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京都・金蓮寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月20日 (土)

四条道場から転送)
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鷹峰の金蓮寺の庫裏。本堂は再建されていないようだ。

金蓮寺(こんれんじ)は、京都府京都市北区鷹峯藤林町にある一遍旧跡時宗寺院。元は四条京極の八坂神社四条御旅所の北隣にあった。祇陀林寺が前身と伝える。かつての時宗四条派の拠点寺院。一遍賦算の旧跡。錦綾山金蓮寺四条道場四条京極道場。(参考:同名寺院金蓮寺

遊行派の拠点であった七条道場とたびたび対立した。 時宗四条派の四本寺に浄信寺熱田・円福寺和泉・引接寺、尼崎摂津・善通寺があった。

目次

歴史

金蓮寺旧地に残る染殿院。新京極商店街の南端に「時宗開祖一遍上人念仏賦算遺跡」碑が立つ

創建

浄阿真観は、熊野新宮の神託で形木名号を授かり、他阿真教の弟子となる前から賦算していた。 他阿真教に随従の後、京都祇陀林寺に滞在。その間、1311年(応長1年)2月、後伏見上皇の帰依を受けて勅して寺を賜った。花園天皇から「錦綾山太平興国金蓮寺」の勅額を下賜された。 1312年(正和1年)、上人号を賜る。

足利家の庇護

1357年(正平12年/延文2年)、佐々木高氏(道誉)が私領を寄進。足利義満の庇護を受けた。 1388年(元中5年/嘉慶2年)2月23日、足利義満の御教書で染殿地蔵(のちの染殿院。釈迦堂とも)が金蓮寺の管轄となった。 明徳の乱の敗将の山名満幸は1394年(応永1年)京都で首を切られ、その首は四条道場に送られた。そして鳥部野の道場で供養された。

遊行派との対立

1396年(応永3年)頃にはまだ遊行派との関係は良好であったことが遊行派の『往古過去帳』に歴代の没日が記されることから分かる。 しかし6世のころから遊行派と対立。 1409年(応永16年)3月22日や1424年(応永31年)8月10日に火災。これは遊行派の京都拠点である七条道場との対立によるものという。特に後者は将軍足利義量が七条道場の末寺とするように命じ7世はそれに従い、七条道場で遊行上人15世尊恵から十念を受けたので、内部の反発を買い、「自焼」したという。 以後も将軍家の葬儀の席次を巡って七条道場とたびたび争う。 1430年(永享2年)6月11日、足利義教が四条道場で7世と連歌を行う。 1491年(延徳3年)8月28日には相国寺蔭涼軒10世の亀泉集証が訪れて当時の寺内の様子を記している。 室町時代は文学芸能の中心地の一つとなり、踊り念仏だけでなく、早歌、曲舞、田楽、獅子舞などが行われていたようだ。 連歌師も多く輩出した。曽我兄弟の子孫と称するものが金蓮寺で時衆となり、曽我物語を語り広めたとも考えられるという。

近世

応仁の乱で焼失。天文年間、後奈良天皇の勅許で再建。 1544年(天文13年)、後土御門天皇が四脚門建立を勅許。 1591年(天正19年)、豊臣秀次が23石寄進。 天正年間、北隣に歓喜光寺が移転してきた。

江戸時代には四条派の学林が設置され、加行が行われた。 1737年(元文2年)、浄土宗鎮西派正栄寺の恵観が晋山し、金蓮寺を時宗・浄土宗・禅宗の三宗兼学の道場とすることとしたが、実際には鎮西派改宗を意図したものとされ、寺社奉行へ訴え、追放された。

1788年(天明8年)、天明の大火で焼失。

たびたび出開帳の会場となった。(月堂見聞集)

  • 1711年(正徳1年):月輪寺
  • 1716年(享保1年):丹波国分寺
  • 1722年(享保7年):不明
  • 1722年(享保7年):西七条十王堂
  • 1723年(享保8年):久世万福寺

また様々な寺社主催による富くじ興行も行われた。

  • 1782年(天明2年):談山神社
  • 1790年(寛政2年):東大寺か
  • 1830年(天保1年):大覚寺覚勝院
  • 1831年(天保2年):東山円光寺
  • 1832年(天保3年):増上寺
  • 1833年(天保4年):東寺
  • 1833年(天保4年):東岩倉山真性寺
  • 1833年(天保4年):西岩倉山金蔵院
  • 1834年(天保5年):北野天満宮妙蔵院
  • 1834年(天保5年):仁和寺
  • 1836年(天保7年):那智山実方院

衰退と鷹ケ峰移転

1825年(文政8年)、再建。この頃から寺運は傾き、広大な寺域を少しずつ切り売りして付近に料亭、飲食店、商店などが増えていった。

1926年(昭和1年)、市中の雑踏と火災を避けるために鷹峰に移転を決定。 1934年(昭和9年)までに庫裏を移築し、本堂用材を運んだ。ただし本堂は現在も建てられていない。 鎮守の弁財天社がある。

子院

金蓮寺(国土地理院空中写真より)
  • 元正院:
  • 梅林院:
  • 後松庵:
  • 照月院:
  • 知足院:
  • 南涼院:
  • 寿福庵:
  • 永福院:
  • 宝珠庵:
  • 長春庵:
  • 尋牛庵:
  • 興徳庵:
  • 松林院:
  • 放光庵:
  • 十住心院:空海の旧跡という。染殿院と改称。
  • 真珠庵:

組織

歴代住職

  • 歴代住職は「浄阿」(浄阿弥陀仏)を名乗る。上人号を勅許され、四条上人と呼ばれた。
  • 京都に限って賦算権を持っていたとされる。
  • 「四条道場金蓮寺歴代世譜」より
世数 生没年 在職年 略歴
1 浄阿真観 1268-1341 上総出身。鎌倉極楽寺忍性に戒律を学び、紀伊興国寺心地覚心に禅を学ぶ。心地覚心の勧めで熊野本宮熊野新宮に参詣。新宮で夢告により「念仏の形木」を授けられ、賦算を命じられたという。この時、一阿弥陀仏の名を与えられた。心地覚心から印可を得て、諸国を遊行。越中野尻で日蓮宗信徒に迫害され、淵に沈められそうになったが、奇瑞により領主に助けられた。野尻の日蓮宗信徒はみな念仏に帰依したという。1300年(正安2年)、上野国で他阿真教に出会い、3日間の法談を経て浄阿と改めた。真教と共に遊行し、1304年(嘉元2年)1月、共に無量光寺に逗留。1309年(延慶2年)、上洛して祇陀林寺釈迦堂に寓す。1311年(応長1年)2月には後伏見上皇の妃の広義門院寧子の出産に念仏札を授けたところ、無事に皇子(のちの光厳天皇)が生まれた。よって後伏見上皇から上人号を賜り、寺号を金蓮寺と改めた。花園上皇から勅額を得たという。無量光寺にいた真教は形木名号と印可状を送って相続。また浄阿は上奏して、綸旨で真教に「他阿上人」号が許可された。1314年(正和3年)9月、他阿真教が金蓮寺に立ち寄ると広義門院が聴聞に参詣。広義門院は浄阿に賦算の許可も与えるように請願し、洛中に限って賦算権を認めた。1341年(興国2年/暦応4年)6月2日死去。74歳。『浄阿上人伝』『浄阿上人絵詞伝』『浄阿上人行状』が残る。(時宗教団史)
2 浄阿 1304-1360 1341-1360 作阿。1304年(嘉元2年)生。1341年(興国2年/暦応4年)7月形木名号を相続。1360年(正平15年/延文5年)8月25日死去。57歳。連歌師としても活躍。
3 浄阿 1301-1370 1360-1370 厳阿。熱田円福寺開山。足利家の出身。1301年(正安3年)生。元は天台僧だった。故あって比叡山を去り、熱田洲崎の毘沙門堂に滞在。この時、他阿真教に帰依して時宗となる。熱田神宮に千日社参し、その加護で円福寺を創建した。足利尊氏の寄進で整備。1360年(正平15年/延文5年)9月3日形木を相続。1370年(応安3年)9月28日(26日、27日とも)死去。70歳。『新後拾遺集』に歌を収録。
4 浄阿重阿 1317-1379 1370-1379 隠岐国大光明寺(大光寺。隠岐郡隠岐の島町有木大光寺前。隠岐国分寺境外仏堂として小堂が残るという)より晋山。1370年(建徳1年/応安3年)11月8日、形木名号相続。熱田円福寺の請願で熱田神宮に『日本書紀』を奉納。1379年(天授5年/康暦1年)1月26日死去。63歳。大光寺に御影像が伝わる。
5 浄阿慶恩 1318-1396 1379-1396 足利尊氏の伯父とも。熱田円福寺2世。厳阿の弟子。1379年(天授5年/康暦1年)2月5日、形木相続。この頃は足利義満の援助を受けた。先代の縁で隠岐に賦算。高田神社に参詣し夢告を得た。帰京後、二条良基、九条経教を説いて至徳4年、百首和歌と千句連歌を高田神社に奉納した。『高田明神百首和歌』が現存する。化導16年。1396年(応永3年)9月15日死去。79歳。慶阿とも。
6 浄阿釈阿 1337-1415 1397-1415 堺引接寺より晋山。1397年(応永4年)7月6日、形木相続。化導22年。1415年(応永22年)6月死去。79歳。
7 浄阿文阿 ?-1439 1415-1436 厳阿の弟子。熱田円福寺より晋山。1415年(応永22年)6月5日相続。1436年(永享8年)5月25日、宝福寺に隠居。化導22年。1439年(永享11年)7月24日死去。
8 浄阿 1368-1447 1436-1445 堺引接寺より晋山。1436年(永享8年)5月25日相続。1445年(文安2年)菩提院に隠居。化導10年。1447年(文安4年)1月7日死去。80歳。
9 浄阿 1385-1465 1445-1456 熱田円福寺より晋山。1445年(文安2年)7月12日相続。1456年(康正2年)4月11日、念珠院に隠居。化導10年。1465年(寛正6年)11月21日死去。81歳。
10 浄阿 ?-1465 1456-? 尼崎正福寺より晋山。1456年(康正2年)5月11日相続。1465年(寛正6年)5月17日死去。享年不詳。
11 浄阿 ?-1494 1462-? 厳阿の孫弟子。姫路称名寺より晋山。1462年(寛正3年)5月22日相続。1494年(明応3年)12月15日死去。
12 浄阿 1423-1499 1479-1499 熱田円福寺より晋山。1479年(文明11年)4月13日相続。化導21年。1499年(明応8年)8月23日死去。77歳。
13 浄阿 1442-1507 1500-1507 1500年(明応9年)9月27日相続。化導14年。1507年(永正4年)2月23日死去。66歳。
14 浄阿 ?-1519 1507-? 伊勢楠歓喜寺より晋山。1507年(永正4年)6月形木相続。化導8年。1519年(永正16年)4月27日死去。
15 浄阿 1451-1532 1512-1532 堺引接寺より晋山。1512年(永正9年)1月形木相続。化導21年。1532年(天文1年)9月2日死去。82歳。
16 浄阿 ?-1536 1532-? 守山守善寺より晋山。1532年(天文1年)11月19日、形木相続。化導5年。1536年(天文5年)6月3日死去。
17 浄阿 ?-1544 1535-? 美濃表佐阿弥陀寺より晋山。1535年(天文4年)11月14日相続。化導10年。1544年(天文13年)10月22日死去。享年不詳。
18 浄阿 ?-1545 在職年不詳 1545年(天文14年)9月23日死去。
19 浄阿 ?-1553 1544-1553 浄信寺より晋山。1544年(天文13年)4月9日、形木相続。化導10年。1553年(天文22年)8月15日死去。享年不詳。
20 浄阿 1488-1554 1553-1554 近江仏眼寺より晋山。1553年(天文22年)2月、形木相続。化導2年。1554年(天文23年)7月1日死去。67歳。
21 浄阿 ?-1577 1558-1577 守山守善寺より晋山。1558年(永禄1年)3月、形木相続。1577年(天正5年)10月10日死去。享年不詳。
22 浄阿 1520-1589 1578-1581 熱田円福寺より晋山。1578年(天正6年)4月15日、形木相続。1581年(天正9年)隠居。化導4年。1589年(天正17年)1月29日死去。70歳。
23 浄阿 1531-1596 1581-1596 近江仏眼寺より晋山。1581年(天正9年)4月、形木相続。化導10年。1596年(慶長1年)4月30日死去。66歳。
24 浄阿 ?-1609 1602-1609 遊行12世(?)の弟子。二本松殿(畠山氏?)の子。近江仏眼寺より晋山。1602年(慶長7年)形木相続。1609年(慶長14年)5月24日死去。
25 浄阿半雪 1571-1654 1609-1628 大阪より晋山。1609年(慶長14年)6月で形木相続。1628年(寛永5年)10月南涼院に隠居。1654年(承応3年)6月5日死去。84歳。
26 浄阿碧道 1598-1631 1628-1631 元住職地不明。1628年(寛永5年)12月28日、形木相続。1631年(寛永8年)9月25日死去。34歳。
27 浄阿残遊 1584-1656 1637-? 浄信寺より晋山。1637年(寛永14年)4月形木相続。1656年(明暦2年)2月13日死去。73歳。
28 浄阿仙山 ?-1672 1639-? 美濃表佐阿弥陀寺より晋山。1639年(寛永16年)6月形木相続。化導34年。1672年(寛文12年)11月23日死去。
29 浄阿慈観 1624-1682 在職年不詳 遊行25世(?)の弟子。越前より晋山。真壁町常永寺、敦賀西方寺を経て1636年(寛永13年)4月法流相続。1673年(延宝1年)金蓮寺住職(?)。化導10年。1682年(天和2年)12月29日死去。59歳。
30 浄阿白信 ?-1699 1683-1690 元住職地不明。1683年(天和3年)4月形木相続。1690年(元禄3年)11月大阪光堂へ隠居。化導9年。1699年(元禄12年)1月15日死去。
31 浄阿円廓 ?-1705 1691-1705 28世浄阿仙山の弟子。美濃表佐阿弥陀寺より晋山。1691年(元禄4年)5月法流相続。1705年(宝永2年)5月12日死去。
32 浄阿唯称 ?-1711 1705-1711 堺引接寺より晋山。1705年(宝永2年)8月形木相続。1711年(正徳1年)5月10日死去。享年不詳。
33 浄阿恵観 生没年不詳 1712-延享 浄土宗鎮西派の僧侶。京都正栄寺(鎮西派)より晋山。1712年(正徳2年)3月形木相続。金蓮寺の浄土宗改宗を企図したとされ、触頭浅草日輪寺に訴えられ、延享年間、追放された。
34 浄阿真順 ?-1771 ?-1771 尼崎海岸寺より晋山。晋山年月不詳。1771年(明和8年)2月15日死去。
35 浄阿仁山 1718-1779 1772-1779 浄信寺より晋山。1772年(安永1年)3月形木相続。化導8年。1779年(安永8年)10月9日死去。62歳。
36 浄阿良山 ?-1796 1780-1793 小柿常勝寺より晋山。1780年(安永9年)子1月形木相続。1793年(寛政5年)、宝福寺に隠居。化導14年。1796年(寛政8年)5月25日死去。
37 浄阿真如 ?-1820 1793-1801 尼崎善通寺より晋山。1793年(寛政5年)3月形木相続。1801年(享和1年)3月、子院元正院へ隠居。化導9年。1820年(文政3年)7月28日死去。
38 浄阿灌澄 1744-1819 1801-1819 熱田円福寺より晋山。1801年(享和1年)5月23日、形木相続。化導19年。1819年(文政2年)知5月10日死去。76歳。
39 浄阿真月 ?-1821 1819-1821 尼崎善通寺より晋山。1819年(文政2年)5月24日、形木相続。化導3年。1821年(文政4年)4月27日死去。
40 浄阿廓山 ?-1821 1821-? 乙川光照寺より晋山。1821年(文政4年)8月15日、形木相続。1821年(文政4年)9月27日死去。
41 浄阿覚山 ?-1851 ?-1851 浄信寺より晋山。1851年(嘉永4年)4月6日死去。
42 浄阿雪乗 1804-1876 1855-1870 浄信寺より晋山。1855年(安政2年)5月11日、形木相続。1870年(明治3年)閏10月木本に隠居。化導16年。1876年(明治9年)9月28日死去。73歳。
43 浄阿真瑞 1809-1886 1871-1886 尼崎善通寺より晋山。1871年(明治4年)5月28日、形木相続。化導16年。1886年(明治19年)9月20日死去。78歳。
44 浄阿真成 ?-1893 1888-1893 浄信寺より晋山。1888年(明治21年)7月10日、形木相続。化導6年。1893年(明治26年)11月4日、浄信寺にて死去。
45 浄阿慇乗 1846-1899 1895-1899 染殿慇乗。木下慇乗。小柿常勝寺より晋山。1895年(明治28年)6月27日、形木相続。化導4年。1899年(明治32年)4月18日死去。54歳。
46 浄阿灌柔 1847-1908 在職年不詳 足利灌柔。熱田円福寺より晋山。1908年(明治41年)3月16日死去。62歳。
47 浄阿学解 1868-1919 在職年不詳 木本学解。尼崎善通寺より晋山。化導10年。1919年(大正8年)8月7日死去。52歳。
48 浄阿真隆 1852-1923 在職年不詳 木本真隆。浄信寺より晋山。1923年(大正12年)2月26日死去。72歳。
49 浄阿真碩 生没年不詳 在職年不詳 京都・宝福寺より晋山。四条京極より鷹峰に移転着手。宝福寺に隠退。
50 浄阿灌瑞 生没年不詳 在職年不詳 足利灌瑞。熱田円福寺より晋山。円福寺に隠退。
51 浄阿智道 生没年不詳 在職年不詳 柴田智道。大阪大和田光明寺より晋山。
52 浄阿蓮乗 ?-1955 1943-1955 木本蓮乗。富士泰徳寺より晋山。1943年(昭和18年)4月形木相続。化導13年。1955年(昭和30年)4月5日死去。79歳。
53 浄阿伝承 1955-1956 西川伝承。乙川光照寺より晋山。1955年(昭和30年)6月形木相続。1956年(昭和31年)8月光照寺に隠退。
54 浄阿学龍 山羽学龍。47世の弟子。京都染殿院より晋山。

資料

  • 1892「元禄頃、嘉永頃、四条道場画巻抜萃模様二葉」『大日本窯業協会雑誌』1-9[1]
  • 1892「四条道場一遍上人画巻、享保頃小袖紋様、英一蝶十二月画巻四図二葉」『大日本窯業協会雑誌』1-10[2]
  • 河野憲善1960「四条道場の創建と浄阿真観」『印度学仏教学研究』8-1[3]
  • 大橋俊雄1978『一遍と時宗教団』
  • 有賀祥隆1978「金蓮寺(四条道場)の絵画」『時宗教学年報』6号
  • 若杉準治1982「金蓮寺蔵浄阿上人絵伝について」『京都国立博物館学叢』4[4]
  • 阿部征寛1982「京都四条道場金蓮寺文書―中世編」『庶民信仰の源流:時宗と遊行聖』
  • 阿部征寛1982「四条道場(金蓮寺)と浄阿上人真観」『庶民信仰の源流:時宗と遊行聖』
  • 小山正文1994「『西国巡礼三拾三処普陀落伝記』:四条道場金蓮寺浄阿真順法談本」『時宗教学年報』22号
  • 藤原正義1996「金蓮寺蔵「頓阿書状」年次考」『時宗教学年報』24号
  • 大槻洋二1998「京都・新京極の成立母胎としての寺町:伝統都市の近代における歓楽街形成に関する史的研究その1」[5]
  • 古賀克彦2000「【新出史料紹介】時宗四条派本山金蓮寺歴代記(小倉山蓮台寺蔵)[付四条道場金蓮寺(浄阿)歴代]」『時衆文化』1
  • 古賀克彦2005「時衆四条道場金蓮寺歴代浄阿の上人号について」『寺社と民衆』1
  • 川端咲子2002「四条道場芝居考」『芸能史研究』159
  • 2012「四条道場金蓮寺末寺宝福寺領地指図(堅紙)一三〇」『長楽寺蔵七条道場金光寺文書の研究』
  • 本多康子2015「京都時衆教団における祖師伝絵巻制作:金蓮寺本を中心に」『鹿島美術財団年報』33
  • 小林善仁2017「明治初期の境内地処分と旧境内地の開発:新京極を事例に」『佛教大学総合研究所共同研究成果報告論文集』3
  • 津田徹英2018「詞書の筆跡からみた金蓮寺本『遊行上人縁起絵』の位相」『美術研究』423[6]
  • 井並林太郎2020「六字名号・一遍上人僧尼踊躍念仏図(金蓮寺蔵)について」『文化学年報』69
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E9%87%91%E8%93%AE%E5%AF%BA」より作成

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