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勧修寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年2月27日 (日)
(勧修寺門跡から転送)
勧修寺(かじゅうじ)は京都府京都市山科区にある真言宗の本山寺院。門跡寺院。本尊は千手観音。官寺二十五大寺の一つで定額寺でもある。本堂は元仮内侍所。醍醐天皇の勅願で承後を迎えて創建。承俊の出身寺院である東大寺と関係が深く、門跡が東大寺別当を兼ねたことも少なくなかった。元は住職を長吏といった。33世済範法親王が還俗して山階宮家を建てた。勧修寺家の氏寺。鎮守は勧修寺八幡宮。山号は亀甲山。勧修寺門跡、山階門跡(山科門跡)、東山科御殿ともいう。
目次 |
歴史
900年(昌泰3年)、醍醐天皇生母の藤原胤子の発願で、済高が創建。済高は師の承俊を開山とした。905年(延喜5年)9月、定額寺。真言宗・三論宗兼学が定められていた。918年(延喜18年)8月、済高が勧修寺別当に任命された。中世から皇族が入り、宮門跡となる。1879年(明治12年)、真言宗長者候補地となる。1885年(明治18年)4月門跡号復帰。1900年(明治33年)8月、東寺、泉涌寺、随心院と共に「真言宗」を設立。1906年(明治39年)真言宗山階派を設立した。
伽藍
子院
- 宝満院
- 勝福院
- 宝山院
- 慈尊院
組織
住職
勧修寺別当、勧修寺長吏などと呼ばれた。下記では歴代数は仮に付した。『望月仏教大辞典』「真言宗山階派本山勧修寺長吏歴代」は済高を「始祖」と記し、宥匡まで列挙し、歴代数を付さない。『日本仏家人名辞書』「真言宗勧修寺門跡歴代」は承俊を筆頭とし、宥匡まで列挙し、歴代数を付さない。
歴代(仮) | 名前 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(0) | 承俊 | ?-905 | 勧修寺開山。東大寺で法相宗、真言宗を学ぶ。済高の師で、済高が勧修寺を創建した時に開山に招かれた。『望月仏教大辞典』「真言宗山階派本山勧修寺長吏歴代」にはなし。905年(延喜5年)12月7日死去。 | |
(1) | 済高 | 870-942 | 910- | 承俊に師事。聖宝に伝法灌頂を受ける。910年(延喜10年)初代勧修寺長吏。東寺長者。金剛峰寺座主。942年(天慶5年)11月25日死去。73歳。 |
(2) | 貞誉 | ?-944 | ||
(3) | 遍覚 | 899-954 | 弟子に子島寺真興がいる。 | |
(4) | 雅慶 | 926-1012 | 955- | 真言宗の僧。敦実親王の王子。宇多天皇の孫。遍照寺寛朝の弟。石山寺元杲、興福寺遍覚に学ぶ。955年(天暦9年)4月3日勧修寺別当。975年(天延3年)、東寺に入り、984年(永観2年)東寺の凡僧別当。988年(永延2年)、寛朝が東寺一長者になると同時に、雅慶も三長者となる。991年(正暦2年)には東寺二長者。999年(長保1年)に東寺一長者になる。同年8月9日東大寺別当63世となる。仁和寺別当。1012年(長和1年)10月25日死去。「がけい」と訓ずる。(『東大寺辞典』) |
(5) | 済信 | 954-1030 | 1007?- | 真言宗の僧。源雅信の子。敦実親王の孫。勧修寺雅慶に師事。寛朝に学ぶ。仁和寺喜受院に住す。998年(長徳4年)東寺二長者。1005年(寛弘2年)12月26日、東大寺別当64世。1007年(寛弘4年)、東大寺別当を辞任し、勧修寺長吏となり、さらに東寺長者法務。僧侶として初めて牛車の使用が認められた。1023年(治安3年)、仁和寺観音院で性信法親王に灌頂を授ける。藤原道長の葬儀の導師を務めた。1030年(長元3年)6月11日死去。(『東大寺辞典』) |
(6) | 深覚 | 955-1043 | 真言宗の僧。藤原師輔の子。寛朝に学ぶ。勧修寺長吏。禅林寺住職。東大寺別当60世・62世・68世(992年(正暦3年)7月8日東大寺別当。2年で辞任。998年(長徳4年)7月8日再任。半年で辞任。1016年(長和5年)5月16日再任。1020年(寛仁4年)辞任)。1033年(長元6年)東寺長者。金剛峰寺無量寿院を創建。1043年(長久4年)9月14日死去。(『東大寺辞典』ほか) | |
(7) | 信覚 | 1011-1084 | 真言宗の僧。藤原公季の子。仁和寺で深覚に密教を学ぶ。勧修寺済信に師事。1071年(延久3年)2月22日東大寺別当80世。在任中に東大寺八幡宮を造替。1075年(承保2年)東寺長者法務。勧修寺長吏。仁和寺別当。金剛峰寺座主。1084年(応徳1年)9月15日死去。(『東大寺辞典』) | |
(8) | 厳覚 | 1056-1121 | 園城寺行尊の弟。随心院門跡11世。東寺二長者。 | |
(9) | 寛信 | 1084-1153 | 1110- | 三論宗・真言宗の僧。勧修寺流の祖。参議藤原為房の子。東南院に入り、覚樹に三論宗を学ぶ。安祥寺厳覚に密教を学ぶ。1103年(康和5年)10月、20歳で勧修寺権別当。1110年(天永1年)勧修寺別当。1113年(永久1年)東寺に入る。維摩会講師。1118年(元永1年)最勝講講師を7年務める。1136年(保延2年)元興寺別当。1142年(康治1年)、鳥羽法皇東大寺で受戒し羯磨師。東寺二長者。1146年(久安2年)東寺一長者。翌年1月14日東大寺別当88世。また高野山で大塔造営を始めた。1153年(仁平3年)3月17日勧修寺で死去。東寺長者法務。著書に『類秘抄』『尊勝抄』『肝要抄』『東寺要集』など。(『東大寺辞典』) |
(10) | 雅宝 | 1131-1190 | 葉室顕頼の子。実信に師事。勧修寺長吏。1186年(文治2年)3月4日に東大寺別当95世(「仏家次第」では7日)。1188年(文治4年)東大寺別当辞任。別当在任中、周防国を東大寺造営料所に充てることが許可された。1189年(文治5年)3月21日、もしくは1190年(建久1年)5月13日死去。実報院。(『東大寺辞典』) | |
(11) | 成宝 | 1159-1227 | 三論宗の僧。藤原惟方の子。勧修寺門跡。顕慧に師事。1199年(正治1年)元興寺に住す。1206年(建永1年)東寺長者。1210年(承元4年)4月17日東大寺別当102世。8月27日大仏殿拝堂。1212年(建暦2年)3月14日、東大寺華厳会を再興。大安寺別当を兼務。1213年(建保1年)東大寺別当辞職。1222年(貞応1年)4月4日東大寺別当再任。1221年(承久3年)東寺長者に再任。1227年(安貞1年)10月7日死去。(『東大寺辞典』) | |
(12) | 聖基 | 1204-1267 | 1226- | 藤原隆忠の子。摂政藤原基房の猶子。禅林寺静遍に師事。広沢流を学ぶ。1225年(嘉禄1年)維摩会講師。1226年(嘉禄2年)勧修寺長吏。1229年(寛喜1年)最勝講講師。1262年(弘長2年)6月16日東大寺別当113世(「仏家次第」では1263年(弘長3年))。1267年(文永4年)東大寺別当辞任。12月9日死去。東寺長者。南谷大僧正。(『東大寺辞典』) |
(13) | 道宝 | 1214-1281 | 九条良輔の子。勧修寺門跡。大安寺別当。安祥寺。九条道家の猶子。成宝の弟子。1234年(文暦1年)維摩会講師。1273年(文永10年)神泉苑で祈雨。1277年(建治3年)後宇多天皇護持僧。伊勢神宮で敵国降伏祈祷。1273年(文永10年)東寺二長者。1281年(弘安4年)3月5日東大寺別当117世となるがまもなく8月4日に死去(「仏家次第」では7日)。安祥寺大僧正とも呼ばれた。(『東大寺辞典』) | |
(14) | 勝信 | 1235-1287 | 1253- | 関白九条道家の子。11歳で東大寺尊勝院に入寺。華厳倶舎を学ぶ。のち勧修寺道宝の弟子となり、密教小野流を学ぶ。1253年(建長5年)勧修寺長吏。観修寺検校。1280年(弘安3年)東寺長者。法務?。1281年(弘安4年)8月4日東大寺別当118世。1287年(弘安10年)53歳で死去。(『東大寺辞典』) |
(15) | 道淳 | 生没年不詳 | ||
(16) | 信忠 | ?-1322 | 関白藤原忠家の子。勧修寺に学ぶ。勧修寺勝信に師事。道宝から密教と三論を学ぶ。1300年(正安2年)東寺二長者。翌年東寺長者。1305年(嘉元3年)東寺長者辞職。1310年(延慶3年)3月3日東大寺別当125世。1313年(正和2年)東大寺別当辞職。1322年(元亨2年)10月19日、関東で死去。(『東大寺辞典』) | |
(17) | 教寛 | 生没年不詳 | 勧修寺長吏。1320年(元応2年)東大寺別当129世就任。1331年(元弘1年)東大寺別当131世に再任。1324年(正中1年)東寺一長者。(『東大寺辞典』) | |
(18) | 寛胤法親王 | 1309-1376 | 1337- | 後伏見天皇の第七皇子。勧修寺に入寺。東大寺戒壇院で受戒。東南院で三論宗を学ぶ。教寛に伝法灌頂。1337年(延元2年/建武4年)勧修寺長吏。1338年(延元3年/暦応1年)、北朝により東大寺別当136世。勧修寺に居て、寺務代を派遣し、政務を司った。寺領の悪党の対応に苦慮。1350年(正平5年/観応1年)東大寺別当138世再任。1360年(正平15年/延文5年)東寺長者法務。1367年(正平22年/貞治6年)6月東大寺別当140世再任。東南院を修理し、東大寺八幡宮領の確保に尽力。1376年(永和2年)4月3日死去。68歳。後安祥寺宮と号す。(『東大寺辞典』) |
(19) | 尊信法親王 | 1324-1380 | 常盤井宮恒明親王の王子。亀山天皇の皇孫。勧修寺寛胤法親王に師事。1373年(文中2年/応安6年)9月11日、東大寺別当141世。寺務代は尊勝院が務めた。1380年(天授6年/康暦2年)4月21日死去。56歳。勧修寺長吏。後宝泉院と号す。(『東大寺辞典』) | |
(20) | 興信法親王 | 1358-1391 | 崇光天皇皇子。施無畏王院。 | |
(21) | 尊興法親王 | 1375-1424 | 常磐井宮満仁親王王子。准三宮。 | |
(22) | 興胤法親王 | 1394-1428 | 常磐井宮満仁親王の王子。兄の尊興法親王に師事。1411年(応永18年)東大寺別当149世(148世光経より先になってしまうので要検討。仏家次第では1416年(応永23年)2月就任とし、こちらが正しいか)。1414年(応永21年)東大寺別当辞職。のち勧修寺長吏。1428年(正長1年)5月27日、勝福院で死去。35歳。(『東大寺辞典』) | |
(23) | 尊聖法親王 | 1375-1432 | 長慶天皇皇子。佐山宮。 | |
(24) | 教尊法親王 | 生没年不詳 | 小倉宮の王子(後醍醐天皇五世孫)。禁闕の変で捕縛され、隠岐に配流。 | |
(25) | 恒弘法親王 | 1431-1509 | 常盤井宮直明王の王子。はじめ恒興と称し、恒弘に改めた。勧修寺に入る。教尊に真言を学ぶ。勧修寺長吏。1451年(宝徳3年)東大寺別当155世。。1455年(康正1年)東大寺別当辞任。1509年(永正6年)閏8月8日死去。69歳。(『東大寺辞典』) | |
(26) | 常弘法親王 | 1461-1513 | 貞常親王王子。覚円法親王。染王院。日本仏家人名辞書では「常信」とする。 | |
(27) | 海覚法親王 | 1499-1531 | 邦高親王王子。安祥寺寺務、四天王寺寺務。 | |
(28) | 寛欽法親王 | 1514-1563 | 貞敦親王王子。安祥寺検校。天平寺検校。後染王院。 | |
(29) | 聖信 | ?-1592 | ||
(30) | 寛海 | ?-1658 | ||
(31) | 寛俊 | ?-1682 | ||
(32) | 済深法親王 | 1671-1701 | 霊元天皇皇子(中御門天皇皇子?)。東大寺別当179世を兼務し、大勧進公慶と共に東大寺大仏殿再建に関わった。(略歴は東大寺#組織を参照) | |
(33) | 尊孝法親王 | 1701-1748 | 伏見宮邦永親王の王子。1701年(元禄14年)9月24日生。勧修寺長吏。三論宗を学ぶ。潤海に真言宗を学ぶ。1722年(享保7年)12月12日東南院門跡。翌年1月15日東大寺別当181世。(『東大寺辞典』) | |
(34) | 寛宝法親王 | 1733-1802 | 伏見宮貞建親王の王子。1748年(寛延1年)6月29日東大寺別当182世。1774年(安永3年)11月25日、還俗して伏見宮家17代を継ぐ。邦頼親王。究竟覚院。(『東大寺辞典』) | |
(35) | 済範法親王(山階宮晃親王) | 1816-1898 | 俗名の山階宮晃親王が知られる。勧修寺門跡。東南院門跡。1829年(文政12年)11月15日東大寺別当186世を兼務。1841年(天保12年)10月、女王と出奔事件を起こし東大寺別当など諸職解任。1864年(元治1年)還俗し、山階宮を創設。(『東大寺辞典』ほか) | |
(36) | 渡辺雲照 | 1827-1909 | 1874-1877 | 戒律復興を主張。十善会を設立。仁和寺門跡。日本仏家人名辞書では「雲昭」とする。1874年(明治7年)3月勧修寺住職に就任。1877年(明治10年)10月辞任。自戒の生活が門跡の格式と合わなかったためという。正式な歴代に数えられていないという。(別所栄厳和上伝) |
(37) | 別所栄厳 | 1814-1900 | 1878-1884 | 1878年(明治11年)春、勧修寺住職に就任。1884年7月4日、仁和寺門跡に転じる。東寺長者。(別所栄厳和上伝) |
(38) | 菅覚阿 | 1834-1889 | 1886-1889 | 1885年9月勧修寺寺務総理となる。1886年9月20日、仁和寺副住職を辞して勧修寺住職。1889年8月6日死去。56歳。南谷墓地。(別所栄厳和上伝) |
(39) | 鼎龍暁 | 1891- | 1891年7月20日、公選で勧修寺住職に就任。しかし、住職就任を固辞して「勧修寺寺務請持」を名乗る。勧修寺保存会を設立。泉涌寺長老。東寺長者。(別所栄厳和上伝) | |
(40) | 釈内海寂 | 1846-1899 | ?-1899 | 1899年6月20日死去。54歳。墓地は高野山正智院。遺髪を勧修寺南谷墓地に葬る。(別所栄厳和上伝) |
(41) | 長宥匡 | 1838-1917 | 1907?-1917? | 山階派独立を実現し、1907年(明治40年)12月7日、管長認可(官報12月9日)。1917年(大正6年)1月11日管長在職で死去(官報1月19日)。東寺長者。 |
(42) | 和田大円 | 1859-1932 | 1917-1931 | 1917年(大正6年)7月13日管長就任認可(官報7月14日)。1931年(昭和6年)辞職。翌年死去。 |
(43) | 田村智範 | ?-1931 | 1931-1931 | 1931年(昭和6年)5月8日、管長就任認可(官報5月11日)。同年死去(官報7月18日)。 |
(44) | 密門快範 | 1864-1944 | 1931- | 1864年(元治1年)江戸生。1875年(明治8年)入寺し得度。1898年(明治31年)久米寺住職。1931年(昭和6年)勧修寺住職。(『現代仏教界要覧』)。同年10月19日管長就任認可(官報10月21日)。金剛峰寺寺務検校執行法印419世。 |
(45) | 鷲尾光遍 | 1879-1967 | 1879年(明治12年)9月16日生。京都出身。父は神宮大宮司の三室戸和光。10歳で石山寺に入寺して月照に師事。1889年(明治22年)得度。1901年(明治34年)古義真言宗大学卒業。1910年(明治43年)、石山寺座主53世に就任。1920年(大正9年)、鷲尾男爵家を継ぐ。(『大津市人物名鑑』) | |
(46) | 筑波常遍 | 1935- | 靖国神社宮司筑波藤麿の子。 |
- 「延喜御願勧修寺門跡次第」『諸門跡承伝系図』[1]