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紅葉山東照宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月28日 (金)

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紅葉山東照宮の立面図。ほぼ同じ頃に建造された高良大社本殿と形状や寸法が類似するという。
上野東照宮に移築された紅葉山東照宮の鳥居。

紅葉山東照宮(もみじやま・とうしょうぐう)は、江戸城の紅葉山にあった東照宮。歴代将軍の霊廟もあった。徳川家の祭祀において日光東照宮と並ぶ最も重要な神社だった。現在の宮内庁庁舎北寄りから紅葉山御養蚕所にかけて広大な敷地を締めた。二の丸東照宮とは別。紅葉山御宮。 東照宮と各霊廟は基本的に天台宗の僧侶により祭祀が行われていたが、文昭院廟のみは浄土宗の僧侶も祭祀に関与していたようだ。 京都御所賢所や、皇居宮中三殿と比することができるだろう。明治以後、久能山東照宮牧之原東照宮に祀られたが東京の徳川家邸に奉遷された(千駄ケ谷東照宮)。現在も徳川宗家が奉斎している可能性がある。

目次

祭神

  • 東照宮の祭神は日光東照宮と同じく東照大権現、山王権現、日光権現(摩多羅神のことと思われる)という(祠曹雑識)。燈籠銘にも「東照三所権現」とある。徳川家康像は木像[1]
  • 台徳院廟には他の将軍の合祀がされず、特別扱いされたことは注目できる。
  • 7代家継以降、増上寺に埋葬された将軍は文昭院廟に合祀された。
  • 吉宗、家治、家基、家斉、家定の合祀先の社殿の選定基準は不明。寛永寺の霊廟とは一致しないようだ。
諡号 生没年 在職年 奉祀社殿 備考 墓所
1 徳川家康 安国院
東照大権現
1542-1616 1603-1605 東照宮 東照宮には紅葉山東照宮の御神体の他、二の丸東照宮の御神体も合祀された。 日光
2 徳川秀忠 台徳院 1579-1632 1605-1623 台徳院廟
3 徳川家光 大猷院 1604-1651 1623-1651 大猷院廟 日光
4 徳川家綱 厳有院 1641-1680 1651-1680 厳有院廟 上野
5 徳川綱吉 常憲院 1646-1709 1680-1709 常憲院廟 上野
6 徳川家宣 文昭院 1662-1712 1709-1712 文昭院廟
7 徳川家継 有章院 1709-1716 1713-1716 文昭院廟 以後、合祀。
8 徳川吉宗 有徳院 1684-1751 1716-1745 常憲院廟 上野
9 徳川家重 惇信院 1711-1761 1745-1760 文昭院廟
10 徳川家治 浚明院 1737-1786 1760-1786 大猷院廟 上野
徳川家基 孝恭院 1762-1779 厳有院廟 10代徳川家治の長男。 上野
11 徳川家斉 文恭院 1773-1841 1787-1837 大猷院廟 上野
12 徳川家慶 慎徳院 1793-1853 1837-1853 文昭院廟
13 徳川家定 温恭院 1824-1858 1853-1858 大猷院廟 上野
14 徳川家茂 昭徳院 1846-1866 1858-1866 文昭院廟

歴史

創建

現在の皇居内の紅葉山(国土地理院空中写真より)
江戸城内図(部分)。江戸城本丸・桜田門・坂下門との位置関係が分かる
紅葉山絵図。上が北

徳川家康は紅葉山に北の丸から移して山王社を祀り江戸城の鎮守としたがまもなく隼町に奉遷した。この山王社はさらに移転して現在の永田町の日枝神社となっている。 また天神が祀られていたともいい、平河天満宮の起源とする説がある。 これらとは別に稲荷神社があったともいい、東京都内各地にある千代田稲荷神社と称する稲荷社がその後身ともいう。

徳川秀忠が東照宮を紅葉山に創建。1618年(元和4年)閏3月17日、仮殿を建て鎮座(続史愚抄)。同年4月17日正遷宮(続史愚抄)。 1622年(元和8年)、紅葉山東照宮とは別に天主台の下に本丸東照宮が鎮座。1635年(寛永12年)、本丸東照宮は廃され浅草寺に遷されたが、この時点までに二の丸東照宮が成立していたという(1637年(寛永14年)に本格造営)。

社殿整備

  • 1632年(寛永9年)1月24日:2代徳川秀忠(台徳院)が死去。
  • 1632年(寛永9年)10月23日:台徳院廟竣工(祠曹雑識)。翌日、将軍・諸大名が参詣(祠曹雑識)。御仏殿奉行は永井信濃守。
  • 1639年(寛永16年):紅葉山文庫と具足蔵を設置。
  • 1642年(寛永19年):三方楽所(宮中楽所南都楽所天王寺楽所)から数人ずつが移って紅葉山楽所が置かれた。
  • 1644年(正保1年)11月16日:紅葉山東照宮が修復され、正遷宮。翌日将軍社参。
  • 1645年(正保2年)4月23日:幼年の徳川家綱、元服にあたり紅葉山参詣。大規模な行列。千妙寺亮運が拝礼・奉幣・頂戴を奉仕。元服参詣の初め。
  • 1645年(正保2年):東照大権現に宮号宣下。東照宮を称するのは厳密にはこの時以降。
  • 1651年(慶安4年)4月20日:3代徳川家光(大猷院)死去。
  • 1653年(承応2年):東照宮と台徳院廟の改造および大猷院廟の建立を計画。
  • 1654年(承応3年)7月10日:大猷院廟「御入仏」。名代として保科正之が参詣。翌日、将軍・諸大名が行列をなして参詣。9日に上棟式を行っている。(祠曹雑識)
  • 1654年(承応3年)9月16日、勅使右大臣西園寺実晴、三院使を迎えて東照宮の正遷宮(続史愚抄ほか)。奉幣使梅谷季通と清閑寺頭弁。輪王寺宮、妙法院門跡が出仕。翌日には家綱、勅使・三院使・門跡が参詣した。18日二の丸東照宮を合祀した(旧殿を古御宮として移築したともいう。祠曹雑識)。12日に毘沙門堂門跡による安鎮もあった。この時造営された社殿はほぼ同じ頃、1655年(明暦1年)に計画され、1661年(寛文1年)に建造された高良大社本殿と形状や寸法が類似するという。
  • 1680年(延宝8年):4代徳川家綱(厳有院)死去。
  • 1681年(天和1年):厳有院廟を造営。
  • 1686年(貞享3年):東照宮、台徳院廟を修復。大猷院廟も修復か。
  • 1702年(元禄15年)6月:紅葉山に霊芝。慶賀として9月、輪王寺宮公弁親王に1000石加増、覚王院最純が大僧正となる。(祠曹雑識)
  • 1709年(宝永6年):5代徳川綱吉(常憲院)死去。
  • 1710年(宝永7年):常憲院廟造営。
  • 1712年(正徳2年):6代徳川家宣(文昭院)死去。
  • 1713年(正徳3年)4月14日:従来の「御仏殿」の呼称を改め、「御霊屋」と呼ぶように寺社奉行に申し渡す。(祠曹雑識)
  • 1714年(正徳4年):文昭院廟造営。
  • 1716年(享保1年):7代徳川家継死去。以後、新たな霊廟を造営することはなく既存の霊廟に合祀。
  • 1745年(延享2年)3月13日~17日:徳川家康130回忌にあたり徳川吉宗が紅葉山東照宮で法華八講を実施。経費節減のため日光ではなく紅葉山で行った。御三家・諸大名が参列した。絵巻が残る。
  • 1751年(宝暦1年):8代徳川吉宗死去。
  • 1761年(宝暦11年):9代徳川家重死去。
  • 1779年(安永8年):継嗣徳川家基死去。
  • 1779年(安永8年):東照宮、台徳院廟を修復。大猷院廟も修復か。
  • 1786年(天明6年):10代徳川家治死去。
  • 1813年(文化10年):修復。
  • 1827年(文政10年)7月:第二御門のそばに霊芝が生える。唐の太宗貞観6年の故事に合致する瑞祥だとされる。
  • 1834年(天保5年)9月:修復。
  • 1841年(天保12年):11代徳川家斉死去。
  • 1846年(弘化3年):修復。
  • 1853年(嘉永6年):12代徳川家慶死去。
  • 1858年(安政5年):13代徳川家定死去。
  • 1866年(慶応2年):14代徳川家茂死去。


毎年4月17日には将軍が御三家・前田家・越前松平家・譜代大名らと共に参詣し紅葉山御社参と呼ばれた。 このとき、将軍は葡萄染精好の直垂を着用し、風折烏帽子をかぶって轅輿に乗り、随従の大名は烏帽子・大紋直垂を着用した。 毎月17日にも重臣の参詣があった。 紅葉山坊主が仕えた。 警備として紅葉山火之番が設置された。 紅葉山御宮御番は宝暦ごろ廃止。 法華八講が行われていたようだ

明治

  • 1868年(明治1年)3月14日:無血開城
  • 1868年(明治1年)4月8日:「御神体」と「御尊牌」を寛永寺に遷座。(「戊辰当時紅葉山引移に関する文書」[2]
  • 1868年(明治1年)4月15日:寛永寺唯識院権現堂に仮に奉安した。(「戊辰当時紅葉山引移に関する文書」)
  • 1868年(明治1年)5月15日:上野戦争で寛永寺が炎上。「田安元屋敷」に「御尊像」と「御位牌」を遷座。精鋭隊が警護した。(「戊辰当時紅葉山引移に関する文書」)
  • 1870年6月25日:赤坂御屋敷御庭御堂から久能山東照宮に向けて出発。(『南紀徳川史』[3]
  • 1870年7月1日:興津に到着し宿泊(「久能山東照宮御用留」[4]
  • 1870年7月2日:江尻に到着し宿泊(「久能山東照宮御用留」)
  • 1870年7月3日:久能山東照宮の麓に到着。山下の徳音院御神殿に奉安。(「久能山東照宮御用留」)
  • 1870年7月25日:山上の久能山東照宮の内陣に奉遷。(「久能山東照宮御用留」)
  • 1877年9月27日:牧之原東照宮を創建。山岡鉄舟、中条景昭、大草喜次郎らが牧之原開墾にあたり創建した。久能山から神像を奉遷。村社に列格。(『島田の東照宮』[5]
  • 1907年1月:牧之原東照宮、神饌幣帛料供進神社に指定。(『島田の東照宮』)
  • 1917年4月18日:徳川家より牧之原に使者。神像を迎えたいと伝える。(『島田の東照宮』)
  • 1917年11月11日:移霊祭。牧之原東照宮には公爵神号揮毫の笏を代わりに収めた。(『島田の東照宮』)
  • 1917年12月7日:神像、牧之原を出発。(『島田の東照宮』)
  • 1917年12月8日:千駄ケ谷徳川家邸に遷座。(『島田の東照宮』)
  • 1918年4月26日:新しい社殿が竣工して鎮祭。千駄ケ谷東照宮。(『島田の東照宮』、『日本歴史図録』[6]


既に社殿はカラとなっていたが1868年(明治1年)12月19日、朝廷は静岡藩に撤去を命じ、翌年3月から8月にかけて撤去されたという。 上野東照宮に石鳥居が移築されて現存する。 海雲寺山門として霊廟の門が移築されて現存。「東照大権現」の扁額が徳川宗家に伝わる。

この他1698年(元禄11年)頃、東照宮旧殿が寛永寺山王社に移されていたが明治に解体された。

鳳来山東照宮の本殿内の御宮殿は紅葉山から移したものという。

社殿

1637年(寛永14年)造営の寛永寺山王社(江戸名所図会)。紅葉山東照宮旧殿と伝えられる(東叡山之記)。戊辰戦争で破損し神仏分離で撤去された
紅葉山常憲院廟

紅葉山絵図によると東側から入るL字型の参道があり、入り口の御門の潜ると参道に右手に大猷院廟・厳有院廟・常憲院廟の3社が、左手に文昭院廟などがあった。階段を登ると一の鳥居があり、参道が右手に折れるがその階段の手前の左手に台徳院廟への入り口がある。階段登って参道を進むと二の鳥居がある。さらに勅額門を潜ると東照宮の社殿に至る。

