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御影堂新善光寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月24日 (日)

滋賀・新善光寺から転送)
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京都五条の旧地付近にある「扇塚」

新善光寺(しんぜんこうじ)は、滋賀県長浜市西上坂町出雲にある、皇族ゆかりの時宗寺院。本尊は阿弥陀如来。開山の王阿(?-1305)は後嵯峨天皇の皇子と伝える。元は京都市下京区御影堂町付近にあった。かつての時宗御影堂派の拠点寺院。近代の別格本寺善光寺信仰。寺の尼や周辺の女性が作った扇は「阿古女扇」「袙扇」「御影堂扇」として知られた。通称は御影堂御影堂新善光寺五条道場。 近くに授法寺がある。

目次

歴史

滋賀県にある現在の御影堂新善光寺
  • 824年(天長1年)、檀林皇后空海を開山として嵯峨に創建。
  • 不詳:東洞院春日小路(現・中京区三本木町付近か)に移転。
  • 東河原院に移転した時、善光寺如来を奉安したので新善光寺と称した。
  • 932年(承平2年):地震被害を受け、西洞院五条(綾小路河東とも)に移転(1172年(承安2年)とも)。
  • 1178年(治承2年):焼失の後に祐寛が再建。
  • 平敦盛室の清照姫が出家して蓮華院生一房如仏と名乗り、祐寛を頼って御影堂のそばに庵を結んだ。
  • 1248年(宝治2年)夏:疫病が流行。生一房の姪に当たる按察局の産んだ後嵯峨天皇皇子の竹御所(のちの王阿)が罹患したため、生一房は祐寛の祈願した阿古女扇を贈り、それで扇ぐと熱がたちまち消えた。そのため寺中の尼が扇を作るようになったという。
  • 正嘉年間(1257-1259):疫病流行。善光寺如来の宝珠を描いた扇が諸人を救ったという。
  • 正応年間(1288-1293):隠遁していた竹御所が一遍の京都巡教の時に師事して勝法院王阿弥陀仏(王阿)と称す。一説には王阿は、心地覚心の仲介で一遍に師事したという。王阿は京都から旅立とうとする一遍に別れを惜しんで末代結縁のために御影を望んだため、一遍は水に写った自らの姿を残して「鏡の御影」とした。
  • 14世紀中期:火災で東川原別院に移転。
  • 1421年(応永28年)秋:佐女牛室町北、綾小路河東に移転。
  • 1467年(応仁1年):応仁の乱の兵火で焼失。
  • 1527年(大永7年)12月4日:焼失。
  • 1528年(享禄1年):新町通五条町北(下京区御影町)に移転。(1529年(享禄2年)とも)
  • 1538年(天文7年):兵乱で破壊される。
  • 1545年(天文14年):この時点で別の場所に移転。
  • 1587年(天正15年):五条大橋の西端、現在の下京区御影堂町に移転。(1585年(天正13年)とも)
  • 1665年(寛文5年):『京雀』に「今はわかき女房共あまたあり、髮うつくしうゆひ、けさうして扇ををりける、さしもかくれなきみ江いだう扇也」とあり、江戸時代には俗人も扇を作って売るようになる。
  • 1788年(天明8年):天明の大火で類焼。
  • 1864年(元治1年):幕末の兵火で類焼
  • 1886年(明治19年)12月23日:火災。
  • 1894年(明治27年):再建。如来堂と御影堂を一つにする。
  • 1945年(昭和20年)3月:戦時下の道路建設のため解体。この時点で浄信寺(木之本地蔵)の住職が兼務していたため、浄信寺に宝物などが移された。
  • 1965年(昭和40年)8月:遊行派乗台寺(滋賀県長浜市)跡の地蔵堂(木之本地蔵の分身仏を祀る)に復興した。(1966年(昭和41年)とも)
  • 1960年(昭和35年):旧地近くに扇塚が建てられた。

『一遍上人絵伝』御影堂本を所蔵していた。 (『日本歴史地名大系』『国史大辞典』)

子院

宝樹庵に住し明治に還俗した円山定暁から聞き取って伊藤義賢が作成した旧境内図。1933年(昭和8年)『祖典三書合本』より
  • 善光庵:与阿弥
  • 珠宝庵:香阿弥。
  • 栄樹庵:
  • 宝樹庵:
  • 自宝庵:
  • 宝寿庵:庭阿弥。
  • 養寿庵:樹阿弥。持阿弥。明治以後も境外で営業していた
  • 松寿庵:直阿弥。室樹軒?
  • 松林庵:
  • 桐林庵:重阿弥。桐林房
  • 長林庵:珠阿弥。長林房
  • 雲林庵:文阿弥。
  • 柳林庵:乗阿弥。常阿弥。想阿弥。柳林房。
  • 桑林庵:仙阿弥。宣阿弥。真阿弥。明治以後も境外で営業していた
  • 桑生庵:
  • 如松庵:
  • 方地庵:
  • 泰昌庵:龍阿弥。量阿弥
  • 久昌庵:由阿弥。田阿弥。祐阿弥
  • 永正庵:林阿弥。賢阿弥。明治以後も境外で営業していた[1]
  • 常足庵:来阿弥。
  • ?:一阿弥。
  • ?:善阿弥。
  • ?:真阿弥
  • ?:敬阿弥
  • 宝林庵:円阿弥

1697年(元禄10年)の『国花万葉記』、『京羽二重』、「末寺帳」、『京都坊目誌』

画像

組織

  • 2代目以降、男僧は連阿、尼僧は生一房と名乗った。
  • 「時宗御影堂派本山新善光寺の研究に基づく
  • 鳥辺山墓地に墓地がある。

歴代連阿

  • 1:王阿:1305年9月27日死去。
  • 2:連阿:1307年11月25日死去。
  • 3:連阿:1335年7月1日死去。
  • 4:連阿:1358年8月4日死去。
  • 5:連阿:1378年7月17日死去。
  • 6:連阿:
  • 7:連阿:1458年5月27日死去。
  • 8:連阿:
  • 9:連阿:1485年12月23日死去。
  • 10:連阿:
  • 11:連阿:
  • 12:連阿:1523年6月19日死去。
  • 13:連阿:
  • 14:連阿:
  • 15:連阿:1531年3月1日死去。
  • 16:連阿:
  • 17:連阿:1559年4月18日死去。
  • 18:連阿:1564年9月10日死去。
  • 19:連阿:
  • 20:連阿:
  • 21:連阿:1580年4月2日死去。
  • 22:連阿:1582年2月15日死去。
  • 23:連阿:
  • 24:連阿:1593年8月13日死去。
  • 25:連阿:1630年1月8日死去。
  • 26:連阿:
  • 27:連阿:
  • 28:連阿:
  • 29:連阿:
  • 30:連阿:
  • 31:連阿:
  • 32:連阿:
  • 33:連阿:
  • 34:連阿:
  • 35:連阿:1660年5月2日死去。
  • 36:連阿:
  • 37:連阿:
  • 38:連阿:某年9月25日死去。
  • 39:連阿:1686年死去。
  • 40:連阿:
  • 41:連阿:1704年2月17日死去。
  • 42:連阿:
  • 43:連阿:
  • 44:連阿:
  • 45:連阿:
  • 46:連阿:
  • 47:連阿:
  • 48:連阿艸原:1743年7月12日死去。
  • 49:連阿:1752年5月2日死去。
  • 50:連阿:
  • 51:連阿:1826年12月25日死去。
  • 52:連阿:
  • 53:連阿:
  • 54:連阿:1793年1月7日死去。
  • 55:連阿:
  • 56:連阿:1826年12月24日死去。
  • 57:連阿:
  • 58:連阿義教:1859年6月18日死去。
  • 59:連阿:
  • 60:連阿:
  • 61:連阿:
  • 62:連阿豪応:
  • 63:連阿学音:浄信寺住職。1919年5月28日死去。
  • 64:連阿学樹:浄信寺住職。

歴代生一房

  • 1:如仏:
  • 2:円仏:
  • 3:生一房:
  • 4:生一房:
  • 5:生一房:
  • 6:生一房:
  • 7:生一房:
  • 8:生一房:
  • 9:生一房:
  • 10:生一房:
  • 11:生一房:
  • 12:生一房:
  • 13:生一房:
  • 14:生一房:
  • 15:生一房:
  • 16:生一房:
  • 17:生一房:
  • 18:生一房:
  • 19:生一房:
  • 20:生一房:
  • 21:生一房:
  • 22:生一房:
  • 23:生一房:
  • 24:生一房:
  • 25:生一房:
  • 26:生一房:
  • 27:生一房:
  • 28:生一房:
  • 29:生一房:
  • 30:生一房:
  • 31:生一房:
  • 32:生一房:
  • 33:生一房:
  • 34:生一房:
  • 35:生一房:
  • 36:生一房:
  • 37:生一房:
  • 38:生一房:
  • 39:生一房:
  • 40:生一房:
  • 41:生一房:
  • 42:生一房:西仏
  • 43:生一房:
  • 44:生一房:
  • 45:生一房:

資料

古典籍

  • 『京御影堂新善光寺略縁起』:1734年(享保19年)。
  • 「御影堂新善光寺甲号明細書(乙号付加)」:時宗教務院第121号文書
  • 『古事類苑』「新善光寺」[2]
  • 『時宗王阿派本末牒』
  • 「桑林庵過去帳」:
  • 「新善光寺文書」:東京大学史料編纂所蔵
  • 『京都坊目誌』「新善光寺」[3]
  • 1921近代扇史[4]
  • 藤本利治1963「京扇子業者の集団」[5]
  • 田中緑紅1970『京の三名橋』[6]

文献

  • 伊藤義賢1933「浄土文類聚鈔(江州光延寺本)編輯記」[7]:親鸞著『浄土文類聚鈔』の最古の写本「光延寺本」は1309年(延慶2年)書写で、元は新善光寺養寿庵に所蔵されていた。1788年(天明8年)の天明の大火で焼け残った。
  • 古賀克彦1997「時宗御影堂派本山新善光寺の研究―新出史料紹介も兼ねて」『仏教史学研究』40-2[8]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BE%A1%E5%BD%B1%E5%A0%82%E6%96%B0%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA」より作成

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