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「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
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宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

キリスト教の聖人信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月28日 (月)

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目次

概要

聖人信仰(Saint)は、キリスト教において、偉大な信仰の験を示した人物を神の恩寵を受けた人物として崇拝する信仰。表向き、一神教を標榜するキリスト教の歴史的展開の軸となった、もう一つの多神教的信仰の系譜である。約4500人が認められているという。迫害にあたって殉教したり、病気平癒などの奇跡を起こしたりした人物が認められる。

そもそも現在のキリスト教の聖堂は、殉教者の地下墓から始まっている。カトリック東方正教会(ギリシア正教)などでは、現在も聖堂の祭壇に聖人の遺骨や遺品などの「聖遺物」(不朽体)の存在は不可欠とされており、これがなければ聖体拝領聖餐)などの儀礼が行えず、聖人信仰はキリスト教の信仰の根幹を担っているとすら言える。中世ヨーロッパでは聖遺物崇拝が熱狂的な注目を集め、各地の教会で売買や略奪が盛んに行われた。

ジョン、トムなど欧米系人名の多くが聖人に由来するなど、人々の間に信仰は浸透し、サンチャゴ・デ・コンポステーラなど、キリスト教の聖地の多くも聖人ゆかりの地である。それぞれの聖人に祭日が定められているが、名を知られない多くの聖人のための記念日万聖節があり、その前夜祭はハロウィンとして著名である。

聖人に対しては日常の生活の平穏を祈るなど、現世利益的な祈願が多く、多神教的な性格を示すその実態は、崇拝と崇敬は異なるという理屈付けがなされるが、キリスト教内部の護教学的な説明であり、他宗教と比較して同様の習慣に区別する理由はなく、客観的には採用できない。抽象的な思考を優先する聖職者の間では、神学的な難問となり、プロテスタントの多くの教派では聖人信仰を否定するが、一般の信者においては、生活を守護する身近な霊的存在として重要な信仰となっている。キリスト教以前の神々への信仰が形を変えて伝わったものであるという見解もある。

多大な功績を挙げた聖職者や模範的な信徒を崇拝するという信仰は、イスラム教仏教神道など多くの宗教で一般的に行われている。理念や政治的弾圧に殉じた人物を崇拝し、信者を鼓舞するという点では、日本の靖国神社の信仰に近いが、キリスト教では殉教者の記念日は「喜びと勝利の祭典」とされ、殉教を神の権威を示す奇跡と見なし、純粋な祝事とされ、靖国神社と違い、惨事の犠牲者を追悼する慰霊の性格は持たないとされる。

誰が聖人とされるかは教派によって異なり、世界的な信仰を受ける聖人と、地域的な信仰を受ける聖人の区別もある。聖人とされた理由の違いによって、殉教者証聖者に区別される。

教会が聖人に公認することを列聖(canonization)と呼ぶ。かつては人々の支持から慣習的に認められ、教会暦に記念日が記載されたのをもって事実上の公認となっていた。カトリックでは、近世から非常に厳格な認定基準と手続きが定められており、聖人と認定される前にその前段階として尊者福者(blessed)がある。教皇庁には列聖審査のための列聖省という専従の部署が置かれている。

東方教会でも公式な聖人制度があるが、カトリックほど厳密な手続きを経るものではなく、ときどき小規模に行われる程度であった。8-9世紀の聖像破壊運動での犠牲者は新殉教者と呼ばれた。またプロテスタントの一部の教派や聖公会では、数人の聖人への信仰を保持したが、新たに列聖することはないという。

歴史

聖人(saint)という言葉自体は、ラテン語の形容詞sanctusが語源でギリシア語のハギオス、ヘブライ語のカードシュに対応する。聖パウロがアカイアのエフェソスのフィリピのコロサイの「聖なる人たち」に語りかけているのが初期の用例という。

信仰内容としては、殉教者への信仰が聖人信仰の起源である。初期のキリスト教徒が殉教を受け苦難を経験し、埋葬された場所が祭儀の場となった。毎年、殉教した日に信者が墓に集まり、殉教者を記念した。毎年行われていた式典で、記録が確認できる最も古いものは、2世紀後半のスミルナにおける聖ポリュカルポスの記念式である。

やがて信者らは殉教者に祈願を行うようになった。ローマのカタコンベに「ヤヌアリアよ、幸せを与え、私たちのために弁護してください」との碑文が残っている。人々の間に浸透していった聖人の名は、洗礼名として使われるようになった。

西暦313年の皇帝コンスタンティヌスの寛容令で激しい迫害は終わり、殉教者の出現も一旦収束に向かった。しかし、信者らは、試練や誘惑といったより油断のならない相手と向き合うこととなった。聖バシリウスや聖ヨハネス・クリュソストモスらは、「普通の信者が徹底して神を愛し自らを捧げる精神で生活するとき、それ自体一種の殉教である」という主張を行うようになったという。聖人の呼称は、4世紀末までには殉教者だけでなく、偉大な苦行者などに与えられるようになった。彼らは殉教者と区別して証聖者と呼ばれる。

使徒や聖母、福音書記者は世間一般の合意によって聖人と認められ、初期の殉教者は、苦難を証言する信者によって自然に聖人として信仰されるようになった。のち聖人として「公式の崇敬」の対象になるには、少なくとも地方の教会の承認が必要となった。司教たちがそれぞれに死者を記念する祭日を認可することによって列聖された。

西ヨーロッパでは、10世紀以降、列聖の管理をローマが独占するようになる。教皇アレキサンドル3世(1181年没)は、「事実上、ローマの司教管区に将来の列聖を移管し、公式の列聖の入念な手順が出現した」という。候補者の生涯に対する詳細な調査を含む現在の確固とした手順は、1634年になって確立した。長年、1588年に設置された礼部聖省が審査業務を行ってきたが、申請が後を絶たないため、1969年5月8日、教皇パウロ6世の命によって専門の部署列聖省が設置された。カトリックでは多くの日を祭日とするために調整されてきたため、そのため日付が他の教会と異なるようになった聖人もいる。

17世紀中期から、実証的な研究が始まる。ヨハネス・ボランドら、イエズス会の研究者がボランディストという会を創設。1643年に『諸聖人の言行録』の最初の二巻が出版され、今も研究が続いている。


一覧


参考文献

  • ドナルド・アットウォーター、キャサリン・レイチェル・ジョン著、山岡健訳、1998『聖人辞典』三交社
  • カトリック中央協議会ウェブサイト
http://shinden.boo.jp/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

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