  • 東照宮:本殿・拝殿の周囲を瑞垣が囲み正面に唐門があった。瑞垣の外にある御供所と廊下で接続していた。唐門の前には灯籠が1対あった。西側の区画には護摩堂・古御宮と「畳戸置所」3棟があった。また御供所の東にはやや離れて御神庫があった。
  • 護摩堂:本尊は薬師如来で、日光月光菩薩、十二神将も祀っていた(紅葉山御宮御内陣並御幣殿御道具)。これらの像は明治維新で増上寺に移された(紅葉山原廟廃徹記)。本地堂とも。
  • 古御宮:護摩堂の隣にあった(紅葉山絵図)。紅葉山総絵図では鳥居が立つ。
  • 稲荷社:紅葉山絵図には記載がないが、紅葉山総絵図には東照宮と神庫の間に描かれる。鳥居が立つ。千代田稲荷神社と関係か。
  • 台徳院廟:2代徳川秀忠の霊廟。台廟。敷地の南隅にある。東面。御霊屋・拝殿の周囲を瑞垣が囲み正面に唐門があった。御霊屋の背後に御供所があった。湾曲した参道の手前に勅額門があり、階段を降りると御手水があった。入り口に二天門があった。
  • 大猷院廟:3代徳川家光の霊廟。猷廟。10代徳川家治(浚明院)、11代徳川家斉(文恭院)、13代徳川家定(温恭院)を合祀。1座につきそれぞれ四天王像があった(明治維新で増上寺に移された)。東照宮参道の北側に大猷院廟・厳有院廟・常憲院廟の3社が並ぶ。3社をつなぐ小道もあった。基本的な構造は台徳院廟と同じで、御霊屋・拝殿の周囲を瑞垣が囲み正面に唐門があった。瑞垣の外にある御供所と廊下で接続していた。その下の段に勅額門があり、「泉水」と御手水があり、一番手前に二天門があった。「泉水」は紅葉山御宮御霊屋総絵図には「御池」とある。
  • 厳有院廟:4代徳川家綱の霊廟。厳廟。18歳で早世した徳川家基(孝恭院。10代徳川家治の長男)を合祀する。1座につきそれぞれ四天王像があった。大猷院廟の東隣に大猷院廟とほぼ同じ規格で建てられた(「泉水」はなし)。造営の総奉行を稲葉美濃守が務め、普請奉行神尾若狭守、青木遠江守、大久保甚右衛門、松平甚三郎が関わる。棟梁は甲良宗賀。
  • 常憲院廟:5代徳川綱吉の霊廟。憲廟。8代徳川吉宗(有徳院)を合祀(紅葉山絵図)。1座につきそれぞれ四天王像があった。厳有院廟の東隣に大猷院廟とほぼ同じ規格で建てられた(「泉水」はなし)。
  • 文昭院廟:6代徳川家宣の霊廟。文廟。7代徳川家継(有章院)、9代徳川家重(惇信院)、12代徳川家慶(慎徳院)、14代徳川家茂(昭徳院)を合祀する(紅葉山絵図)。いずれも増上寺に葬られた将軍である。そのため増上寺僧侶が詰めるための「増上寺休息所」が勅額門の脇に設けられていた。江戸城内図では文昭院廟、有章院廟(有廟)、惇信院廟(惇廟)が並び立っていたように図示されているが不正確な描写であり、文昭院廟のみが建てられ、他は合祀されたようだ。
  • 下御供所:御三家の装束所、輪王寺宮の休息所なども付属。
  • 紅葉山文庫:紅葉山宝蔵とも。

組織

神職はおらず、天台宗僧侶が祭祀を司ったようだ。僧侶や楽人のほか紅葉山宮番・紅葉山火之番・紅葉山御宮御霊屋付坊主・紅葉山御高盛坊主・紅葉山御宮付御縁頬坊主・紅葉山御霊屋付御縁頬坊主・紅葉山御掃除之者組頭・紅葉山御高盛六尺などがいた。坊主とあるのは大名に使える御城坊主のことで剃髪姿だが僧侶ではない。

紅葉山別当

  • 公央:伝法院。1722年(享保7年)6月3日就任。
  • 徳潤(1675-1750):凌雲院8世。姫路出身。播磨総社の社家の生。亮潤の弟子。1740年(元文5年)10月23日就任。
  • 光俊:凌雲院。姫路出身。徳心院と号す。1750年(寛延3年)9月23日就任。
  • 義順:静慮院。1754年(宝暦4年)6月29日就任。
  • 慈秀:覚王院。1772年(安永1年)3月24日就任。
  • 公副:真覚院。護法院か。1772年(安永1年)10月7日就任。
  • 公副:1773年(安永2年)2月29日再任。

「紅葉山御別当譜」[7]

