ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

産霊教

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年7月24日 (日)

移動: 案内, 検索

産霊教は戦前に関東州大連市光明台にあった神道教団大社教の教師で大社教関東分院大連神社を創設した松山珵三が立教した。敗戦と共に解散した。

1909年(明治42年)10月9日、大社教関東分院の本格的な神殿を造営。大連の最初の「神社」として市民総出で奉賛したという。しかし、「国家の宗祀」である神社ではなく、民間の教派神道の教会であったため問題となり、大社教の承認を経て1910年(明治43年)5月、関東分院は大連連合町内会に引き継がれ、大連神社となった。松山珵三は初代社司を務めつつも神道のさらなる大陸布教を進めた。大社教の教義にも飽き足らず、大社教を離れ、1915年(大正4年)7月30日、産霊教を立教。1917年(大正6年)5月、大連神社社司を辞任した。

1907年(明治40年)12月、「皇道会」設立。雑誌『皇道』を発刊。 1908年(明治41年)5月、奨学園を開いた 1915年(大正4年)7月30日、産霊教を立教。神明町の自宅を本部仮事務所とした。 1917年(大正6年)5月、大連神社社司を辞任。本部を近江町に移転し、神霊を奉遷した。 1918年(大正7年)3月9日、社団法人を組織した。1918年(大正7年)関東長官より布教の認可(大連市史)。 1920年(大正9年)3月、大連市光明台に3000坪を得て12月末に教務所が竣工した。

1918年(大正7年)7月、沙河口支部を設置。10月20日に鎮祭式。 1938年(昭和13年)、光明会館竣工。 1933年(昭和8年)頃、凌水寺近くに1万坪を購入し、牟須毘共同墓地を設置。修行場や休憩所も併設した。 1943年(昭和18年)秋、松山転倒し負傷。実家に帰還。1947年(昭和22年)6月5日死去。墓地は金谷山墓地。 1889年(明治22年)2月、引揚に先立ち産霊教は解散。 (『産霊―松山珵三』)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%94%A3%E9%9C%8A%E6%95%99」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール