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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

吉田家八神殿代

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月3日 (水)

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吉田家 八神殿代 跡地(左右の祠の間の石垣の上に鎮座していた。)

吉田家八神殿代は京都吉田の大元宮内あった神殿。神祇官八神殿の代わりとされた。吉田家が司った。皇居宮中三殿神殿に合祀された。

歴史

天正18年(1590)3月13日、古代神祇官の八神殿が吉田家斎場所に再興される旨の勅許を得た(「吉田家寛文九年注進状」、『職原抄中原家伝秘録』)。これを受けて、4月18日に吉田斎場所に八神殿を奉遷したという(『職原抄中原家伝秘録』)。 しかしながら、別の史料では慶長2年(1597)に神祇官跡地の古社殿を吉田に移したともあり(『伯家部類』雅朝王雑談条)、また豊臣秀吉が築城のときに吉田に移したという説もある。

実際に吉田家斎場所八神殿が神祇官代として用いられたのは、慶長14(1609)9月16日に伊勢一社奉幣使発遣に使ったのが初例であるという(「吉田家寛文九年注進状」、『孝亮宿禰記』)。しかし、まだ吉田の地位は定まらず、神祇官跡地を用いることもあった。『孝亮宿禰記』の元和3年(1617)の記述によれば、今回は吉田は使わないと述べ、内野の神祇官跡地に神祇官代を設け、東照宮への一社奉幣を行ったという。 白川家八神殿代が鎮魂祭の斎場となったのに対して吉田家の八神殿代は勅使発遣の場として用いられた。

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