祭事・法会

  • 紅葉山御詣:1月と5月と9月の17日に将軍が諸大名と共に参詣した。「紅葉山御詣は1月17日である。前日の夕方から掃除して清める。「あやしき下すといえども」(?)、穢れに触れた者は城内に入ることを禁じられた。西の御所(?)でも前夜から掃除清めがある。(将軍は)立烏帽子を被り、長柄輿に乗り、紅葉山の御宮に詣でる。帝鑑の間・雁の間・菊の間の大名や五位の輩(一般大名や上位の旗本?)は、大紋直垂を着用し鞘巻太刀を付けて供奉する。勅額門に長柄輿が到着すると楽人が奏楽する。輪王寺宮が内陣で供え物を捧げ、高家の者が神酒を供える。御三家が「おろし給わる」。御鏡の餅(もちひ)を雁の間の大名2人が持ち出して「御前にすう」。御三家も拝礼する。御三家や国主大名らは皆あらかじめ参詣して(将軍を)迎える。5月と9月の参詣も同様である。両山御詣(寛永寺増上寺への参詣)は(将軍は)まず装束所で風折烏帽子、直垂に着替えて轅輿で霊廟に詣でる。譜代大名や五位の輩が先払いとして供奉する。おおむね寛永寺は1月10日、増上寺は1月24日である。」(『幕朝年中行事歌合註』[8]
  • 紅葉山御詣:祥月命日の4月17日に将軍が諸大名と共に参詣した。「紅葉山御詣は4月17日に行われた。(日光東照宮だけでなく)この地でも両御所は轅輿で紅葉山に参詣する。装束は元日と同じである。御三家・諸大名の供奉は全て1月17日と同じである。」(『幕朝年中行事歌合註』[9]
  • 法華八講:歴代将軍の遠忌の時に営まれた。「法華八講は先祖の供養のため行う。1745年(延享2年)の東照宮130回の御忌に紅葉山で法華八講が行われた。初日の3月13日は朝座に披講無量義経、夕座は法善第一の巻。14日は朝座は二の巻、夕座は三の巻、重座は四の巻。15日は五の巻、16日朝座は六の巻、夕座は七の巻、重座は八の巻。結願の17日は観音賢経を講じた。納められた法華経8巻は将軍自ら筆を執った。初日は(将軍が)衣冠で参詣した。2日目は西の御所、衣冠で参詣した。3日目は両御所が束帯で参詣。4日目は衣冠で西の御所だけが参拝。5日目は両御所が衣冠で参拝した。京都からは梶井宮(三千院門跡)叡仁法親王が下向して輪王寺宮公道法親王と共に毎日、紅葉山の法莚に出仕した。誦経、願文、呪願文をはじめ読経、論義、行道などがあり、華筥、散華、被物などの式があった。京都から来た楽所による奏楽・舞楽は麗しいものだった。両門主をはじめ、衆僧、社家、坊官、家司など下々の者まで布施物をした。日を隔てて宮方ほかこの事に預かった人々の饗応は日光勅参の時と同じである。これらの式は4月に行われるべきであるが、日光で毎年恒例の祭典があるためこの月に行った。御歴世御年回法会は代々の御年回の年に当たれば寛永寺もしくは増上寺で3日間の千部法会を行った。被物の日は溜詰の者が出座する。また少老や御側の衆が各1人、衣冠でその寺に参詣し、総奉行の次に着座した。御忌日には束帯で(将軍が)参詣した。階上階下の御裾は宿老、少老の例による(?)。供物は(将軍が)自ら供え、法会を行っている間は御簾の中に着座する。読経が終わり、華筥、散華、被物、声明が終わってから将軍は江戸城に戻った」(『幕朝年中行事歌合註』[10]

資料

古文献・史料

  • 『文政雑記』「大納言様紅葉山御参詣次第」[11]:1829年(文政12年)9月。
  • 『文政雑記』「紅葉山御社参ニ付服穢定」[12]
  • 『天保雑記』「紅葉山御宮正遷宮」[13]:1834年(天保5年)9月。
  • 『天保雑記』「紅葉山下御門江紛入者御届」[14]:1835年(天保6年)4月。
  • 『天保雑記』「紅葉山御成供揃」[15]:1835年(天保6年)2月17日。
  • 『天保雑記』「松平伊予守家来紅葉山下御門江紛込之御届」[16]:1835年(天保6年)4月。
  • 『御城内紅葉山御加番』
  • 『御触書天保集成』「紅葉山御宮御霊屋等之部」23[17]、24[18]、25[19]
  • 『紅葉山八講五座問答注記』
  • 『紅葉山御宮御染筆八講之次第』[20]:紅葉山八講御法会日記。1745年(延享2年)。
  • 『諸例集』「日光・紅葉山・上野・増上寺山王之部」[21]
  • 『諸例集』「日光山・紅葉山・上野・増上寺・山王之部」[22]
  • 『諸御用留部類』「両山紅葉山之部」[23]
  • 『御勝手帳』「紅葉山御宝蔵構内檜杉二本伐取伺」[24]
  • 『御勝手帳』「紅葉山御祈祷僧善竜院外五ヶ院装束願」[25]
  • 『紅葉山神霊記』(『秘鎖叢書』所収)[26]:幕末か。
  • 『紅葉山神霊記』(『文鳳堂雑纂』所収)[27]
  • 『紅葉山神霊記』(『合一叢書』所収)[28]
  • 『紅葉山御宮御内陣並御幣殿御道具』[29]:1738年(元文3年)~1747年(延享4年)。
  • 『祠曹雑識』「紅葉山霊芝祥瑞」[30]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮御幣調進」[31]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山ヲ楓山ト称スル始」[32]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮草創」[33]
  • 『祠曹雑識』「寛永紅葉山御社参」[34]
  • 『祠曹雑識』「台徳院殿大猷院殿紅葉山両御仏殿」[35]
  • 『祠曹雑識』「二丸御宮紅葉山御遷宮」[36]
  • 『祠曹雑識』「儲君紅葉山御参詣ノ事」[37]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山火ノ番ノ始」[38]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山法華八講」[39]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山火之番支配」[40]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮御道具御風干帳」[41]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮御道具新帳」[42]
  • 『蠧余一得』「紅葉山御蔵沿革」[43]
  • 「紅葉山台徳院様御霊屋御修覆御用書付渡」[44]:1860年(万延1年)。
  • 「紅葉山東照宮献供奉幣式」『慈眼大師全集』[45]
  • 『千代田城大奥』「紅葉山大紋行列」[46]」行列のことについて詳しい
  • 『徳川礼典録』「将軍家紅葉山御参詣御行列」[47]
  • 「戊辰当時紅葉山引移に関する文書」[48]
  • 「紀伊家紅葉山予楽途中伴連の図」:『徳川盛世録』
  • 『紅葉山厳有院様御仏殿仕様帳』[49]
  • 「紅葉山総御霊屋江内府様行列ニテ御参詣之節御供御雇勤方絵図 坤」[50]
  • 「西丸様紅葉山御成記録」[51][52][53]
  • 「文政六未年九月八日紅葉山」[54]:1823年(文政6年)
  • 「紅葉山御略伝記」:『殿居嚢』所収[55]
  • 「慎廟御物具已下目録」:宮内庁図書寮文庫。松岡本。
  • 「嘉永七年紅葉山御参詣記」:宮内庁図書寮文庫。松岡本。1854年(安政1年)。
  • 「紅葉山東照宮仮正遷宮一会」:宮内庁図書寮文庫。壬生本。1618年(元和4年)4月。1654年(承応3年)書写か。
  • 「御宮参之節紅葉山行列」:宮内庁図書寮文庫。松岡本。江戸末期。
  • 「武州江戸〕紅葉山参向人数書」:宮内庁図書寮文庫。平田本。1618年(元和4年)~1640年(寛永17年)。
  • 「楓山同参雑記」:宮内庁図書寮文庫。鷹司本。1828年(文政11年)。
  • 「紅葉山神霊記」:宮内庁図書寮文庫。鷹司本。
  • 『東京市史稿』皇城編1編[56]
    • 紅葉山東照宮創立693
    • 紅葉山宝蔵普請869
    • 紅葉山台徳院霊屋成る872
    • 二の丸東照社営造1110
    • 寛永18年の二の丸殿舎及東照社修造1213
    • 紅葉山東照社廻修理1252
    • 二の丸東照社営造1253
    • 二の丸東照社改造1296
  • 『東京市史稿』皇城編2編[57]
    • 紅葉山普請9[58]
    • 紅葉山東照社大猷院霊屋修理334[59]
    • 紅葉山厳有院霊屋営造356[60]
    • 紅葉山社堂修理373[61]
    • 紅葉山常憲院霊屋営造494[62]
    • 紅葉山文庫普請526[63]
    • 紅葉山文昭院霊屋営造544[64]
    • 紅葉山有章院霊屋営造560[65]
    • 紅葉山石垣修築676[66]
    • 紅葉山石鳥居再建677[67]
    • 紅葉山東照社修理690[68]
    • 前将軍吉宗薨ず紅葉山常憲院霊屋に合祀す700[69]
    • 紅葉山厳有院霊屋修理728[70]
    • 前将軍家重薨ず紅葉山文昭院有章院霊屋に合祀す755[71]
    • 紅葉山東照社修理776[72]
    • 紅葉山東照社台徳院霊屋修理829[73]
    • 紅葉山霊屋修理855[74]
    • 浚明院紅葉山合志873[75]
    • 紅葉山鳥居修理899[76]
    • 紅葉山東照社上下供所修理916[77]
    • 寛政9年の紅葉山霊屋修理936[78]
    • 紅葉山台徳院霊屋修理958[79]
    • 紅葉山厳有院孝恭院霊屋修理972[80]
  • 『東京市史稿』皇城編3編[81]
    • 紅葉山霊屋修理11
    • 紅葉山修理46
    • 文化10年の紅葉山修理53
    • 紅葉山東照社修理101
    • 紅葉山台徳院霊屋修理115
    • 紅葉山厳有院孝恭院霊屋修理140
    • 紅葉山東照社瓦塀修理159
    • 紅葉山膳所下供所修理185
    • 紅葉山東照社修理197
    • 紅葉山東照社膳所修理203
    • 紅葉山霊屋修理227
    • 天保4・5年の紅葉山修理229
    • 紅葉山石矢来瓦塀修理318
    • 紅葉山台徳院霊屋修理591
    • 紅葉山霊屋四脚門修理613
    • 前将軍家斉薨ず紅葉山大猷院浚明院霊屋に合祀す622
    • 紅葉山修理651
    • 紅葉山宝蔵修理867
    • 紅葉山修理878
    • 紅葉山霊屋修理881
    • 紅葉山供所及文庫修理907
    • 紅葉山霊屋修理923
    • 大奥仏間屋根模様替937
    • 慎徳院の紅葉山霊屋合祀1085
    • 温恭院を紅葉山霊屋に合祀す1171
    • 紅葉山台徳院霊屋修理1319
    • 紅葉山東照社修理1421
    • 昭徳院を紅葉山霊屋に合祀す1430
  • 『東京市史稿』皇城編4編
    • 紅葉山徳川霊屋撤去166[82]
    • 賢所内庭奉安189[83]
  • 堀家愛衆「紅葉山原廟廃徹記」[84]
  • 「東京紅葉山御神像御着并御遷宮入用仕上帳」[85]:『久能山叢書』。杉江竹次郎。1870年8月。

