ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

明治天皇大喪関連旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月27日 (日)

明治天皇大喪から転送)
移動: 案内, 検索
明治天皇大喪関連旧跡
明治天皇大喪B0101.jpg

青山葬場殿

  


目次

概要

青山葬場殿(現在の神宮外苑)

明治天皇大喪(めいじてんのう たいそう)は明治天皇の葬儀である。 近代初めての天皇の葬儀である。ただし、皇族の葬儀はたびたび行われていたし、皇族や高官の死去にあたっては国葬がたびたび行われていた。1897年(明治30年)には英照皇太后の大喪が行われていた。明治天皇の大喪はそれらの延長線上にあるといえる。神葬祭(神式の葬儀)として執行されたこと、大規模な仮設の葬場を設けたこと、国民を動員して行われたことなどの江戸時代とは異なる特徴は後世の模範となったが、上述の葬儀が前例となったものでもあるといえる。

祭儀は、宮中、葬場殿、陵所の三箇所で行われた。葬場殿および陵所のみが注目されがちであるが、宮中においても各種祭儀が行われていた。大喪といえば、「斂葬の儀」(9月13日~15日)までを着目することが多いが、一周年祭まで各種の祭儀が行われた。宮中では、「斂葬の儀」以前において、殯宮を中心とする祭祀が行われた。また「斂葬の儀」以降も権殿を中心とする祭祀が行われた。その祭祀は宮中三殿に継承され、現在も続いている。葬場殿は、東京の青山練兵場跡に設けられた。現在の明治神宮外苑である。陵所は遺言により京都の伏見桃山に設けられた。明治天皇は京都に葬られた最後の天皇となった。陵所の祭祀は現在も行われている。

民間からは東京に陵所を設けることを主張する意見が出ていた。しかし、実現しなかったため、明治天皇を祀る神社の創建に方向転換し、明治神宮の創建につながった。

経過

1912年(大正元年・明治45年)7月30日に明治天皇は崩御。9月13日に東京青山で葬儀が行われ、鉄道によって京都に移御して、15日、京都の伏見桃山に埋葬された。また9月13日に明治天皇の神霊を祀る権殿が宮中に鎮座した。1913年(大正2年)7月30日に一周年祭が行われた。一周年祭ののち、権殿は宮中の皇霊殿に合祀された。

明治天皇崩御

明治天皇は、明治45年7月30日0時43分に崩御したとされる。しかし、実際は29日10時40分ごろに崩御したことが知られている(『財部彪日記』、『原敬日記』。当時から報道されていた事項で隠された話でもないという。)。この処置は、帝国憲法の規定に従って、新帝践祚および改元の手続きを、崩御後「ただちに」行う必要があり、日付をまたいで行うわけにはいかなかったためであったと推測されている。

崩御直後、東京の有力者のあいだでは、東京に陵墓造営を強く望む主張がなされた。しかし、明治天皇の生前の意思によって、京都に埋葬することとなったという。1903年(明治36年)の京都行幸の際、皇后と京都の今昔を話しているときに、急に思い立って「朕が百年の後は必ず陵を桃山に営むべし」と述べたと言われている(『明治天皇紀』1912年(大正1年)8月6日条)。これによって明治天皇陵の東京造営は断念されたが、この主張は、のちにかたちを変えて明治神宮創建の計画になる。

当時は、皇室喪儀令や陵墓令はまだ制定されておらず、大喪と明治天皇陵の造営は超法規的な措置であったという。

大喪使の設置

大喪使 祭官等一覧
祭官長(勅任待遇)

公爵 鷹司煕通

祭官副長(勅任待遇)
伯爵 正親町実正
伯爵 万里小路通房

祭官(奏任待遇)
伯爵 大原重朝
伯爵 勧修寺経雄
伯爵 飛鳥井恒麿
子爵 堤功長
子爵 長谷信成
子爵 裏松良光
子爵 藤井行徳
子爵 久世通章
子爵 唐橋在正
子爵 野宮定殻
子爵 大宮以季
子爵 勘解由小路資承
子爵 町尻量弘
子爵 石野基道
子爵 今城定政
男爵 藤枝雅之
男爵 正親町季董
   萩原厳雄

祭官補(判任待遇)

児玉完蔵
押小路師保
鎌田幸雄
鎌田正憲
北村信篤
宇野国太郎
松井定克
斎藤久次
内山耕三郎
原忠道
韮沢幾蔵
木村義長
寺西三吉
岡本守経
太田壮二郎
淵川忠太郎
中沢甚三郎
松井錞之助
前島富太郎
山内豊寧
伊藤三郎
敷島義彦
伊丹寅治
伊都癸米一
早川政吉

明治天皇崩御の7月30日、大正天皇が践祚するとともに、大喪使官制(大正元年勅令第1号)が公布され、大喪使が設置された。大喪使は大喪を司る官庁であり、大喪を行うときのみ、臨時に設置されるものである。英照皇太后の大喪につづいて、二度目の設置である。事務所は、宮城内に設置された。

大喪使には、総裁、副総裁、事務官、書記および祭官長、祭官副長、祭官、祭官補が置かれた。総裁には伏見宮貞愛親王が就任し、副総裁には宮内大臣伯爵渡辺千秋が就任した。

評議所をはじめ、総務部、儀式部、山作部、主計部、工営部、用度部、鉄道部の各部署が設けられた。儀式部は祭典を司り、山作部は陵墓玄室の造営を担当し、工営部は、宮城関連の施設の設営、青山葬場殿の設営、桃山御陵の造営を担当した。鉄道部は、仮停車場の設営および鉄道による霊柩遷御を担当した。儀式部に藤波言忠、山作部に山口鋭之助、工営部長に片山東熊(山作部も兼務)、工営部に木子幸三郎が任命されていた。このほか、福羽逸人や佐伯有義、水野錬太郎などの名も見える。

祭官長には公爵鷹司煕通(子の鷹司信輔は明治神宮宮司を務める。)が任命され、祭官副長に伯爵正親町実正、伯爵万里小路通房が任命された。祭官には伯爵大原重朝など華族を中心に18名が任命された。

大喪準備

建造中の葬場殿

大喪使が設置されて三日目の8月1日には、早くも大喪の場所と陵所の場所が内定された。大喪は青山練兵場で行うこととされ、陵所は京都の伏見桃山に造営されることとなった。2日から4日にかけて閑院宮と片山東熊ら大喪使職員による伏見桃山の視察が実施された。5日には青山練兵場の視察が行われた。6日には以上のことが正式決定とされ、合わせて大喪期日が発表された。大喪は9月13日から15日にかけて行うこととされた。大喪が三日間に渡るのは、葬場である東京から、陵所である京都に霊柩を遷御する必要があったためである。また、この日付の選定には、50日祭が一つの目安となったのではないだろうか。 21日、臨時に召集された第29回帝国議会にて115万円の大喪費予算が可決された。8月27日には、「明治天皇」の追号が決定された。

8月19日、陵所の地鎮祭が行われ、稲荷神社(伏見稲荷大社)宮司大貫真浦が奉仕する。9月5日に吉田白嶺による埴輪4体が完成した。平安時代の武官を型どったもである。9月6日には、伏見総裁宮の筆による「伏見桃山陵」の字が刻まれた御蓋石および陵碑が完成。9月11日、陵所工事竣功し、同日、稲荷神社宮司大貫真浦の奉祀で祓除式が行われた。翌日には埋棺前一日祭を実施した。

その他、必要な設備の調進が進められ、特に宮城から青山葬場殿まで移御するための轜車、青山葬場殿から青山仮停車場まで移御するための軌道、東京の青山仮停車場から京都の桃山停車場まで移御するための霊柩車両、桃山停車場から祭場殿まで移御するための葱華輦、祭場殿から御須屋まで移御するためのインクライン、停車場で用いる回転台など、コンクリートが詰められて大変な重量となる霊柩の移御に関わる設備の調進は慎重に進められた。

斂葬までの祭祀

黒田清輝「明治天皇殯宮の図」

崩御の30日、常御所をシン殿とし、尊骸を奉安する。31日には拝訣式が行われ、天皇皇后皇太后ほか皇族や、総理大臣を始めとする政府高官が最後の拝謁を行った。続けて御舟入式が行われ、尊骸が霊柩に奉安された。8月8日には十日祭が行われた。これは内的な儀式とされ、祭祀に大喪使や掌典は関与していない。8月13日、祭官長のもと、殯宮移御の儀が行われた。霊柩を宮殿「桐の間」に移御し、そこを殯宮とした。翌日には大喪使、政府高官、華族など参列しての殯宮移御後一日祭が行われた。このあと20日祭(8/18)、30日祭(8/28)、40日祭(9/7)が行われた。

大喪の当日、正殿「桐の間」に新たに設けられた権殿において霊代奉安の儀が行われた。霊代安鎮詞が唱えられ、明治天皇霊の鎮座が行われた。権殿は一年祭まで宮中に設けられる臨時の神殿で、一年祭を過ぎたのちは皇霊殿に合祀される。て霊代奉安の儀のあと、続けて、殯宮祭が行われた。

斂葬

葬場殿の儀

青山葬場殿 全景
青山葬場殿 葬場殿

9月13日、明治天皇の霊柩は殯宮から轜車に移御されて、牛に引かれて青山葬場殿を目指した。その鹵簿は5キロにもおよび、天皇名代の閑院宮載仁親王を始めとして、伏見総裁宮などの皇族、李王名代の李公、その他、政府高官、国会議員などが続いた。先頭は19時20分ごろ出発、轜車が宮城を発ったのが20時ちょうどであった(これに合わせて乃木希典は殉死した)。轜車が青山葬場殿に到着したのが22時40分であり、鹵簿最後尾が第一鳥居を通過したのが23時40分であった。これより先、大正天皇は轜車が宮城から出発するのを見送ったあと、皇后とともに先に青山葬場殿に行幸して御幄舎に到着。ただし、昭憲皇太后は行啓しなかった。

轜車が葬場殿に入御すると、一旦幔門が閉じられた。轜車を葬場殿に奉安ののちに再び開けられると、天皇が御幄舎に出御して、葬場殿の儀の祭典が始まった。御饌21台を献じ、幣物を供えた。祭官長が祭詞をあげ、天皇が参拝して、誄詞を奏上した。14日0時20分、式典は終わり、幔門は閉じられた。霊柩は、葬場殿から青山仮停車場まで、仮設の軌道のうえを手押車で移御し、霊柩車両に乗御した。霊柩列車には、霊柩車両の前後の車両に大喪使職員、文武高官が搭乗した。午前2時に青山仮停車場を出発、京都に向かった。天皇、皇后は霊柩車両を見送ったあと、まもなく還幸啓した。

陵所の儀

陵所に向かう鹵簿
伏見桃山陵 祭場殿
伏見桃山陵 御須屋 直下に玄室がある

霊柩列車は、品川駅を3時に出発し、静岡を午前8時、名古屋を正午、大垣を13時43分に通過、16時30分に京都駅に到着した。そして桃山駅には17時10分に到着した。

桃山駅では、先着した高官とともに104人の八瀬童子が霊柩を出迎えた。八瀬童子は、後醍醐天皇以降、天皇の輿丁を担ってきた集団で、大喪における輿丁もたびたび任じられてきたという。霊柩は霊柩車両より桃山駅仮屋内に移御し、そこで葱華輦に遷座した。18時40分、52名の八瀬童子に奉持され仮屋を出発した。19時20分、御陵正門に入り、19時30分、大鳥居を通って、祭場殿に着御した。霊柩は葱華輦より祭場殿に移御すると、そのまま傾斜軌道で玄室直上の御須屋に移御された。天皇名代閑院宮、伏見総裁宮を始め、皇族が隣席するなか、霊柩は玄室に奉安された。


霊柩の四方に大量の石灰を詰め、その上に霊鏡と宝剣が奉安された。中蓋をして松脂で固められ、外蓋をしてその四方木炭が詰め込まれた。七つの御蓋石(一つ750貫)で覆い、コンクリートが流し込まれた。同時に埴輪および陵誌が納められ、また沓が納められた。ここで参列の皇族は浄砂を振りかけた。そして盛土が行われ、仮設物が撤去されて、15日午前7時に斂葬は完了した。傾斜軌道のみは一般拝観のために残された。

続けて、8時半頃より陵所の儀が執行され、天皇皇后皇太后各名代をはじめ、皇族や高官など1000名が参列した。天皇名代閑院宮は御告文を奏上し、各員拝礼が行われた。

斂葬後

霊柩が斂葬された9月15日、宮内省告示第6号にて陵号が発表されて、「伏見桃山陵」と命名された。また大喪後より青山葬場殿の一般拝観および、伏見桃山陵の一般参拝が許可された。11月始めまで行われた。11月6日の百日祭においては、宮中にて権殿百日祭が、伏見桃山陵にて陵所百日祭が行われた。陵所百日祭には天皇が行幸し、参拝を行った。百日祭を過ぎた11月8日に大喪使は廃止された。ただし、引き続き祭官は置かれた。

大喪使の廃止をもって大喪は終わったといえるが、皇室服喪令が定めるように、崩御後一年間は諒闇であり、臨時の祭祀は引き続き行われていた。1913年(大正2年)7月29日の一周年祭前日まで、権殿日供の儀および山陵日供の儀は祭官によって毎日行われた。7月30日、明治天皇一周年祭が山陵と権殿で執行された。翌日には大祓が行われた。そして8月2日、明治天皇の神霊が宮中三殿の皇霊殿に遷座し、合祀された。

明治天皇大喪祭儀一覧

月日 祭儀(場所)
1912年(大正1年)8月13日 殯宮移御の儀(宮中)
8月13日 殯宮移御後常御所祓除の儀(宮中)
8/14~9/12 殯宮日供の儀(宮中)
8月14日 殯宮移御翌日祭の儀(宮中)
8月18日 殯宮二十日祭の儀(宮中)
8月28日 殯宮三十日祭の儀(宮中)
9月7日 殯宮四十日祭の儀(宮中)
8月27日 追号奉告の儀(宮中)
8月19日 陵所地鎮祭の儀(陵所)
9月12日 斂葬前日陵所祓除の儀(陵所)
9月12日 斂葬前日殯宮拝礼の儀(宮中)
9月13日 霊代奉安の儀(宮中)
9月13日 斂葬当日殯宮祭の儀(宮中)
9月13日 轜車発引の儀(宮中)
9月13日 斂葬の儀 葬場殿の儀(青山葬場殿)
9月15日 斂葬の儀 陵所の儀(陵所)
9月16日 斂葬翌日権殿祭の儀(宮中)
9/18-7/29 権殿日供の儀(宮中)
9月16日 斂葬翌日山陵祭の儀(陵所)
9/18-7/29 山陵日供の儀(陵所)
(確認中) 倚廬殿渡御の儀(宮中)
9月17日 権殿五十日祭の儀(宮中)
9月17日 山陵五十日祭の儀(陵所)
10月(確認中) 山陵臨時祭の儀(皇太后行幸)(陵所)
11月6日 権殿百日祭の儀(宮中)
11月6日 山陵百日祭の儀(天皇行幸)(陵所)
1913年(大正2年)7月30日 一周年祭権殿の儀(宮中)
7月30日 一周年祭山陵の儀(陵所)
7月31日 一周年祭後一日大祓の儀(宮中)
8月2日 霊代奉遷皇霊殿渡御の儀(宮中)
8月2日 皇霊殿親祭の儀(宮中)

祭場

宮中

明治宮殿 車寄

現在の昭和宮殿は前の明治宮殿が東京大空襲によって焼失したため建てられたもので、戦前までは明治宮殿が使用されていた。1888年(明治21年)10月に造営された明治宮殿は、旧江戸城西の丸および山里に建てられたものである。位置は現在の昭和宮殿と変わらない。明治宮殿は、公式な場である表宮殿と、天皇の御所である奥宮殿から構成されている。両者は隣り合って接続されている。表宮殿には正殿を始め、饗宴のための豊明殿、天皇の日常の執務のための表御座所(御学問所)などがある。奥宮殿には天皇家の御常御殿がある。

シン殿

シン殿(櫬殿)(しんでん)とは御所にて霊柩を奉安する神殿である。明治天皇が崩御したのは、奥宮殿の御常御殿であった。御常御殿は現在の昭和宮殿表御座所の南方のあたりにあったと思われる。崩御後の早朝、御常御殿をシン殿として尊骸を奉安した。シン殿の祭祀は、天皇家の内儀とされ、大喪使は関与しなかった。

殯宮

黒田清輝「明治天皇殯宮の図」

殯宮(ひんきゅう)は、斂葬までの間に霊柩が奉安される神殿である。殯宮は、表宮殿正殿「桐の間」に設けられた。「桐の間」の明確な位置は確認中であるが、正殿の中心となる広間から廊下を挟んで西方にあった(昭和13『皇室事典』)。昭和宮殿の長和殿の南側あたりだと推測される。定められた日数ごとに祭典が行われた。 左右後の三面を白色帛の御壁代で囲み、正面には白色帛ならびに紐白帛の御幌と御簾が飾られる。中央には簀薦、御畳、御茵が敷かれて御座とされ、霊柩がそのうえに奉安され、後ろには御屏風が立てられた。左右には真榊と菊灯台が献じられた。また御劔が安置された。

権殿

権殿(ごんでん)とは、一周年祭まで神霊を祭祀する臨時の神殿である。大喪当日にやはり「桐の間」に権殿が設けられ、「霊代奉安の儀」を執行、明治天皇の神霊が権殿に鎮座した。定められた日数ごとに祭典が行われた。一周年祭を終えると、宮中三殿の皇霊殿に遷座、合祀された。 権殿の様子は、殯宮と同様に、左右後の三面に白色帛の御壁代を設け、前面に御幌、御簾が備え付けらたもので、内部に御浜床、御畳、御茵などで御座を設け、その上に神籬を奉安するものである。御扉があり、左右には鉱金灯籠、燈籠が献じられた。

宮中三殿・皇霊殿

宮中三殿 左端が皇霊殿

宮中三殿の一つである皇霊殿(こうれいでん)は、歴代の天皇および皇族を合祀する社殿である。天皇皇族は、崩御後一周年祭を過ぎたのちに権殿から皇霊殿に遷座して合祀されることとなっている。明治天皇の神霊も、一周年祭ののちに合祀された。

青山葬場殿


 青山葬場殿平面図と明治神宮外苑平面図
青山葬場殿 平面図  明治神宮外苑 平面図
青山練兵場

青山葬場殿(正式には葬場殿)の地はもと青山練兵場であった。なぜ青山練兵場が選ばれたのかは不詳であるが、当時、青山練兵場は大博覧会開催のための用地となっており、転用が容易であったからかもしれない。宮城からも近い場所で広大な敷地が確保できる場所であったからだということはもちろんだろう。大喪使工営部の木子の回想によると、当初、敷地内のどこに葬場殿を置くかが問題になったそうである。というのも、青山通りから入ると奥に向かって地面が低くなっている。しかし、北端の場所は再び高くなっており、鉄道線路にも近いことから、場所が決定したという。現在の聖徳記念絵画館の裏である。


青山葬場殿 全景
青山葬場殿 葬場殿
青山葬場殿 総門と第一鳥居
青山葬場殿 第一鳥居内
青山葬場殿 大幄舎

敷地面積10万坪で、中心となる内廓のみで3万坪。青山葬場殿のために建造された建造物の数は76棟で、建坪は合わせて4112坪であるという。

敷地は大きく分けて、大喪の祭場となる内廓およびそれを取り巻く外廓の二つに分かれる。外廓の左右には陸軍儀仗隊、海軍儀仗隊、外国の海軍儀仗隊の区画および、自動車や馬車の駐車場が設けられた。内廓は、さらに三つの区画に別れている。すなわち総門から第一鳥居までの区画、第一鳥居から幔門までの区画、幔幕内の区画である。一番外の区画は総門と幕によって区切られている。左右には脇門がある。そのなかに玉垣によって区切られた区画があるが、参列者のための区画である。中央に第一鳥居がある。左右にはやはり鳥居がある。なかには巨大な幄舎が左右にある。正面奥には幔門があるが、その幔門手前には第二鳥居がある。幔門は霊柩の入出御の際に閉じられるものである。幔門からの奥の区画が、祭儀の中心となる区画で葬場殿がある場所である。

次に主要施設をみると、葬場殿、膳舎、楽舎、祭官幄舎(以上、幔門内)、御幄舎、幄舎、大幄舎、便殿、休所(以上、第一鳥居内)がある。葬場殿は大喪のときに轜車を奉安する殿舎である。中心となる施設である。入母屋造の建築で、雨漏りを防ぐために柿葺きのうえに檜皮葺きがなされている。正面と左右は吹放しになっている。葬場殿の壁代の後ろに霊柩を奉安する壇がある。そして、青山仮停車場へとつながる軌道がある。大喪のときには鹵簿の大榊が葬場殿の正面左右に置かれた。葬場殿の東には膳舎、西には楽舎がある。葬場殿と膳舎は廊下で接続しており、膳舎の南には祭官幄舎があり、やはり廊下で接続している。膳舎は神饌を用意する殿舎で、楽舎は楽を奏する殿舎である。

第一鳥居内には各種の幄舎が並んでいる。御幄舎は天皇の御座所で、皇族公族、親任官の席もある。御幄舎の後方には便殿があり、廊下で繋がっている。御幄舎の向いにある幄舎は、外国名代の席である。幄舎の後方には休所があり、廊下で繋がっている。大幄舎2棟はその他の参列者の席で1万3000人を収容できるものとして設計された。桁行56間、梁間20間の巨大な幄舎である。葬場殿、幄舎などのこれらの建物は当初、ひとつの巨大な建物にする案もあったが、轜車が通ることを考えると、巨大になりすぎるので、建物を分散して建てることとしたという。このほか、中央の道には多摩川の砂利を敷き詰めており、電灯塔には幡と榊が添えられている。

起工の日は不明だが、9月9日の竣工まで擁した労働力は、大工27756人、土工14421人、手伝人夫21000人、電工5200人などであった。建設には清水組、大倉組(現・大成建設)が携わった。大喪後、11月6日まで一般拝観に供せられた。12月、葬場殿など全建造物は東京市に下賜された。その後の処置は未調査である。

のち明治天皇を祀る神社創建の議論が登場すると、青山練兵場跡は創建候補地の一つとなった。結局、青山でなく代々木御料地に創建されることとなったが、青山練兵場跡にも明治神宮附属の施設が設けられることとなった。それが明治神宮外苑である。その中心施設として聖徳記念絵画館が設けられ、その背後には明治天皇葬場殿跡の記念樹が植樹されて、現存している。

陵所・祭場殿

伏見桃山陵 全景
伏見桃山陵 祭場殿

造営前の景観は不明だが、桃山の山腹を切り開いて築造された。山陵は山腹に南面して築かれ、西方にある桃山駅から東西に伸びてつながる道路が正門となっている。山中に墳墓となる場所が設けられ、そこから一段下がったところに広大な拝所が開削された。墳墓となる場所には御須屋が建てられた。拝所は三つに区画されたようである。一番奥の区画に祭場殿が建てられた。左右に幄舎があるが、膳舎と楽舎だろうか。祭場殿手前には鳥居がある。その手前の区画には幄舎がある。一番前の区画は広大な広場となっている。なお、当初はなかったようだが、現在はその手前にさらに一般拝所が設けられた。青山葬場殿に比べて、祭場殿の資料は少なく分からない点が多い。


参考文献

  • 大喪使編 1912(大正1)『明治天皇御大喪儀写真帖』
  • 小川一真編 1912(大正1)『御大喪儀写真帖』
  • 大阪朝日新聞社編 1912(大正1)『大喪儀記録』
  • 大喪記念誌編纂所編 1912(大正1)『大喪記念誌』
  • 大喪使編 1912(大正1)『明治天皇御大喪儀写真帖』
  • 宝文館編 1912(大正1)『遥拝式作法及心得』宝文館
  • 原林之助 1912(大正1)「青山御大葬場殿建築について 幻燈説明」
  • 木子幸三郎 1912(大正1)「青山葬場殿建築談」
  • 東京市編 1913(大正2)『明治天皇御大葬奉送始末』
  • 帝国図書普及会編 1913(大正2)『明治天皇御大喪儀明細録』
  • 1913(大正2)『明治天皇霊柩奉遷並御列具輸』
  • 明治神宮奉賛会編 1926(大正15)『明治神宮外苑奉献概要報告』
  • 昭和13『皇室事典』
  • 1989(平成1)『毎日グラフ緊急増刊 昭和天皇 大喪』毎日新聞社
  • 山口輝臣 2005(平成17)『明治神宮の出現』吉川弘文館歴史文化ライブラリー ISBN 4642055851
  • 外池昇 2007(平成19)『天皇陵論』ISBN 4404034784
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%A4%A7%E5%96%AA%E9%96%A2%E9%80%A3%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール