ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

興山寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年4月20日 (土)

移動: 案内, 検索

興山寺(こうざんじ)は、高野山金剛峰寺山内にあった行人方の拠点寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸時代は学侶方青巌寺と聖方大徳院と共に金剛峰寺の本坊の一つだった。隣接する青巌寺と合併して現在の金剛峰寺本坊となる。修験道当山派正大先達の一つで十二正大先達の一つ。興山寺東照宮があった。 文殊院と号す。 出張所として江戸に高野寺、和歌山に覚樹院があった。


目次

歴史

  • 1590年(天正18年):木食応其、豊臣秀吉の帰依を受けて創建。
  • 1599年(慶長4年)頃:木食応其、青巌寺・興山寺を勢誉に譲与。
  • 1608年(慶長13年)10月1日:木食応其、死去。
  • 1612年(慶長17年)3月23日:勢誉、死去。
  • 1628年(寛永5年)4月17日:応昌、幕命で東照宮を創建。
  • 1649年(慶安2年):幕府、東照宮神領100石を寄進。
  • 1691年(元禄4年):幕命で行人の役寺となる。
  • 1692年(元禄5年)8月:行人627人が流罪。1182寺が280寺に減らされる。
  • 1843年(天保14年):光格天皇位牌・御物が奉納される[1]
  • 1868年(明治1年):戊辰戦争に参戦。行人方、新政府から高野山惣職の恩賞を与えられる[2]
  • 1868年(明治1年)9月:三方を廃止
  • 1869年(明治2年)3月:興山寺と合併して金剛峰寺となる。
  • 1869年(明治2年)4月:高野山総宰庁庁舎を興山寺に設置[3]

組織

歴代住職

  • 1応其()<>:
  • 2勢誉()<>:
  • 3応昌()<>:1591年(天正19年)生。1645年(正保2年)5月24日、浅草在番所で死去。文殊院。
  • 4立詮()<>:1598年(慶長3年)生。1645年(正保2年)5月、文殊院を継承。1659年(万治2年)追放。1663年(寛文3年)7月9日赦免[4]。1664年(寛文4年)8月12日朝熊山で死去[5]
  • 5雲堂()<>:1663年(寛文3年)11月21日、文殊院住職[6]。1666年(寛文6年)8月27日、行人方の法度違反で責任を取らされ配流。1687年(貞享4年)10月18日、興山寺帰還を許可され、12月2日帰住[7]。1691年(元禄4年)4月28日、隠居を命じられる[8]。1692年(元禄5年)4月9日死去[9]。見樹院。宝月。雲堂天岳。
  • 6量誉()<>:1691年(元禄4年)4月頃、興山寺住職[10]。11月5日閉門[11]。来迎院。量与。

資料

  • 『紀伊続風土記』「興山寺」[12]
  • 『紀伊続風土記』「行人総論」[13]
  • 「旧行人方の略史と其の文書」[14]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%88%88%E5%B1%B1%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール