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金剛三昧院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年9月24日 (土)

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金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある真言宗寺院。鎌倉将軍家の菩提寺。本尊は愛染明王。現在は金剛峰寺の子院だが、元は金剛峰寺や大伝法院と並ぶ格式をもった本山級寺院だった。鎌倉幕府が創建。関東祈祷所


目次

組織

歴代住職

江戸時代まで住職を「長老」と称した。

世数 生没年 在職年 略歴
1 退耕行勇 1163-1241 1234- 1163年(長寛1年)生。栄西の弟子。浄妙寺東勝寺鎌倉・常楽寺の開山。建仁寺2世。寿福寺住職。東大寺大勧進3世。1234年(文暦1年)10月5日、御教書により金剛三昧院初代長老に就任。栄西の意によるという。しかし、高野山には2度しか来たことがなく、隆禅が寺務を司っていた。1241年(仁治2年)7月15日死去。荘厳房と号す。
2 隆禅 生没年不詳 不詳 中納言藤原光隆の子。退耕行勇の弟子。延応年間に幕府の命令により寺務を停止され、実相院に住す。のち紀伊国本庄に療養。某年1月2日死去。仏眼房と号す。
3 悟暹 1172-1249 1240- 丹後国竹野郡出身。大学頭藤原孝範の甥。1172年(承安2年)生。元は天台宗の僧侶だった。延暦寺園城寺で天台、倶舎を学ぶ。遁世して泉涌寺俊ジョウに師事。海龍王寺長老?。1240年(仁治1年)5月5日、金剛三昧院長老。1249年(建長1年)8月1日死去。78歳。蔵円房と号す。
4 栄信 生没年不詳 1250- 1250年(建長2年)9月12日、御教書により金剛三昧院長老となる。一心院五坊に住す。病により引退して帰郷。浄光房と号す。
5 真空 1204-1268 1255- 京都・大通寺開山。1204年(元久1年)生。木幡義の始祖。木幡上人。1255年(建長7年)、願性の招聘で金剛三昧院長老。2年で引退して木幡観音院に住す。のち鎌倉無量寿院長老。1268年(文永5年)死去。廻心房と号す。
6 心地覚心 1207-1298 1256- 入宋僧。信濃出身。常澄氏。1207年(承元1年)生。退耕行勇に師事。入宋して杭州護国仁王寺の無門慧開に学ぶ。興国寺、京都妙光寺の開山。法燈派の祖。1256年(康元1年)(住持次第では1257年(正嘉1年))、願性の招聘で金剛三昧院長老。高野聖の祖ともされる。日本普化宗の開祖とされる。1298年(永仁6年)10月13日、興国寺で死去。92歳。無本覚心、法燈円明国師。
7 証忍 1210-1280 1259-1267 1210年(承元4年)生。元は天台宗僧侶。園城寺北院に住す。天台、倶舎などを学ぶ。遁世して如意寺の傍らに庵を結ぶ。なお寺のそばを厭い、高野山に参籠。真言宗に帰依し、灌頂を受けた。1259年(正元1年)、願性の招聘で金剛三昧院長老。1267年(文永4年)12月30日隠居。一心院寂静院五坊に移る。念仏に専念し、1280年(弘安3年)7月30日死去。71歳。妙観房と号す。
8 玄智 1210-1283 1268-1274 三河国出身。安達景盛(大蓮房覚智)の甥。1210年(承元4年)生。幼年で高野山に登山。明遍のもとで得度。1268年(文永5年)、願性の招聘で金剛三昧院長老。1274年(文永11年)退任。1283年(弘安6年)5月26日死去。74歳。空教房と号す。
9 俊慶 1197-1281 1275-1279 美濃国土岐出身。1197年(建久8年)生。長年、金剛三昧院に在籍し、一臈、首座となる。1275年(建治1年)金剛三昧院長老。1279年(弘安2年)隠居。1281年(弘安4年)12月4日死去。85歳。浄蓮房と号す。
10 良俊 生没年不詳 1280-1286 鎌倉山内出身。1280年(弘安3年)金剛三昧院長老。勧学院勧修院を造営。1286年(弘安9年)1月28日、本寺衆の勘により退く。空法房と号す。式部律師と呼ばれた。
11 慶賢 1221-1303 1286-1303 信濃国塩田出身。1221年(承久3年)生。玄琳房の弟子。1286年(弘安9年)10月30日、御教書により金剛三昧院長老となる。伽藍再建に尽くす。1303年(嘉元1年)9月9日死去。83歳。浄意房と号す。
12 実融 1247-1339 1304- 証道流の祖。京都出身。藤原氏。1247年(宝治1年)(1250年(建長2年)とも)生。定円について得度。泉涌寺智鏡、東大寺戒壇院の円照から戒律・密教を学ぶ。また東大寺尊勝院の宗性から華厳を学ぶ。高野山安養院の頼賢から伝法灌頂を受けた。1304年(嘉元2年)3月、御教書で金剛三昧院長老。1334年(建武1年)後醍醐天皇から綸旨。足利尊氏の帰依を得た。1339年(延元4年/暦応2年)1月19日(15日とも)、金剛三昧院で死去。静空。証道上人。
13 日山玄朝 1339-1346 実融の弟子。1339年(延元4年/暦応2年)3月18日、金剛三昧院長老。在職7年。円如房。
14 道忍 生没年不詳 1346-? 河内国丹上出身。実融の弟子。1346年(正平1年/貞和2年)(1345年(興国6年/貞和1年)11月21日とも)金剛三昧院長老。
15 禅道 生没年不詳 不詳 禅道房。
16 円智 生没年不詳 不詳 信濃国出身。
17 良持重禅 生没年不詳 不詳 淡路国出身。
18 観聡遠山 1303-1386 不詳 紀伊国出身。1303年(嘉元1年)生。1386年(至徳3年)11月4日死去。84歳。
19 春浄蓼実 生没年不詳 不詳 和歌山出身。
20 真勝厳融 ?-1388 不詳 和泉国出身。3年間在職。1388年(嘉慶2年)11月3日死去。
21 実舜 1334-1394 不詳 越中国出身。1334年(建武1年)生。1394年(応永1年)2月22日死去。61歳。覚義房と号す。
22 深重 1333-1403 不詳 播磨国出身。1333年(元弘3年/正慶2年)生。1403年(応永10年)3月2日死去。71歳。了義房と号す。
23 泉宥 1339-1417 不詳 伊予国出身。1339年(延元4年/暦応2年)生。1417年(応永24年)6月8日死去。79歳。15年在職。道本房と号す。
24 融谿弘尊 生没年不詳 不詳 陸奥国出身。1427年(応永34年)火災で諸堂焼失。この時、弘尊は京都にいた。聡円房と号す。弘尊から宥済の間、空席となり宝物仏像書物など散逸する。
25 宥済 1368-1453 1428-1453 但馬国加古川出身。1368年(正平23年/応安1年)生。1428年(正長1年)、61歳で金剛三昧院に入る。1453年(享徳2年)12月6日死去。86歳。禅良房と号す。
26 弘全 1403-1469 1454-1469 堺出身。1403年(応永10年)生。1454年(享徳3年)4月、衆議により金剛三昧院長老となる。16年在職。1469年(文明1年)8月19日死去。67歳。浄英房と号す。
27 全導 ?-1503 不詳 播磨国出身。1503年(文亀3年)1月8日死去。良賢房と号す。
28 成範 1430-1508 不詳 伊予国出身。1430年(永享2年)生。1508年(永正5年)5月3日死去。79歳。慶春房と号す。
29 観勢 1461-1520 不詳 伊予国出身。1461年(寛正2年)生。1520年(永正17年)5月8日死去。60歳。慶昌房と号す。
30 良恩 1449-1530 不詳 讃岐国中郡垂水村出身。1449年(宝徳1年)生。藤原家国の四男。讃岐長命寺、讃岐・金蔵寺を兼務。1530年(享禄3年)12月14日死去。82歳。永智房と号す。
31 良識 1483-1556 不詳 讃岐国出身。1483年(文明15年)生。長命寺、金蔵寺を兼務。1556年(弘治2年)(1555年(弘治1年)とも)11月15日死去。74歳。善識房と号す。
32 良昌 ?-1580 不詳 讃岐国財田出身。法勲寺鴻田寺を兼務。1580年(天正8年)4月1日死去。澄善房と号す。
33 空算 1533-1607 1580-1607 出雲国木次出身。1533年(天文2年)生。17歳で登山。良昌から受法。1564年(永禄7年)32歳で寂静院、1580年(天正8年)48歳で金剛三昧院に入る。1590年(天正18年)58歳で勧学院二臈。1599年(慶長4年)67歳の時に大規模な灌頂会を開き、竪者71人、精義73人が出仕した。1601年(慶長6年)、徳川家康から高野山碩学として録を賜る。1607年(慶長12年)5月14日死去。75歳。能印房と号す。
34 良算 1571-1632 1610頃-1632 紀伊国出身。1571年(元亀2年)生。空算のもとで得度。南都北嶺で唯識・止観を学ぶ。40歳過ぎで金剛三昧院に入る。1632年(寛永9年)5月15日死去。62歳。左学頭。宣音房と号す。
35 政算 1596-1650 1638-1650 宝性院17世。安祥寺31世。和泉国出身。玉置氏。1596年(慶長1年)生。良算に師事。宥盛から安祥寺一流を受法。1638年(寛永15年)、43歳で僧正となり「一山之貫首」となる。1650年(慶安3年)11月26日死去。俊宣房と号す。
36 伝海 1604-1651 1650-1651 京都出身。出口家。1604年(慶長9年)生。11歳で登山し良算のもとで得度。良算から受法。1650年(慶安3年)、47歳で金剛三昧院に入る。1651年(慶安4年)8月26日死去。48歳。良運房と号す。
37 唯心 1629-1708 不詳 金剛峰寺検校276世。安祥寺35世。宝性院21世。紀伊国出身。1629年(寛永6年)生。政算の弟子。信龍付法。1708年(宝永5年)7月25日死去。80歳。懲勧房と号す。
38 中宜 ?-1715 不詳 和泉国出身。宝光院に住す。1715年(正徳5年)7月11日死去。政俊房と号す。
39 宜本 ?-1726 不詳 1726年(享保11年)10月15日死去。性春房と号す。
40 聚勝 ?-1744 不詳 1734年(享保19年)『施餓鬼法修習用心集』。1743年(寛保3年)『志度寺縁起闇推記』に跋を記す。1744年(延享1年)1月18日死去。真海房と号す。
41 快弁 ?-1780 不詳 金剛峰寺検校320世。讃岐国高松出身。山口氏。1697年(元禄10年)生。成満寺で出家。1717年(享保2年)高野山に登山。1734年(享保19年)慈光院住職。1739年(元文4年)6月、浄菩提院住職。1744年(延享1年)1月、金剛三昧院住職。1754年(宝暦4年)9月、碩学。1771年(明和8年)12月から1774年(安永3年)12月まで寺務検校。1780年(安永9年)10月29日死去。仁龍房と号す。(『紀伊続風土記高野山』[1]
42 妙住 ?-1799 不詳 讃岐国出身。1799年(寛政11年)6月16日死去。全戒房と号す。
43 快範 ?-1803 不詳 大和国北山出身。1803年(享和3年)1月5日死去。晩成房と号す。
44 宥瑞 ?-1805 不詳 讃岐国財田出身。1805年(文化2年)8月4日死去。慈厳房と号す。
45 等如 1749-1818 不詳 讃岐国屏風浦出身。高島氏。1749年(寛延2年)生。覚城院無等に師事。21歳で高野山に登る。常楽院を経て金剛三昧院に住す。1818年(文政1年)6月30日死去。俊高房と号す。70歳。[2]
46 宥寂 ?-1827 不詳 讃岐国豊田郡出身。1827年(文政10年)7月24日死去。満願寺住職?慈眼房と号す。
47 増琢 1778-1851 不詳 金剛峰寺寺務検校362世。讃岐国大内郡出身。1778年(安永7年)生。1850年(嘉永3年)検校。1851年(嘉永4年)12月死去。74歳。密浄房、慧明房と号す。
48 宥明 1810-1881 1851- 金剛峰寺寺務検校381世。宝性院43世。安祥寺57世。讃岐国豊田郡出身。合田氏。1810年(文化7年)生。15歳で高野山に登り、金剛三昧院に入る。18歳で持宝院に移る。1833年(天保4年)弥勒院住職。1851年(嘉永4年)金剛三昧院住職。1855年(安政2年)集議席。碩学。1868年(明治1年)冬、金剛峰寺検校。1881年(明治14年)1月20日死去。72歳。慈性房と号す。
49 長宥匡 1838-1917 不詳 勧修寺長吏。真言宗山階派初代管長。讃岐国大内郡出身。1838年(天保9年)生。1917年(大正6年)死去。霊田房と号す。
50 藤井龍旭 生没年不詳 不詳 讃岐国大内郡出身。観亮房と号す。
51 石原行璋 1865-1911 不詳 讃岐国三豊郡出身。1865年(慶応1年)生。長宥匡の弟子。1911年(明治44年)4月15日、萩原寺で死去。47歳。実音房と号す。
52 長宥匡 1838-1917 再任。
久利性吽 1873-? 1873年(明治6年)生。
蓮生善隆 1915-2005 随心院門跡40世。善通寺法主。自坊は与田寺。1915年(大正4年)生。1970年(昭和45年)3月、善通寺法主。1987年(昭和62年)随心院門跡。2005年(平成17年)1月12日死去。(略歴は随心院#組織を参照)
久利隆幢 ?-1981 1939-1981 1939年(昭和14年)金剛三昧院住職。1981年(昭和56年)1月4日死去。
久利康彰 ?-2012 金剛峰寺寺務検校516世。高野山大学卒。山林部長。金剛三昧院住職。東南院住職。2015年(平成27年)2月、検校法印。
久利康暢 1972- 2012- 1972年(昭和47年)生。東洋大学でインド哲学を専攻。高野山大学大学院修了。2012年(平成24年)金剛三昧院住職。

資料

史料

  • 「金剛三昧院文書」:『高野山文書』[3]。『鷲峯余光』[4]。『岸和田市史史料』[5]。『日本の神―神道史学のために』[6]。『八日市市史』[7]。『田原本町史』[8]
  • 「高野山金剛三昧院短册」:1344年(興国5年/康永3年)。『続群書類従』[9]
  • 「金剛三昧院住持次第」:唯心著。その後の書き込みがある。『高野山文書』[10]
  • 「金剛三昧院旧記」:
  • 「金剛三昧院紀年誌」:
  • 『紀伊続風土記高野山之部』「金剛三昧院」[11]
  • 『析負輯』「金剛三昧院」
  • 1969『重要文化財金剛三昧院客殿及び台所・四所明神社本殿・多宝塔修理工事報告書』
  • 2013『重要文化財金剛三昧院客殿及び台所ほか一基修理工事報告書』

文献

  • 舟越康壽1937「金剛三昧院領粥田庄の研究」[12]
  • 1939「金剛三昧院の略史と其の文書について」[13]
  • 朝日道雄1939「高野山金剛三昧院多宝塔の諸仏に就て」[14]
  • 辻善之助1941「行勇と金剛三昧院」[15]
  • 原田弘道1974「道元禅師と金剛三昧院隆禅」[16]
  • 中尾良信1988「金剛三昧院隆禅について」[17]
  • 青木啓明2000「在田荘の伝領と安達氏・金剛三昧院」[18]
  • 青木啓明2000「澄海の在田荘支配と安達氏・金剛三昧院」[19]
  • 原田正俊2002「室町幕府と高野山金剛三昧院―禅律系寺院の在り方」『中世の寺院体制と社会』
  • 原田正俊2003「高野山金剛三昧院と鎌倉幕府」『仏法の文化史』
  • 2004『高野山金剛三昧院史』
  • 木下浩良2020「源氏一門墓所としての高野山金剛三昧院―新発見の足利宗氏五輪塔を中心として」[20]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E4%B8%89%E6%98%A7%E9%99%A2」より作成

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