文献

  • 田辺泰1935「江戸城内東照宮建築考」『建築知識』1-8
  • 内藤昌1972「江戸城紅葉山・西丸」『江戸図屏風別巻:江戸の都市と建築』
  • 加藤千晶・重枝豊「高良大社の建築構成にみる藩における権現造の受容に関する一考察」
  • 伊東龍一1994「紅葉山厳有院霊廟の構造形式と彫物について」[86]
  • 伊東龍一1999「承応度紅葉山東照宮に関する一史料」[87]
  • 伊東龍一2000「徳川家霊廟の構造形式について:仏殿・相之間・拝殿の平面、組物・中備、屋根形式」[88]
  • 武内恵美子2006「紅葉山楽所をめぐる一考察」『公家と武家3:王権と儀礼の比較文明史的考察』
  • 山田淳平2018「紅葉山楽人考」『藝能史研究』220

平面図

  • 「紅葉山図」[89]:もっとも詳細か。
  • 「紅葉山絵図」:紅葉山御宮御霊屋絵図。『徳川礼典録』所収[90]
  • 「紅葉山御霊屋御構絵図」:
  • 「江戸紅葉山霊屋図」:
  • 「紅葉山総絵図」:東京国立博物館蔵。[91]
  • 「紅葉山御宮御三仏殿之図」[92]
  • 「紅葉山御宮御霊屋惣絵図」
  • 「紅葉山御宮御霊屋略図」:
  • 「正徳四甲午六月改紅葉山惣指図」[93]:1714年(正徳4年)6月。
  • 「御城内紅葉山惣絵図」:東京都立図書館蔵[94]。1726年(享保11年)2月。『江戸城建築史料展覧会目録』には1717年(享保2年)とある。
  • 「紅葉山御見分之節御城内御道筋絵図」[95]:1781年(天明1年)。『江戸城建築史料展覧会目録』より。
  • 「紅葉山御宮四ケ所御仏殿絵図」[96]:『江戸城建築史料展覧会目録』より。文昭院廟がなく、常憲院廟が別紙で竣工前・竣工後の図を示していることから常憲院廟の建設時のものか。
  • 「紅葉山惣絵図」:1820年(文政3年)。『江戸城内并芝上野山内其他御成絵図』より[97]
  • 「紅葉山総絵図」:江戸東京博物館蔵。江戸時代後期。文恭院(11代徳川家慶)の名まで記す。(2014『大江戸と洛中』の解説は誤り)
  • 「紅葉山惣絵図」:江戸東京博物館蔵。江戸時代後期。浚明院(10代徳川家治)の名まで記すか。(2014『大江戸と洛中』の解説は誤り)
  • 「江戸城紅葉山図」[98]:「楓山御廟屋」。
  • 「江戸城紅葉山図」[99]:「紅葉山向絵図」。上記と類似。
  • 「江戸城紅葉山御宮御霊屋勤方絵図」[100]
  • 「江戸御城内紅葉山総絵図」[101]:上記と類似。
  • 「紅葉山 御宮文政八酉年三月廿五日若君様御名代書勤方絵図」[102]:1825年(文政8年)。
  • 「紅葉山御仏殿図」[103]:敷地の形から厳有院廟か。
  • 「紅葉山図」[104]:他の霊廟の配置が異なるか。
  • 「紅葉山惣指図」[105]
  • 「紅葉山御宮御仏殿惣絵図」[106]:常憲院廟と文昭院廟の記載がなく、別紙で台徳院廟の改修後の張り紙がある。台徳院廟改修時の図とみられる。
  • 「紅葉山絵図」[107]:常憲院廟と文昭院廟の記載がない。
  • 「紅葉山絵図」[108]
  • 「もみじやま」[109]
  • 「紅葉山御祭礼覚絵図」[110]:没年月日、諡号などの覚え書きの絵図か。

江戸城図

  • 「江戸城内図」 [111]:江戸城全体図
  • 「江戸御城之絵図」[112]:江戸城全体図
  • 「江戸御城内向内曲輪共総絵図 」[113]:江戸城全体図
  • 「江戸御城総絵図」[114]:霊廟の配置が他と異なるか。
  • 「皇室御料地敷地図/宮城西之丸・山里・紅葉山」[115]:紅葉山の区画がまだ残っているか。

絵図

  • 「紅葉山御宮地割」[116]:紅葉山東照宮の立面図。
  • 「紅葉山御宮図」[117](画像なし):正面と側面の立面図のようだ。
  • 「紅葉山常憲院様有徳様御霊屋惣絵図建地割」[118]:建物の立面図。
  • 「徳川将軍紅葉山並御城外御行列之図」[119]:行列の絵巻
  • 「紅葉山御宮御霊屋棟札写」[120]:棟札の写し。
  • 「将軍家紅葉山御参詣御行列」『徳川礼典録』所収[121]:行列の図。
  • 「紅葉山厳有院様御手水鉢石」[122]
  • 「紅葉山大猷院様塀重御門」[123]
  • 「紅葉山八講法会図巻」:德川記念財団蔵。18世紀。徳川家康130回忌にあたり1745年(延享2年)3月13日から17日まで、徳川吉宗が紅葉山東照宮で行った法華八講を描く。13日の「論義」「行香」、15日の「大行道」「被物」「御神酒御頂戴」の5場面を描く。
  • 「紅葉山御参詣御供之図」:宮内庁図書寮文庫。松岡本。
  • 「紅葉山東照宮御太刀御鏡御奉納図」:宮内庁図書寮文庫。平田本。1654年(承応3年)9月17日。
  • 「紅葉山予参之図」:宮内庁図書寮文庫。松岡本。

遺宝

  • 東照大権現扁額:「東照大権現」と記す。德川記念財団蔵。紅葉山東照宮の勅額と推定されている。書体は後水尾天皇宸筆と伝える日光東照宮奥社鳥居の勅額と同じとみられ、紅葉山東照宮の勅額御門に掲げられていたと推測される。(2014『大江戸と洛中』、個人ブログ[124]
  • 紅葉山東照宮扁額:德川記念財団蔵。1617年(元和3年)3月28日銘がある。詳細不明。(2014『大江戸と洛中』、図版なし)
  • 紅葉山鎮座稲荷額:德川記念財団蔵。1654年(承応3年)6月銘。紅葉山稲荷堂に掲げられていた絵。中央に普賢菩薩(狩野探幽筆)、左右に狐神(狩野安信・狩野常信筆)を描く。作者名は墨銘による。普賢菩薩は象に乗り、右手に剣を持つ。絵の裏に稲荷堂は1869年(明治2年)2月16日に和歌山徳川家に移されることになったとの記述がある。(2014『大江戸と洛中』、東京文化財研究所[125]、個人ブログ[126]
  • 紅葉山東照宮御簾:津山郷土博物館蔵。由緒書が付属。社殿内の神前に掲げられていた御簾。上部中央には日輪を中心に龍・麒麟・天馬・獅子の瑞獣の装飾がある。由緒書によると、美作国一宮中山神社の美土路信盈が江戸に下った際、1736年(元文1年)3月16日、浅草寺伝法院に伝わっていた本品を伝法院僧正から贈られたものという。2013年(平成25年)に発見された。(2014『大江戸と洛中』、津山瓦版[127]、東京文化財研究所[128]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE」より作成

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