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観理院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年8月5日 (土)

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観理院(かんりいん)は、江戸赤坂にあった天台宗寺院。廃絶。日枝神社別当。日枝神社の表参道階段下の正面、現在の永田町山王森ビル、ザ・キャピトルホテル東急のあたりにあった(首都大学東京図書館所蔵『水野家文書』「山王絵図」[1])。城琳寺

組織

寛永寺系のエリートコースを進んだ僧侶が高齢となって就任することが多かったようだ。近世の天台宗教団を輪王寺宮のもとで統括する寛永寺執当を経験した僧侶も少なくなく院室号や紫衣を得たものもいる。観理院住職になると共に権僧正に任じられると共に、公家の猶子となることもあった。

歴代住職

  • 晃海(1603-1663)<1630-1658>:寛永寺執当。1616年(元和2年)天海に従い江戸に移る。1630年(寛永7年)、天海の命で、山王別当城琳寺(観理院)に住す。1632年(寛永9年)伽藍造営。その功績により妙法院宮から最教院の号を賜る。1635年(寛永12年)日枝神社に加増。1637年(寛永14年)、寛永寺寛永寺本覚院寛永寺山王社を創建。1643年(寛永20年)比叡山桜本坊を修復。輪王寺宮設置と共に役者(執当)に任命される。1651年(慶安4年)江戸崎不動院。1652年(承応1年)鎌倉宝戒寺。1653年(承応2年)権僧正。稲荷神社を建てる。1654年(承応3年)千妙寺住職。1656年(明暦2年)僧正。この年、千妙寺に山王社と東照宮を建てた。1657年(明暦3年)、日枝神社被災するが再建に尽力。1658年(万治1年)本覚院と城琳寺を堯海に譲り隠居。金剛寿院の号を賜る。1663年(寛文3年)11月2日死去。61歳。[2]
  • 堯海(1623-1670)<1658-1670>:1658年(万治1年)城琳寺住職・本覚院住職となり、最教院の号を賜る。1670年(寛文10年)11月16日死去。48歳。[3][4]
  • 舜盛(1630-1697)<1670-1694>:寛永寺執当。初名は豪舜。信濃国木曽出身。松井氏。日野弘資の猶子。正覚院豪慶のもとで得度。1654年(承応3年)延暦寺東塔光円院3世。1666年(寛文6年)寛永寺明静院に移る。1668年(寛文8年)12月20日、寛永寺執当。1669年(寛文9年)7月、観理院の号を賜る。1670年(寛文10年)12月26日、山王別当職(観理院住職)となり本覚院に移る。1681年(天和1年)執当を退任し観理院に移る。1687年(貞享4年)12月27日、権僧正。1692年(元禄5年)7月5日僧正。1694年(元禄7年)11月、隠居。1697年(元禄10年)2月5日死去。68歳。明静院と号す。[5][6]
  • 宥海(?-1696)<1683->:日光山安居院を経て寛文年間、延暦寺西塔徳王院4世に住す。1678年(延宝6年)湯島喜見院、ついで延暦寺西塔行泉院4世に住す。1683年(天和3年)観理院住職。権僧正。1696年(元禄9年)10月(1月)8日死去。[7][8]
  • 公仁(?-1696)<>:初名は公順、公誉。延暦寺西塔宝幢坊に住す。1662年(寛文2年)東塔玉泉院7世。ついで金剛院(芝大神宮別当)、観理院に住す。権僧正。1696年(元禄9年)5月2日死去。[9]
  • 智英()<>:1709年(宝永6年)頃、在職。
  • 晃岳()<>:1713年(正徳3年)頃、観理院住職[10]。権僧正。
  • 最妙(1664-1746)<1717-1736>:寛永寺執当。1664年(寛文4年)生。1677年(延宝5年)日光山日増院に登る。翌年延暦寺に登る。1682年(天和2年)延暦寺龍城院。1713年(正徳3年)3月8日、寛永寺執当となり、真覚院の院室号を賜る。大納言万里小路淳房の猶子となる。1715年(正徳5年)6月、根津権現別当昌泉院住職となり権僧正。1717年(享保2年)2月30日、山王権現別当となり観理院号を賜る。5月29日、将軍徳川吉宗の社参に奉仕。1723年(享保8年)6月5日僧正。1736年(元文1年)6月29日引退。顕性院に隠居。後、万善院と号す。1746年(延享3年)1月1日死去。83歳。[11]
  • 尚志(1667-1732)<>:寛永寺執当。喜多院34世。1732年(享保17年)2月28日死去。66歳。尚忍とも。[12][13]
  • 澄海(1672-1739)<1736-1739>:日光山法門院14世を経て1729年(享保14年)日光山大楽院6世。1736年(元文1年)7月、観理院住職となり権僧正。葉室頼孝の猶子となる。1737年(元文2年)将軍後継誕生の祈祷を行う。1739年(元文4年)4月23日死去。68歳。[14]
  • 純昌(1677-1753)<1739-1752>:寛永寺執当。24歳で延暦寺北谷安禅院に住す。1711年(正徳1年)寛永寺元光院に住す。1733年(享保18年)8月、寛永寺執当となり、願王院の院室号を賜る。1739年(元文4年)5月、観理院住職となり権僧正。1745年(延享2年)僧正となり紫衣を賜る。1752年(宝暦2年)12月、退任。元光院に隠居。恭敬院号を賜る。1753年(宝暦3年)12月4日死去。77歳。正純か。[15]
  • 堯範(1683-1762)<1752-1762>:武蔵国勝城郡の出身。1698年(元禄11年)津梁院で剃髪。1705年(宝永2年)延暦寺双厳院に修学。1708年(宝永5年)法華会竪者。1714年(正徳4年)10月、清泉院。1722年(享保7年)円珠院9世。1727年(享保12年)観成院4世。1739年(元文4年)東漸院9世。1752年(宝暦2年)12月、観理院住職となり権僧正。1757年(宝暦7年)僧正。1762年(宝暦12年)5月15日死去。80歳。私諡は実際院。[16]
  • 公副(1718-1779)<1762-1772>:公家出身。左中将源房忠の子。1718年(享保3年)生。1729年(享保14年)剃髪し、護法院と号す。1730年(享保15年)法眼を直叙。公遵法親王に近侍。親王を奉じて、東塔光円院、山科、寛永寺、涼泉院、喜見院と移る。1742年(寛保2年)福聚院10世。1751年(宝暦1年)大慈院。1762年(宝暦12年)7月13日、観理院住職となり権僧正。世継誕生の祈祷を日枝神社で行い、家基誕生により1768年(明和5年)僧正。1772年(安永1年)11月、現龍院13世。1775年(安永4年)まで。1776年(安永5年)京都誓願寺に住み、1779年(安永8年)7月18日死去。[17]
  • 徳嶺()<>:1776年(安永5年)頃
  • 天朗(1725-1789)<1778-1789>:晃海の弟子。武蔵深谷出身。1738年(元文3年)剃髪。初名は慧光。1743年(寛保3年)夏、男体山に登拝。1749年(寛延2年)天朗と改名。1753年(宝暦3年)教城院。1764年(明和1年)中禅寺238世に任命。1778年(安永7年)、観理院住職となり権僧正。平松黄門の養子となる。1785年(天明5年)僧正となり紫衣。1789年(寛政1年)5月4日死去。65歳。[18]
  • 光順(?-1800)<1795-1800>:下野国芳賀郡出身。日光山で剃髪。初名は慧道。1759年(宝暦9年)日光山桜本院32世。1767年(明和4年)中禅寺上人職。1770年(明和7年)5月、龍光院。1787年(天明7年)将軍継承にともなう江戸に出る。1795年(寛政7年)6月、観理院住職となり権僧正。1800年(寛政12年)2月、退任。3月28日死去。70歳か。[19]
  • 覚邦(1735-1800)<1799-1800>:1745年(延享2年)最勝王寺で剃髪。1759年(宝暦9年)善王院号を賜る。1769年(明和6年)12月、浅草寺別当代。1773年(安永2年)松林院16世。1777年(安永6年)7月、輪王寺宮の代理で日光山に登る。1786年(天明6年)林光院16世。1792年(寛政4年)津梁院23世。1799年(寛政11年)3月、観理院住職となり権僧正。1800年(寛政12年)4月、日光山に赴いたが発病。4月25日死去。66歳。諡号は隨縁院。[20]
  • 覚田(1747-1835)<1803-1809>:1803年(享和3年)夏、観理院住職となり権僧正。1809年(文化6年)冬に退任。1835年(天保6年)6月6日死去。89歳。[21]
  • 堯詮(1734-1811)<1809-1811>:武蔵国出身。1734年(享保19年)生。寛永寺元光院に住す。1768年(明和5年)寛永寺等覚院の法珍の弟子となる。12月に比叡山に登る。1774年(安永3年)8月、千日回峰行を満行。冷泉宗家の猶子。1776年(安永5年)泉龍院17世。1783年(天明3年)輪王寺宮の代理として日光山で開山会講師を務める。1792年(寛政4年)11月林光院17世。1796年(寛政8年)11月、寒松院14世。1798年(寛政10年)2月、荘厳院室号を賜る。1800年(寛政12年)7月、世良田長楽寺住職となり、権僧正。1804年(文化1年)僧正。1809年(文化6年)11月から1811年(文化8年)4月まで観理院住職。1811年(文化8年)4月18日死去。78歳。[22]
  • 慈祐(1748-1819)<1816->:上野国沼田出身。1748年(寛延1年)生。1758年(宝暦8年)剃髪。1770年(明和7年)延暦寺五智院住職。1771年(明和8年)法華会竪義。1772年(安永1年)12月花王院に住す。1782年(天明2年)11月、思誠院慈延の法脈を継ぐ。同年、寿昌院11世。1791年(寛政3年)7月、輪王寺宮の代理として日光山に赴く。1795年(寛政7年)12月、大僧都。1796年(寛政8年)2月4日、観成院12世。1800年(寛政12年)7月、寒松院15世。1808年(文化5年)3月20日、住心院の号を賜う。大納言広橋伊光の猶子となる。7月22日、色衣許可。8月5日、上京。1809年(文化6年)7月、仙波東照宮の遷座式を奉仕。1816年(文化13年)10月、観理院住職となり権僧正。1819年(文政2年)4月20日死去。72歳。諡号は実成院。[23]
  • 明穏()<>:1822年(文政5年)在職。
  • 貞順()<>:1829年(文政12年)、55歳の時、観理院在職で権僧正[24]。多武峰竹林坊。1832年(天保3年)僧正。のち大僧正。
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