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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

喜蔵院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月4日 (土)

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喜蔵院(きぞういん)は、奈良県吉野郡吉野町の吉野山にある修験道本山派の寺院。本尊は役小角。元は金峰山寺の一院。大峰山寺護持院の一つ。本山修験宗。本山派の峰入りの拠点。本山派二十七先達の一つ。金剛寺。山号は護法山。

歴史

承和年間、円珍が入峰した時に創建。 寺僧方だった。 江戸時代から本山派大先達。

天文年間に存在した花光院が喜蔵院の前身という見方がある。1591年(天正19年)吉野先達の花光院が聖護院の命で深仙灌頂堂を再興している。しかし、その後、喜蔵院と入れ替わるように花光院の名が消える。後世、花光院が喜蔵院の隠居の名として使われていることも両寺に何らかの関係があったことを示唆する。

中興の永尊は元は高野山行人方の僧で、高野山にあった喜蔵院を隠居して元和年間に吉野に来て、華蔵院を復興して喜蔵院と改称したという。ただし、この頃の同時代史料は現存しない。 喜蔵院の初見は金地院崇伝『本光国師日記』の1613年(慶長18年)3月5日条で、修理に携わる快元が新熊野院らの不正を訴え、新熊野院の手代の喜蔵院と宝泉院を召喚して尋問するように主張している。史料から同月までには寺僧中に喜蔵院が入っていたことが分かるが、「高」と記してあり、高野山との関係を示す。1614年(慶長19年)、吉野山総中の非難を受け、同年、天海の下知に従う宣詞を提出している。 1615年(元和1年)から本山派有力先達の宿坊を買い集めており基盤を固めたらしい。 1667年(寛文7年)熊沢蕃山が滞在。 文化年間、聖護院宮盈仁法親王が入峰に際し滞在。

明治の神仏分離で廃絶となる。明治21年(1888)、復興。(日本歴史地名大系、国史大辞典)

門前に大坂三郷山上講の石碑がある。

寿稲荷大明神、牛頭天王、大峰龍神がある。

組織

歴代

  • 円珍():開山。
  • 1永尊():中興。1615年(元和1年)在職。1627年(寛永4年)死去。祐弁とも
  • 2純忍():1665年(寛文5年)死去。
  • 3永信():1693年(元禄6年)死去。
  • 4円信():1693年(元禄6年)9月21日、尾張国先達職に補任。1721年(享保6年)死去。56歳。
  • 5智円():1729年(享保14年)学頭代に就任。この頃に旧本堂など伽藍を整備した。1742年(寛保2年)吉水院に転住。喜蔵院は兼務となる。1754年(宝暦4年)死去。60歳。
  • 6海信():1754年(宝暦4年)学頭代の海信が吉祥院から喜蔵院に転住。1761年(宝暦11年)吉水院に転住した。1765年(明和2年)死去。54歳。
  • 7智厳():1786年(天明6年)輪王寺宮から木蘭色衣許可。のち吉水院を兼務。1798年(寛政10年)死去。
  • 8智俊():1795年(寛政7年)青蓮院宮から三緒袈裟を許可。1797年(寛政9年)死去。
  • 9恵倫():1802年(享和2年)隠居。
  • 10達道():1818年(文政1年)退院。
  • 11法輪():1818年(文政1年)就任。1820年(文政3年)青蓮院宮から三緒袈裟を許可。1821年(文政4年)輪王寺宮から木蘭色衣許可。数年で隠退。
  • 12孝盛():1825年(文政8年)就任。多武峰心城院法俊の弟子。財政を再建し、伽藍を整備した。1832年(天保3年)「山伏帳」を記したが、これは本山派山伏を全国網羅的に把握できる一級史料だという。1839年(天保10年)輪王寺宮から木蘭色衣許可。1853年(嘉永6年)隠居して花光院の号を与えられた。1854年(安政1年)2月7日、峰中出世大先達となった。1863年(文久3年)死去。60歳。
  • 13忍盛():1846年(弘化3年)孝盛の弟子となる。1853年(嘉永6年)就任。1867年(慶応3年)退任し、聖護院から「諦観院」の号を与えられた。
  • 14信覚():宮城信覚。忍盛の兄。吉祥院高道の弟子。1841年(天保12年)蓮蔵院住職となり、1867年(慶応3年)8月に喜蔵院に転住。1874年(明治7年)6月、吉野一山が廃絶となり喜蔵院も廃絶。9月7日復飾許可。宮城姓を名乗った。仏像などは「諸仏堂」に引き渡した。金峰神社に奉仕したが翌年隠居した。1882年(明治15年)死去。62歳。
  • 15洞盛():宮城宏年。宮城晋一。宮城信覚の子。忍盛の弟子として1861年(文久1年)得度。1868年(明治1年)9月までに新熊野院住職。1870年(明治3年)蓮蔵院住職。ついで喜蔵院後住となるが、1874年(明治7年)6月の廃仏で還俗。1886年(明治19年)6月に金峰山寺が復興し9月に東南院、竹林院、桜本坊が復興したが、喜蔵院は認可されなかった。一度還俗した神職が住職になることが問題視されたらしい。1887年(明治20年)に大阪府に合併されていた奈良県が再設置されると1888年(明治21年)6月、奈良県に復興を申請し9月7日許可得た。住職は兼務として竹林院の福井良啓がなったが、宮城晋一はまもなく改めて園城寺で出家し、同年喜蔵院住職となった。1888年(明治21年)8月、喜蔵院を復興し住職となる。1904年(明治37年)11月12日死去。
  • 16岩本恭随(1863-1922):聖護院門跡門主が兼務。
  • 17岩本光徹(?-1982):聖護院門跡門主が兼務。
  • 18中井禅隆():弘願寺から入寺。1941年(昭和16年)住職。聖護院総務。
  • 19中井教善():

(金峰山寺史)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%96%9C%E8%94%B5%E9%99%A2」より作成

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