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豊国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年9月26日 (木)
豊国神社(とよくに・じんじゃ)は、京都府京都市東山区茶屋町にある豊臣秀吉を祀る霊社。徳川時代に廃絶したが、明治政府により方広寺境内を割いて再建された。旧地の阿弥陀ケ峰には秀吉の墓がある。別格官幣社・別表神社。
目次 |
歴史
豊国神社の鎮座
秀吉は、伏見城で1598年(慶長3年)8月18日死去。9月6日、前田玄以が極秘裏に阿弥陀ケ峰で鎮座地の縄ばりを行う。遺言が残っており、事前に準備されていたものと思われる。この縄張りは既に噂になり、北野天満宮のような壮大な社殿を建てようとしていることが漏れていた。 翌1599年(慶長4年)1月、秀吉の死が公表。朝廷に神社創建を請願。
伏見城に奉安されていた遺骸は4月5日になって極秘裏に埋葬された。4月16日から23日まで8日間にわたり遷宮式が行われた。
16日に仮殿遷宮。17日、朝廷から大納言勧修寺時豊、中納言正親町季秀が派遣され「豊国大明神」の神号を贈る後陽成天皇の宣命が奏上された。神号は「豊葦原瑞穂国」を略称したものという(豊国大明神祭礼記)。18日、天皇による正遷宮の日時宣下が行われ、即日、亥の刻に遷座祭を執行し、正式に豊国神社が鎮座した。翌日には神階正一位が贈られた(位階としての正一位は大正時代に贈位)。同日、徳川家康、毛利輝元が参詣。20日、神楽奉納。21日、天道祓200座を勤修。22日、吉田家による神道護摩行事。23日、舞楽10番を奉納。万歳楽、延喜楽など。
遷宮式が終わってからも奉祝行事が続き、24日には大和四座が猿楽を奉納。26日、徳川家康、豊臣秀頼、毛利輝元、加藤清正、前田玄以、高台院、淀殿らが黄金58枚、銀190枚を献納した。
秀頼は社務に吉田兼見を、社僧に梵舜を、神主に萩原兼従を任命した。 4月18日と8月18日が例祭とされ、勅使が派遣されることになった(勅祭社)。
8月18日、初めての豊国祭。徳川家康が参詣した。
豊国神社の整備
1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康も名目的にはまだ豊臣家の家臣だった。
1601年(慶長6年)7月25日、徳川家康が豊国神社に社領1万石を寄進した。
1602年(慶長7年)、徳川家康は豊国神社極楽門を竹生島宝厳寺に移築。新たに楼門を建立した。 12月、再建中の方広寺大仏殿が炎上
1603年(慶長8年)2月 家康が征夷大将軍
1604年(慶長9年)8月4日、家康は梵俊を伏見城に招き、七回忌の祭礼について諮問する。
8月12日から18日まで7日間、豊国神社臨時祭礼を執行。12日湯立神事。13日は降雨のため行事中止。14日馬揃え。建仁寺門前から豊国神社、豊国神社から照高院まで華々しく行列した。田楽のあと、大和四座の猿楽を奉納。15日、上京・下京の町衆が踊りを奉納。16日、神楽奉納。同日、梵舜と片桐且元が伏見城に上がり、家康に祭礼執行を報告。18日、勅使中御門資胤が参拝奉幣。
20日には梵舜が大坂城に赴き、豊臣秀頼と淀殿に祭礼執行を報告。
1606年(慶長11年)6月、回廊着工。8月16日竣工。 8月18日、片桐且元、臨時祭絵屏風を奉納
1607年(慶長12年)8月、後陽成天皇宸筆の勅額を掲げた。 1610年(慶長15年)8月19日、13回忌臨時祭礼。
徳川幕府による廃絶
1614年(慶長19年)7月、徳川家康、方広寺鐘銘事件を起こす。11月大坂冬の陣。翌年4月、夏の陣。豊臣氏滅亡。 同年7月、家康、天海に豊国神社破却について諮問。破却は中止となり、大仏殿裏に移築することとする・ 8月、豊国神社の宝物を寺院などに譲る 鐘は智積院、屏風・什宝は高台寺、装束などは妙法院門跡、神道護摩は吉田家に、校倉は方広寺に譲られた。
9月5日、本殿の扉を釘を打ち付ける
1619年(元和5年)、板倉勝重、豊国神社と神宮寺を妙法院門跡に移管。 以後荒廃。
安永年間には「追日衰頽し、今は旧地の跡もなく、郊野と成て、豊国の名だに知る人稀なり」(翁草)といわれた。
明治政府による再興
1868年(明治1年)閏4月6日、明治天皇は豊臣秀吉の偉業を讃える御沙汰書を発表し、「豊太閤其人の如き英智雄略の人を得させられたく思し食しこれによって新に祠宇を造営し」と秀吉を祀る神社の創建を命じた。またそれを伝える政府の通達に「大阪城外近傍に於て相応の地を撰び社壇造営仰せ出され候」とあり、鎮座地を大阪城の近郊としていた。これは大阪行幸の時期に当たり、大阪を重視していたことに基づくと思われる。ところが同年5月10日には京都豊国山(阿弥陀ケ峰)にも廃絶した豊国廟再興の御沙汰書が発せられ、「先年、敗毀いたし候豊国山の廟、更に御再興仰せ出され候」と命じた。4月の御沙汰書では「新に祠宇を造営」とある一方、5月の御沙汰書では「更に御再興」とあることから両者はそれぞれ別の命令と解釈することができる。このことは同年8月18日の命日に墓前で行った官祭で、神祇官大掌典が奏上した御祭文に「先に浪華の城の下に社造営り斎ひ祭れと依し賜い此の墓所をも修造と大詔命せ賜ひ」とあることからも分かる。またこの時点では京都については神社ではなく「墓所の修造」と考えられていたようだ。江戸時代、豊臣秀吉墓は妙法院門跡の管轄にあったが、1868年(明治1年)10月、神祇官の所管に移された。翌年8月18日にも墓前で官祭が執行された。
ところが近代社格制度の制定後、1873年(明治6年)8月18日にまだ社殿のない「豊国神社」を別格官幣社に列格する達が出された時、その鎮座地は京都になっていた。通達には「豊国神社 山城国愛宕郡阿弥陀ケ峰鎮座 右別格官幣社更に官祭被仰出候事」とある。ここで豊臣秀吉を祭る神社の創建が京都に変更されたのであった。大阪遷都論も幻となって大阪の重要性が下がり、毎年、京都の墓前で官祭が行われてきたことから京都の墓所の存在感が増したためだと思われる。鎮座までは新日吉神社神楽殿(神饌殿とも)を仮拝殿として祭祀をしていたという。一方、大阪創建を主張する声も根強かったとみられ、1875年(明治8年)4月7日、大阪にも「別社」を建てることが決まった。
1875年(明治8年)12月25日、方広寺大仏殿跡地を鎮座地とする。 1876年(明治9年)3月2日、妙法院門跡から「豊国大明神」勅額など遺宝が豊国神社に返納される。 同年10月1日から10日間、「砂持の儀」が行われる。 1878年(明治11年)2月、社殿着工。 この年、南禅寺金地院から伏見城遺構の唐門が移築されたという(『日本の古建築』[1])。 1879年(明治12年)4月、恭明宮の跡地と建物が与えられた。 1880年(明治13年)5月、竣工。9月15日正遷座祭。
京都の豊国神社の正式な鎮座に先立ち、前年11月28日に大阪別社が鎮座した。
阿弥陀ケ峰の整備
1881年(明治14年)7月1日、京都府は阿弥陀ケ峰の墓所を「豊国神社付属地」だと通達。
1897年(明治30年)4月、翌年の秀吉300年祭記念として豊国廟修築を起工。豊国会による。 1898年(明治31年)3月30日、墓所修築竣工。山上には高さ9.7mの巨大な五輪塔が建てられた。参道には565段の石階段が設けられた。墓域3万4000坪。従来30万坪からは10分の一に当たるが、面目を一新した。同月耳塚竣工。4月18日秀吉300年祭。
1915年(大正4年)11月10日、大正天皇即位にあたり、豊臣秀吉に正一位を贈位。
1921年(大正10年)12月22日、管轄下にあった大阪別社が独立し(内務省告示第248号)、豊国神社となり府社に列格した。
1925年(大正14年)、北政所を祀る摂社貞照神社を創建。11月18日、列格50年祭・北政所300年祭。 1935年(昭和10年)11月、大鳥居建立。
戦後
1958年(昭和33年)10月18日、350年祭。 1973年(昭和48年)3月28日、方広寺大仏殿焼失。 1980年(昭和55年)11月18日、鎮座100年祭。
境内・関連旧跡
近世
近現代
名称 | 所在地 | 種別 | 概要 |
---|---|---|---|
本社![]() | 境内 | 本社 | |
貞照神社![]() | 境内 | 摂社 | 祭神は北政所 |
槙本稲荷神社![]() | 境内 | 末社? | |
大阪豊国神社![]() | 旧飛地境内 | 旧別社 | 大阪別社。大阪府大阪市中央区大阪城。元は大阪中之島にあった。1921年(大正10年)12月22日に独立。 |
馬塚![]() | 境内 | 江戸時代に建てられた豊臣秀吉の供養塔。名称は地名の馬町に由来。 | |
豊臣秀吉墓![]() | 飛地境内 | 豊国廟と呼ばれている。 | |
御旅所跡 | 京都府京都市上京区東辰巳町。聚楽第跡。現在のデトムワン西陣聚楽2か。1911年(明治44年)まで渡御していたという[2]。使われたことがないともいう[3]。 | ||
耳塚![]() | 周辺 | 門前にある。 | |
方広寺![]() | 周辺 | 隣接。 | |
樹下社 | 周辺 | 新日吉神宮境内 |
豊臣国松墓 京極龍子墓
組織
宮司
- 岩崎長世(1807-1879)<1873->:国学者。1873年(明治6年)8月頃、初代豊国神社宮司。教導職大講義。(略歴は住吉大社#組織を参照)
- 萩原員光(1821-1902)<-1883>:旧豊国神社社家。子爵。豊国神社宮司から1883年(明治16年)2月20日、敢国神社宮司(公文録)。
- 日野西光善(1849-1923)<1883-1885>:子爵日野西家当主。1883年(明治16年)2月20日に豊国神社宮司に就任。1885年(明治18年)3月4日、白峰宮宮司に再任。同年4月21日、豊国神社宮司に再任。1887年(明治20年)4月19日、梨木神社宮司を兼務。1890年(明治23年)3月15日、四條畷神社宮司を兼務。同年7月1日、本職兼職とも退任。(略歴は平安神宮#組織を参照)
- 日野西光善(1849-1923)<1885-1890>:再任。1885年(明治18年)4月21日から1890年(明治23年)7月1日まで。
- 柴崎宣弘(1838-1912)<1892-1894>:1892年(明治25年)1月から1894年(明治27年)1月まで豊国神社宮司。(略歴は日枝神社#組織を参照)
- 近藤芳介(1822-1898)<>:伏見稲荷大社宮司。時期不明だが豊国神社宮司を兼務。(略歴は伏見稲荷大社#組織を参照)
- 戸田氏貞(生没年不詳)<1908->:貴船神社宮司を経て1908年(明治41年)10月30日、豊国神社宮司。
- 金子吉祇(1861-1924)<1915->:越後出身の神職。1915年(大正4年)豊国神社宮司。(略歴は、射水神社#組織を参照)
- 青山重鑑(1869-1932)<1918-1926>:滋賀県出身。1869年(明治2年)生。1902年(明治35年)国学院卒。中等学校教諭を経て1908年(明治41年)帰郷。滋賀県神職会神職養成部講師。1909年(明治42年)伊香具神社社司。1914年(大正3年)建部神社宮司。1918年(大正7年)豊国神社宮司。1926年(昭和1年)皇典講究所国学院大学主事。1930年(昭和5年)湊川神社宮司。1932年(昭和7年)死去。
- 氷室昭長(1886-1936)<-1928>:愛知県出身。津島神社旧社家。1886年(明治19年)生。1909年(明治42年)国学院大学専修部国文科卒。貴船神社禰宜。皇典講究所主事。国学院大学主事。豊国神社宮司から1928年(昭和3年)5月9日鶴岡八幡宮宮司。
- 宮崎清章(1894-1966)<1928-1936>:1894年(明治27年)生。1921年(大正10年)神宮皇学館卒。1928年(昭和3年)豊国神社宮司。1936年(昭和11年)10月大鳥神社宮司。1942年(昭和17年)大麻比古神社宮司。1943年(昭和18年)阿波神社社司。1956年(昭和31年)徳島県神社庁長。1958年(昭和33年)徳島県護国神社宮司。1966年(昭和41年)9月5日死去。
- 小松行一(1893-1985)<1936-1938>:男爵。護王神社宮司から1936年(昭和11年)10月豊国神社宮司。1938年(昭和13年)10月1日鎌倉宮宮司。
- 香西大見(1898-1979)<1938-1941>:1938年(昭和13年)10月1日豊国神社宮司。1941年(昭和16年)地方祭務官大阪府勤務。(略歴は、北野天満宮#組織を参照)
- 吉田貞治()<1941->:朝鮮神宮権宮司。
- 吉田良光(1900-)<-1947->:
- 吉田良武(1931-)<1970-2007>:宮城県出身。1931年(昭和6年)生。1947年(昭和22年)京都府皇典講究所京都国学院本科卒。同年、豊国神社出仕。1950年(昭和25年)豊国神社権禰宜。1895年(明治28年)熱田神宮権禰宜。1896年(明治29年)豊国神社禰宜。1961年(昭和36年)豊国神社宮司代務者。1970年(昭和45年)8月18日から2007年(平成19年)5月31日まで豊国神社宮司。
- 吉田武雄(1958-)<2007->:1958年(昭和33年)生。皇學館大学専攻科修了。松尾大社を経て1988年(昭和63年)豊国神社権禰宜。2007年(平成19年)6月1日、豊国神社宮司。
権宮司
- 柴田花守(1809-1890)<1874-1874>:実行教初代管長。1874年(明治7年)3月15日豊国神社権宮司となるが10月8日に辞職(岡田博「実行教と不二道孝心講」)。(略歴は、実行教#組織を参照)
画像
file:京都豊国神社-08.jpeg|貞照神社 File:京都豊国神社-05.jpeg|貞照神社本殿裏 File:京都豊国神社-01.jpeg|槙本稲荷神社 File:京都豊国神社-02.jpeg|槙本稲荷神社 File:豊国神社・馬塚.jpeg|馬塚五輪塔 </gallery>
年表
- 1598年(慶長3年)8月18日:豊臣秀吉死去。
- 1598年(慶長3年)9月6日:前田玄以が縄張り。
- 1599年(慶長4年)4月5日:遺骸を極秘裏に埋葬。
- 1599年(慶長4年)4月16~23日:鎮座祭。
- 16日:仮殿遷宮
- 17日:「豊国大明神」の神号を贈る。
- 18日:正遷宮。
- 19日:神階正一位。
- 20日:神楽奉納。
- 21日:天道祓200座を勤修。
- 22日:吉田家による神道護摩行事
- 23日:舞楽10番を奉納。
- 1599年(慶長4年)4月24日:大和四座が猿楽を奉納。
- 1599年(慶長4年)4月26日:徳川家康、豊臣秀頼、毛利輝元、加藤清正、前田玄以、高台院、淀殿らが黄金58枚、銀190枚を献納した。
- 1599年(慶長4年)8月18日:初めての豊国祭。徳川家康が参詣した。
- 1601年(慶長6年)7月25日:徳川家康が豊国神社に社領1万石を寄進。
- 1602年(慶長7年):徳川家康は豊国神社極楽門を竹生島宝厳寺に移築。新たに楼門を建立した。
- 1602年(慶長7年)6月:社領の千石の中から200石を智積院祈祷料に割かれる。
- 1602年(慶長7年)12月:再建中の方広寺大仏殿が炎上
- 1604年(慶長9年)8月4日:家康は梵俊を伏見城に招き、七回忌の祭礼について諮問する。
- 1604年(慶長9年)8月12~18日:豊国神社臨時祭礼
- 12日:湯立神事。
- 13日:降雨のため行事中止。
- 14日:馬揃え。
- 15日:町衆が踊りを奉納。
- 16日:神楽奉納。
- 17日:
- 18日:勅使中御門資胤が参拝奉幣。
- 1606年(慶長11年)6月:回廊着工。
- 1606年(慶長11年)8月16日:回廊竣工。
- 1606年(慶長11年)8月18日:片桐且元、臨時祭絵屏風を奉納
- 1607年(慶長12年)8月:後陽成天皇宸筆の勅額を掲げた。
- 1610年(慶長15年)8月19日、13回忌臨時祭礼。
- 1613年(慶長18年):大坂城に鎮守として大坂豊国神社が創建された。
- 1614年(慶長19年)7月:徳川家康、方広寺鐘銘事件。
- 1615年(元和1年)5月:大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。
- 1615年(元和1年)7月9日:家康、天海に豊国神社破却について諮問
- 1615年(元和1年)8月:豊国神社の宝物を寺院などに譲る。
- 1615年(元和1年)9月5日:本殿の扉を釘を打ち付ける。
- 1616年(元和2年)11月:熊本豊国神社、「改易」。
- 1619年(元和5年)9月:板倉勝重、豊国神社と神宮寺を妙法院門跡に移管。以後荒廃。
- 1619年(元和5年)11月:豊国神社神宮寺神龍院、妙法院に移管。
- 1619年(元和5年)12月11日:吉田神社内に「豊国鎮守」の「璽」が移され、吉田神龍院に豊国大明神が祀られた。
- 1629年(寛永6年):梵舜、豊国神社返却の噂を聞く。
- 1632年(寛永9年):梵舜死去。
- 1655年(明暦1年):妙法院により豊国神社参道をふさぐ形で新日吉神社が再建された。
- 1662年(寛文2年)5月:京都地震。豊国大明神の祟りの噂が流れる。
- 1665年(寛文5年)11月:萩原員従・吉田兼連、江戸に赴き、幕府に豊国神社再建を訴える。
- 1665年(寛文5年)12月:幕府、豊国神社再建を認める。修復料1000両を与える。
- 1667年(寛文7年):幕府、方広寺大仏殿修復。
- 1669年(寛文9年)1月:関白の使者が妙法院を訪問。豊国神社の山林と鍵について尋ねる。妙法院、関係書類を提出。
- 1671年(寛文11年)12月:萩原員従、修復料1000両の手形を幕府に返却。再建は中止となったらしい。
- 1697年(元禄10年):妙法院、秀吉100年忌法要。
- 1702年(元禄15年):妙法院、1705年(宝永2年)まで毎月18日に墓参。
- 1730年(享保15年):新日吉神社の祭礼を復興。
- 1747年(延享4年):妙法院、秀吉150回忌にあたり墓所の棺の上に経瓦を埋納。
- 1755年(宝暦5年):方広寺大仏殿の破損が著しいため勧進を始める。
- 1774年(安永3年):方広寺大仏殿、風雨で大破。
- 1765年(明和2年)3月12日:新日吉神社内の飛梅天神社から「豊国神体」が発見される。
- 1785年(天明5年)11月23日:新日吉神社で妙法院と神職が「神璽拝見」。豊国大明神だと判断される。
- 1785年(天明5年)11月27日:新日吉神社内に秀吉を祀る樹下社が創建される。
- 1797年(寛政9年):『絵本太閤記』出版。秀吉ブームが起こる。1804年(文化1年)発禁となる。
資料
絵図
- 豊国神社臨時祭図屏風[4]
古典籍
- 梵舜『舜旧記』
- 『義演准后日記』
- 『御湯殿上日記』
- 『萩原家文書』
- 『妙法院史料』
- 『寛文年録』
- 太田牛一『豊国大明神祭礼記』(『続群書類従』)
- 『豊国大明神臨時御祭礼記録』(『神道大系―神社編4』)
- 真静1832『豊公遺宝図略』[5](本文あり)
- 神宮司庁1914『古事類苑』「豊国神社」[6](本文あり)
- 『新日吉神宮文書』
- 中川喜雲『京童』(『新修京都叢書』)
- 室鳩巣『鳩巣小説』
- 神沢杜口『翁草』「豊国社の事」
- 「豊国大明神縁起稿断簡」(天理図書館吉田文庫)
文献(戦前)
- 宮地直一1919「豊国廟の創立」『神祇史綱要』明治書院[7](本文あり)
- 宮地直一1926「豊太閤と豊国大明神」『神祇と国史』古今書院[8](本文あり)
- 宮地直一1941「豊国大明神の創立」『神祇史大系』明治書院
- 山口鋭之助1923「唯一神道、豊国大明神、東照宮」『山陵の研究』明治聖徳記念学会[9](本文あり)
- 豊国神社1925『豊国神社誌』[10]
- 京都府1926『京都府史蹟勝地調査会報告5』[11](本文あり)
- 1930『豊国神社縁由略記』
- 魚澄惣五郎1931「豊国社破却の顛末」『古社寺の研究』星野書店[12](本文あり)
- 藤井貞文1931「豊国神社再興始末」『国史学』9[13]
- 大阪国学院1932『府社現行特殊慣行神事』[14](本文あり)
- 大阪市1932『豊公特別展観図録』小林写真製版所出版部[15]
- 近藤喜博1938「豊国大明神の分祀に就いて」『植木博士還暦記念国史学論集』[16]
- 近藤喜博1938「起請罰文の神としての豊国大明神」『史迹と美術』[17]
- 谷信一1939「豊太閤画像論」『美術研究』[18](本文あり)
- 鳥井寿山人1939『生ける豊太閤』世界創造社[19](本文あり)
- 豊国神社1939『府社豊国神社社記』[20](本文あり)
- 神祇院1941『官国幣社特殊神事調3』[21](本文あり)
- 河野省三1944「安土桃山時代の世相と豊国大明神」『神祇史提要』明世堂[22](本文あり)
文献(戦後)
- 千葉栄1955「豊国社成立の意義」『東洋大学紀要』[23]
- 近藤喜博1956「豊国大明神と虚堂和尚墨跡」『東京国立博物館研究誌 Museum』[24]
- 名迫梅荘1957『大阪の豊国神社分祀に干する一管見』[25]
- 横江義雄編1967『豊国神社小史 卯辰山叢書3』[26]:金沢豊国神社
- 藤島益雄1972『新日吉神宮略史―神殿・社宝・祭礼・行事並に由諸記』[27]
- 藤島益雄1970『新日吉神宮と豊国社頽廃後その神体の行方と樹下社の創建』[28]
- 坂本正仁1974「洛東智積院創立の一考察」『印度學佛教學研究』[29](本文あり)
- 藤井譲治1979「耳塚と秀吉」『続史跡でつづる京都の歴史』法律文化社[30]
- 藤井譲治2011『天皇の歴史05天皇と天下人』講談社[31]
- 中村博司1982「豊国神社―太閤忌にちなんで」『観光の大阪』357[32]
- 宇佐美義雄1986『名古屋豊国神社誌』豊國神社社務所[33]
- 三鬼清一郎1987「豊国社の造営に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』[34](本文あり)(『織豊期の国家と秩序』青史出版に所収)
- 三鬼清一郎「方広寺大仏殿の造営に関する一考察」(『織豊期の国家と秩序』青史出版に所収)
- 朝尾直弘1988『大系日本の歴史8天下一統』小学館[35]
- 平岡定海1991「豊国大明神の成立・方廣寺の成立」『権現信仰 民衆宗教史叢書23』雄山閣[36]
- 田辺建治郎1993「豊国大明神の信仰と祭祀について」『国学院大学大学院紀要』[37]
- 西山克1993「豊臣始祖神話の風景」『思想』[38]
- 北川央1994「江戸時代の豊国分祀」『ヒストリア』[39]
- 北川央1998「豊臣秀吉像と豊国社」『肖像画を読む』角川書店[40]
- 倉地克直1996「「公儀の神」と民衆」『近世の民衆と支配思想』柏書房[41]
- 津田三郎1997『秀吉英雄伝説の謎―日吉丸から豊太閤へ』中公文庫[42]
- 木戸敏郎1998「日本文化再発見私論23 阿弥陀ケ峯の仕組み 豊国大明神画像の分析」『日本及日本人』[43]
- 滋賀県立安土城考古博物館2018『武将たちは何故、神になるのか』
- 京都文化博物館学芸第2課編1998『秀吉と京都 豊国神社社宝展 豊太閤没後400年記念』[44]
- 河内将芳1999「豊国社の成立過程について 秀吉神格化をめぐって」『ヒストリア』[45](2006『中世京都の都市と宗教』思文閣出版に収録)
- 河内将芳2008『秀吉の大仏造立』法藏館[46]
- 河内将芳2018「研究ノート 東山大仏と豊臣政権期の京都 秀吉在世時を中心に」『史窓』[47](本文あり)
- 村山修一2000『皇族寺院変革史―天台宗妙法院門跡の歴史』塙書房[48]
- ロナルド・トビ2008「近世の都名所―方広寺前と耳塚」『歴史学研究』[49]
- 小松和彦2000「神になった人びと9豊臣秀吉 豊国神社」『淡交』[50]
- 中島誠一2004「湖北に残る秀吉信仰」市立長浜城歴史博物館編2004『神になった秀吉―秀吉人気の秘密を探る』[51]
- 丸山貞2005「第八八九回例会 豊国神社と方広寺」『史迹と美術』[52]
- 磯部佳宗2009「太田牛一『豊国大明神臨時御祭礼記録』の諸本と改稿の意味」『中京大学文学部紀要』[53]
- 池田智文2010「近代日本における豊臣秀吉認識」[54]
- 加藤悠希2012「聚楽第・伏見城・豊国廟遺構説の萌芽」『日本建築学会計画系論文集』[55](本文あり)
- 野村玄2012「豊国大明神号の創出過程に関する一考察」『史学雑誌』[56](本文あり)(『天下人の神格化と天皇』にも収録)
- 野村玄2015「慶長期初頭の政治情勢と豊国大明神」『天下人の神格化と天皇』思文閣出版[57]
- 野村玄2018『豊国大明神の誕生 変えられた秀吉の遺言』平凡社[58]
- 井上智勝2013「近世日本武家霊廟論序説-神・仏・儒のあいだ」『宗教研究』[59](本文あり)
- 芦原義行2013「豊国社の祭礼について 豊国社の神事並びに運営を中心に」『日本宗教文化史研究』[60]
- 芦原義行2013「豊国大明神の盛衰」『龍谷日本史研究』[61]
- 廣海伸彦2013「重要文化財 狩野内膳「豊国祭礼図屏風」 京都・豊国神社蔵」『紫明』[62]
- 北川弘紀2013「豊国社成立後の豊臣家と徳川家『舜旧記』による一試論」『織豊期研究』[63]
- 黒田日出男2013『豊国祭礼図を読む』角川選書[64]
- 松島仁2014「豊臣、その失われた風景を求めて 「洛中洛外図屏風」と「豊国大明神像」をめぐる試論」『聚美』[65]
- 中井均2014「豊国廟と東照宮の成立」『近世大名墓の成立 信長・秀吉・家康の墓と各地の大名墓を探る』[66]
- 松崎憲三2014「信長・秀吉の信仰と祭祀」『人神信仰の歴史民俗学的研究』岩田書院[67]
- 久世奈欧2015「近世期京都における豊国大明神の展開」『比較都市史研究』[68](本文あり)
- 久世奈欧2016「新日吉神宮における豊国社神体の発見」『近世京都』[69]
- 久世奈欧2017『博士論文 近世~近代初頭における神と由緒 神功皇后と豊国大明神』[70](要約あり)
- 林倫子・篠原知史2015「中之島公園地の誕生に関する一考察」『景観・デザイン研究講演集』[71](本文あり)
- 林倫子・篠原知史・大坪舞2017「大阪中之島山崎ノ鼻「公園地」に関する一考察」『土木学会論文集』[72](本文あり)