ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

越前・本覚寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年9月27日 (金)

和田本覚寺から転送)
移動: 案内, 検索
和田本覚寺 (1).jpg

本覚寺(ほんがくじ)は、福井県吉田郡永平寺町東古市にある浄土真宗寺院。元は高田門徒系の和田門徒の中核的寺院の一つだった。超勝寺と共に越前一向一揆の拠点。追放されて加賀に一時移転し帰還。戦前は福井別院の近くにあった。加賀にも小松本覚寺がある。和田本覚寺浄土真宗本願寺派。山号は和田山。(参考:同名寺院本覚寺

和田門徒の信性が創建。1311年(応長1年)、覚如に帰依して本願寺教団に組み込まれた。のち分裂して超勝寺性宗寺が分立するが、越前国で圧倒的な力をふるった。 蓮如が越前国吉崎に吉崎御坊を建てることができたのも本覚寺蓮光の支援があったからだという。 蓮如退去後の吉崎御坊の留守を預かり、吉崎殿とも呼ばれた。

1506年(永正3年)の越前一向一揆で朝倉氏に敗北して加賀に逃れた。 1531年(享禄4年)の大小一揆(享禄錯乱)では、本覚寺と超勝寺は本願寺勢と結び付いて、加賀在地の松岡寺加賀・本泉寺光教寺願得寺加賀四寺と対立して勝利した。 1568年(永禄11年)、朝倉氏と和睦して越前国に帰還した。 1591年(天正19年)の末寺帳には110寺が記されている。 福井別院の創建と共にその後見役に任じられた。 北庄柳町に移り1659年(万治2年)の大火で焼失して表御堂町(福井別院の近く)に移転。1945年(昭和20年)の空襲で被災して現在地に移った。

(『日本歴史地名大系』)

組織

歴代住職

住職系譜[1]

  • 信性()<>:親性。和田円善の子とも、波多野義重(永平寺開基)の子ともいう。
  • 長若丸
  • 1蓮光()<>:
  • 2蓮恵()<>:
  • 3実恵()<>:
  • 4証寿()<>:証授
  • 5顕正()<>:
  • 6准正()<>:
  • 7良慧()<>:
  • 8良栄()<>:
  • 9良秀()<>:
  • 10寂永()<>:
  • 11寂清(1664-1721)<>:峻諦。良秀の子。勝授寺に入る。院室となる。上京して知空に学ぶ。1721年(享保6年)1月5日死去。58歳。
  • 本眼
  • 法炬
  • 17本証(1785-1862)<>:吉江西光寺から入寺。覚厳。勧学。1862年(文久2年)死去。78歳。顕真院。
  • 18波多野広善()<>:坊城家から入寺。
  • 19波多野尊照()<>:西超勝寺から入寺。
  • 20波多野昭堅()<>:

資料

  • 1983『北陸真宗教団史論―小松本覚寺史』[2]
    • 住職系譜[3]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B6%8A%E5%89%8D%E3%83%BB%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール