和光 1842-1922 1898-1905 神宮大宮司。子爵三室戸家当主。1883年(明治16年)京都御所殿掌。1898年(明治31年)10月19日、平安神宮宮司。1905年(明治38年)12月9日に神宮大宮司に転任。(略歴は、伊勢神宮#組織を参照)
4 日野西光善 1849-1923 1905-1913 子爵日野西家当主。日野西延栄の子。1849年(嘉永2年)生。1863年(文久3年)従五位下。1867年(慶応3年)従五位上。1873年(明治6年)8月14日、教導職少教正。同年9月8日から1877年(明治10年)6月11日まで白峰宮宮司。1877年(明治10年)10月24日、敢国神社宮司。1883年(明治16年)2月20日に豊国神社宮司に就任。1884年(明治17年)7月8日、子爵。1885年(明治18年)3月4日、白峰宮宮司に再任。同年4月21日、豊国神社宮司に再任。1887年(明治20年)4月19日、梨木神社宮司を兼務。同年、正五位。1890年(明治23年)3月15日、四條畷神社宮司を兼務。同年7月1日、本職兼職とも退任。16日、貴族院議員。1896年(明治29年)皇典講究所幹事長。1903年(明治36年)従三位。1905年(明治38年)12月19日平安神宮宮司。正三位。1913年(大正2年)2月6日、厳島神社宮司となるが、赴任せず、老齢のため固辞して3月27日、退任。1923年(大正12年)死去。墓所は金戒光明寺
5 青木陳実 1854-1918 1913-1916 華族以外で初の就任。下野国出身の国学者。1913年(大正2年)2月6日、平安神宮宮司。1916年(大正5年)10月2日、賀茂別雷神社宮司。(略歴は宮崎神宮#組織を参照)
6 杉谷正隆 1865-1945 1916-1925 熊本県山鹿の大宮神社社家の出身。1865年(慶応1年)生。1878年(明治11年)神宮教院に学ぶ。1886年(明治19年)皇典講究所卒。1887年(明治20年)皇典講究所講師。1888年(明治21年)長野県皇典講究分所講師。1890年(明治23年)東京府高等女学校教師。1894年(明治27年)5月、玉前神社宮司。同年7月27日、安房神社宮司。1899年(明治32年)浅間大社宮司。富士山6合目より上の境内地編入を実現。1902年(明治35年)7月、氷川神社宮司。1911年(明治44年)3月、香椎宮宮司。仲哀天皇合祀を実現。1916年(大正5年)10月2日、平安神宮宮司。1925年(大正14年)2月12日から1929年(昭和4年)3月5日まで八坂神社宮司。のち乃木神社社司。1945年(昭和20年)死去。著書『官幣大社香椎宮境内及附近之図』、『家庭歌訓修身百首』[1]、『類題歌集』[2]
7 当山亮道 ?-1936 1925-1936 新潟県新屋敷の出身。神宮奉斎会新潟本部長。皇典講究所勤務。函館八幡宮宮司、都農神社宮司を歴任(?)。1907年(明治40年)4月25日、駒形神社宮司。1910年(明治43年)12月28日、函館八幡宮宮司。1920年(大正9年)5月26日、三島神社宮司。1925年(大正14年)2月12日、平安神宮宮司。1936年(昭和11年)1月17日、在職で死去。著書。『古事記通解』[3][4]、『神勅勅語解義』[5]。宝生流を学ぶ。
8 加藤直久 1875-1937 1936-1937 富山県出身。1875年(明治8年)生。1900年(明治33年)東京帝国大学卒。1920年(大正9年)11月19日、熱田神宮権宮司。日光二荒山神社宮司。1931年(昭和6年)6月、生田神社宮司。1936年(昭和11年)1月31日、平安神宮宮司。1937年(昭和12年)9月15日、在職で死去。
9 寺田密次郎 1885-? 1937-1946 静岡県出身。1885年(明治18年)生。国学院大学卒。1921年(大正10年)3月2日、伊佐須美神社宮司。1932年(昭和7年)4月16日、札幌神社宮司。札幌招魂社初代受持神官。1934年(昭和9年)4月11日、出羽神社宮司。1937年(昭和12年)9月28日から1946年(昭和21年)3月15日まで平安神宮宮司。著書『羽黒山古鏡図譜』。
10 徳大寺実厚 1887-1970 1948-1960 公爵徳大寺家の当主。戦後は旧華族の宮司が続く。昭和天皇侍従。掌典職掌典長(7代・10代)。1887年(明治20年)生。1902年(明治35年)学習院中等科2年修了。1905年(明治38年)東京陸軍地方幼年学校卒。1929年(昭和4年)従四位。1931年(昭和6年)宮内省式部職式部官。1932年(昭和7年)侍従。1937年(昭和12年)襲爵。1942年(昭和17年)従三位。1945年(昭和20年)宮内事務官を兼任。1946年(昭和21年)2月25日から1946年(昭和21年)8月12日まで掌典長。御歌所長も兼ねる。正三位。1948年(昭和23年)12月15日から1960年(昭和35年)11月9日まで平安神宮宮司。1960年(昭和35年)11月10日から1968年(昭和43年)9月10日、掌典長再任。1970年(昭和45年)3月15日死去。
11 室町公藤 1893-1965 1961-1965 伯爵室町家の当主。掌典長9代。室町公大の長男 1893年(明治26年)生。1907年(明治40年)襲爵。1914年(大正3年)学習院高等科卒。1920年(大正9年)宮内省掌典。1932年(昭和7年)7月、大宮御所伺候。1959年(昭和34年)5月21日から1960年(昭和35年)11月10日まで掌典長。1961年(昭和36年)3月31日、平安神宮宮司。1965年(昭和40年)12月13日、在職で死去。
12 小松輝久 1888-1970 1966-1970 侯爵小松家初代。北白川宮能久親王の第四王子。輝久王。1888年(明治21年)生。海軍兵学校卒。海軍大学校卒。1908年(明治41年)貴族院議員。1910年(明治43年)7月20日、臣籍降下して侯爵小松家を創設する。同年、海軍少尉。1940年(昭和15年)海軍中将・旅順要港部司令官。1943年(昭和18年)佐世保鎮守府長官。1944年(昭和19年)海軍兵学校校長。1948年(昭和23年)BC級戦犯となり収監される。1966年(昭和41年)9月30日、平安神宮宮司。1970年(昭和45年)11月5日、在職で死去。
13 三条実春 1913-1990 1971-1990 旧公爵三条家の当主。三条公輝の子。三条実美の孫。1913年(大正2年)生。1938年(昭和13年)東京帝国大学仏文科卒。厚生省勤務。1942年(昭和17年)陸軍中尉。1945年(昭和20年)、襲爵し貴族院議員。1948年(昭和23年)本郷薬局取締役。1951年(昭和26年)貞明皇后大葬儀祭官。1952年(昭和27年)掌典職。1961年(昭和36年)10月3日、春日大社宮司。1971年(昭和46年)8月31日、平安神宮宮司。建勲神社宮司を兼務(1986年(昭和61年)12月11日まで)。1980年(昭和55年)京都府神社庁長。京都神社雅楽会会長、霞会館理事を歴任。1988年(昭和63年)神社本庁長老。1990年(平成2年)6月30日、在職で死去。
14 九条道弘 1933-2017 1991-2017 旧公爵九条家の当主。1933年(昭和8年)生。1957年(昭和32年)関西学院大学卒。文化放送に勤務。1973年(昭和48年)神職資格取得。同年、小石川大神宮に奉職。1984年(昭和59年)伊勢神宮禰宜。報賽部長、祭儀部長を歴任。1991年(平成3年)2月1日、平安神宮宮司。2017年(平成29年)4月30日退任。同年9月16日、在職で死去。83歳。藤裔会会長。
15 本多和夫 1949- 2018-2021 1949年(昭和24年)生。1975年(昭和50年)国学院大学神道学専攻科修了。同年平安神宮に奉職。2015年(平成27年)権宮司。2017年(平成29年)5月、宮司代務者。2018年(平成30年)7月1日から2021年(令和3年)11月30日まで平安神宮宮司。
16 鷲尾隆久 1957- 2021- 旧伯爵鷲尾家の当主。1957年(昭和32年)生。慶応義塾大学卒。一般企業勤務。2016年(平成28年)、大阪国学院修了。同年、春日大社に奉職。2019年(令和1年)国学院大学神道学専攻科修了。2020年(令和2年)4月、平安神宮禰宜。2021年(令和3年)12月1日、平安神宮宮司。


平安神宮社殿(国土地理院空中写真より)
平安神宮(国土地理院空中写真より)
平安神宮と岡崎地域(国土地理院空中写真より)

画像

参考文献

  • 所功 平成8『京都の三大祭』角川選書
  • 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』

脚注

  1. 所功による
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール