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上宮天満宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2013年1月25日 (金)
上宮天満宮 じょうぐう てんまんぐう | |
概要 | 菅原道真親族創建の、土師氏旧跡に鎮座する天満宮。郷社。 |
奉斎 | 野見宿禰、武日照命、菅原道真公 |
所在地 | 大阪府高槻市天神町1-15-5 |
所在地(旧国郡) | 摂津国島上郡 |
所属(現在) | 単立 |
格式など | 式内社・郷社 |
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目次 |
概要
菅原道真親族創建の、土師氏旧跡に鎮座する天満宮。祭神は「野見宿禰、武日照命、菅原道真公」である[1]。「野身神社」、「上宮天神」、「濃味天神社」などともいう。「日本で二番目に古い天満宮」を称す。創建は不詳であるが、野見宿禰の墓と伝え、のち土師氏の祖、武日照命が降臨したという。延喜式にいう摂津国嶋上郡野身神社は当社という。993年(正暦4年)5月、菅原為理が勅使として太宰府天満宮に参向した際、太宰府天満宮に残されていた菅原道真の衣冠と画像を奉じて帰還した。しかし、その途中、当地を通りかかったところ、車駕が動かなくなったので、神意を問うたところ、祖神の霊が鎮座するところに我が霊も留まるというので、画像を野身神社に合祀した。車駕は車塚に埋納し、衣冠は装束塚に埋納したという。1578年(天正6年)10月、高槻城主高山右近はキリスト教を奉じて、領内の社寺を破壊したが、当社も焼却され、社領は没収された。1649年(慶安2年)8月24日、永井直清が高槻城主になると、当社も復興した。江戸時代には曼殊院門跡が寺社伝奏を務めた。上宮天神などと呼ばれていたが、1879年(明治12年)5月、社号を『延喜式』に合わせて「野身神社」に改称した。戦後、上宮天満宮に改称したらしい。社僧春松院があった[2]。郷社。境内には野見宿禰墓およびその上に野身神社がある。参道入口脇に車塚(昼神車塚古墳)があるが装束塚については現存しないか。また拝殿は割拝殿である。現在の本殿は竹材によって作られた大型の神明造の社殿となっている。
画像
参考文献
- 梅原達治1989(平成1)「松浦武四郎『聖跡二十五霊社順拝双六』」『札幌大学教養部教育研究』
- 『北野誌』「全国天満宮所在地一覧」
- 天満信仰#参考文献