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函館海軍墓地
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年7月21日 (日)
函館海軍墓地は、北海道函館市にある海軍墓地。七面山海軍墓地とも呼ばれる。正式名称は函館葬儀場。あるいは船見町官修墳墓とも。現地では己巳役海軍戦死碑と呼ばれている。官修墳墓か。 1982『はこだて歴史散歩』には「官修墳墓は市内に三カ所あり、招魂社(今の護国神社)と山背泊と、ここだったが、山背泊のは大正年間に招魂社へ移したので、今はここと護国神社だけである」[1]とあり、函館海軍墓地も官修墳墓だったと記している(市内3カ所は市街地限定か)。『埋もれていた箱館戦争』でも「船見町官修墳墓」とする。 鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
目次 |
歴史
- 1869年(明治2年)4月9日:箱館湾海戦、始まる。
- 1869年(明治2年)5月11日:箱館湾海戦、終わる。朝陽鑑撃沈。
- 1869年(明治2年):七面山に函館港内の海軍戦死者7人を仮埋葬。
- 1869年(明治2年)10月18日?:海軍戦死者18人を上磯郡富川村八幡宮社地に仮埋葬。
- 1870年(明治3年)3月27日:富川村から七面山に改葬。
- 1873年(明治6年)12月:陸軍卿海軍卿が官軍戦没者墳墓の保存を右大臣に請願。
- 1874年(明治7年):函館支庁、七面社脇の125坪を海軍墓地として官有地に編入。
- 1879年(明治12年)2月27日:開拓使から海軍省に回答。墓地の扱いについて。
- 1881年(明治14年)10月23日:金田嘉平が軍務局に沿革を報告。
- 1951年(昭和26年):日蓮宗在家浄風会函館支部に払い下げた[2]。
墓碑など
- 己巳役海軍戦死碑
- 函館府在住隊碑?:小沢清太郎、川島由太郎、菊池重太郎、菅原忠作、続源次郎、浜田作蔵、林六三郎、藤井文吉、宮本長吉
- 和田彦兵衛墓?:鹿児島藩士。
- 土屋伝太郎直道墓?:鹿児島藩士。
- 黒阪源右衛門墓?:鹿児島藩士。
- 御華山寄付記念碑?
被葬者
『海軍制度沿革7』には以下のようにあるが、現存する石碑にどう当てはまるのか不明。
- 夏秋又之助:朝陽鑑副長。佐賀藩。1869年(明治2年)5月11日戦死。
- 繁蔵:朝陽鑑。讃岐。1869年(明治2年)5月11日戦死。
- 鬼塚麟之助広澄:朝陽鑑。長崎。1869年(明治2年)5月11日戦死。梅ケ崎官修墳墓・梅香崎招魂社。
- 直吉:朝陽鑑。東京。1869年(明治2年)5月11日戦死。
- 重吉:朝陽鑑。長崎。1869年(明治2年)5月11日戦死。梅ケ崎官修墳墓・梅香崎招魂社。
- 村上源助:朝陽鑑。長崎。1869年(明治2年)4月29日戦死。
- 栄太郎:朝陽鑑。東京。1869年(明治2年)5月11日戦死。
- 吉太郎:朝陽鑑。兵庫。1869年(明治2年)5月11日戦死。
- 順之助:朝陽鑑。1869年(明治2年)5月11日戦死。
- 寅吉:朝陽鑑。肥前。1869年(明治2年)5月11日戦死。
- 松尾由太郎:朝陽鑑。長崎。1869年(明治2年)5月7日戦死。梅ケ崎官修墳墓・梅香崎招魂社。
- 矢野順作:朝陽鑑。長崎。1869年(明治2年)5月7日戦死。梅ケ崎官修墳墓・梅香崎招魂社。
- 勝平:朝陽鑑。長崎。1869年(明治2年)5月7日戦死。梅ケ崎官修墳墓・梅香崎招魂社。
- 善之助:朝陽鑑。長崎。1869年(明治2年)5月7日戦死。梅ケ崎官修墳墓・梅香崎招魂社。
- 重吉:朝陽鑑。東京。1869年(明治2年)5月7日戦死。
- 平山太郎吉:朝陽鑑。1869年(明治2年)5月7日戦死。
- 松尾三助:朝陽鑑。1869年(明治2年)5月7日戦死。
- 小林五郎:甲鉄鑑士官。山口藩。1869年(明治2年)5月7日戦死。
- 徳次郎:甲鉄鑑。東京。1869年(明治2年)5月7日戦死。
- 村山貞助:春日鑑。鹿児島藩。1869年(明治2年)5月11日戦死。1920年(大正9年)函館官修墳墓に改葬[3]。
- 上野太郎:春日鑑。鹿児島藩。1869年(明治2年)5月11日戦死。1920年(大正9年)函館官修墳墓に改葬[4]。
- 三迫宗太郎:春日鑑。鹿児島藩。1869年(明治2年)5月11日戦死。1920年(大正9年)函館官修墳墓に改葬[5]。
- 前田嘉七郎利金:春日鑑。鹿児島藩。1869年(明治2年)5月11日戦死。1920年(大正9年)函館官修墳墓に改葬[6]。
- 和田彦兵衛秋清:春日鑑。鹿児島藩。1869年(明治2年)5月11日戦死。1920年(大正9年)函館官修墳墓に改葬[7]。ただし個人墓が函館海軍墓地に現存。
- 寅吉:飛龍丸。八丈島。1869年(明治2年)5月11日戦死。
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参考
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