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大覚寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2026年6月14日 (日)

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御影堂(心経前殿)。大正天皇即位式の饗宴殿を移築。
勅封心経殿

大覚寺(だいかくじ)は京都府京都市右京区嵯峨にある真言宗本山寺院。本尊は五大明王真言宗大覚寺派大本山。門跡寺院嵯峨天皇が創建し、歴代法皇や皇族(大覚寺宮)が住職を務めるなど特に皇室と関係が深い。中世の300年間は興福寺一乗院が兼務した。嵯峨天皇宸筆の般若心経に対する信仰が有名。後宇多法皇らの御所となり、大覚寺統の拠点となった。兼務していた蓮華光院門跡を合併。嵯峨御流華道の総司所が置かれている。山号は嵯峨山大覚寺門跡嵯峨御所。(参考:同名寺院大覚寺_(同名)


目次

歴史

大覚寺(国土地理院空中写真より)
大覚寺中心部(国土地理院空中写真より)
嵯峨嵐山周辺(国土地理院空中写真より)

平安時代:嵯峨院と弘法大師の祈祷

弘仁5年(814)閏7月27日、嵯峨天皇は北野で遊猟の後に立ち寄り、侍臣に衣を賜ったとあるのが大覚寺の前身である離宮嵯峨院の初見。のち弘仁9年春の大飢饉に際して天皇は一字三礼して般若心経を書写し、また空海に命じて嵯峨院持仏堂の五大明王像を祀る五覚院で祈祷させたという。ここに大覚寺の淵源がある。

天皇崩御後の清和天皇時代、嵯峨天皇長女で淳和天皇皇后であった正子内親王が自らが過ごした嵯峨院の興廃を嘆いて、嵯峨天皇と淳和天皇の菩提を弔うため寺院とした。開山としたのは承和の変で廃太子となった淳和天皇皇子の恒寂法親王(恒貞親王)であった。勅によって大覚寺との名前が定められた。貞観18年(876)、2月25日のことであった。元慶5年(881)8月23日には寺地決定され、「葛野郡二条大山田地三十六町」と定められた。東は朝原山、西は観空地・棲霞観東路、北は山嶺とされた。その後、宇多天皇が行幸するなどのことはあったが、しばらくは目立った記録は残されていない。 3代の定昭は、奈良興福寺一乗院を創建する。以後、後嵯峨法皇の入寺まで大覚寺は興福寺一乗院が管理することとなった。


鎌倉時代:歴代法皇の入寺

大覚寺の存在が注目されるようになるのは南北朝時代の到来と軌を一にしている。後嵯峨法皇、亀山法皇、後宇多法皇が歴代住職となっている。

鎌倉時代の仁治3年(1242)に即位した後嵯峨天皇は、幕府執権北条氏よりの立場を取り、安定した親政を行った。在位4年で皇子の後深草天皇に譲位し、さらに亀山天皇を即位させた。後嵯峨院の諡号を自ら定めるなど、嵯峨帝を景仰していた上皇は、文永5年(1268)、ゆかりの大覚寺で出家し法皇となり素覚と称し、自らが住職となった。この年、後嵯峨法皇は長子後深草上皇の子ではなく亀山天皇の皇子を皇太子と定めたことが皇統の分裂につながっていく。崩御まで30年近く院政を行った。 大覚寺統の始祖となる亀山天皇は禅宗に帰依し、南禅寺を創建したことで知られるが、僧名を金剛源(金剛眼)と称したように真言宗を信仰し、嘉元3年(1305)崩御間近に、密教の灌頂も受けている。 ただ後嵯峨法皇や亀山法皇が主な御所としたのは亀山殿(現在の天龍寺の地)であり、「大覚寺統」の名前の由来となったのはその皇子の後宇多法皇が大覚寺を主な御所とし、「大覚寺殿」と呼ばれたためであった。 後宇多天皇は文永11年(1274)8歳で即位し、弘安10年(1287)20歳で退位した。院政を敷いたのは14年後の正安3年(1301)の皇子の後二条天皇即位後であった。空海の伝記を自ら執筆するなど密教の信仰が篤い上皇は、俗人であったのにも関わらず、徳治2年(1307)4月、醍醐寺報恩院憲淳から伝法灌頂を受けた。同年7月、皇后遊義門院の崩御を機に東寺で出家し、さらに翌年、東寺仁和寺真光院禅助から灌頂を受け、金剛性と名乗り、大覚寺に移住した。大覚寺から院政を行なったが、翌3年、天皇崩御のため、院政停止となった。 以後、大覚寺に籠もり、『増鏡』で「「近ごろは、大覺寺のほとりに御堂建てて、籠りおはしましつつ、いよいよ密教の深き心ばへをのみ、勤めて学ばせ給へば、をのづからも京に出でさせ給事なく、また参り通う人もまれなるやうにて」とあるように密教の信仰に専念した。やがて大覚寺復興を決意し、元亨元年(1321)4月、伽藍造営事業に着手した。伽藍再興に心を砕いたことは同年筆の『御手印御遺告』の冒頭に大覚寺のことを記したことにも表れている。 当時の史料は残されていないが、江戸時代に製作された「大覚寺伽藍古図」によると、大沢池の北側に中心伽藍と御所を造営。その周辺に仏母心院、不壊化身院、教王常住院、五覚院、蓮華峰寺、西来院、済治院、遍照寺、観空寺などの子院を建てたという。池の西側を中心とする現在の伽藍とは大きく異なっている。中心地区は西側に金堂、講堂、御影堂、心経堂を置き、東側に御所を配置した。『続史愚抄』には伏見殿の上御所を移して寝殿としたとか、古い紫宸殿を移したとか書かれている。子院のうち蓮華峰寺は法皇の寿陵で、崩御後、ここに葬られた(後宇多天皇陵)。

しかし、これらの伽藍は20年も絶たずに建武3年(延元元年、1336)8月28日、火災で焼失した(『新千載和歌集』詞書)。長らく復興されたなかったことは約50年後の永徳2年(弘和2年、1382)に当時の寛尊住職が詠んだ和歌に「年をへて荒れこそまされ嵯峨の山」とあることにも表れている(『風雅和歌集』)。


室町時代:宸筆心経信仰

後宇多天皇ののち、皇子の性円法親王が継承したが、南北朝の対立が激化し、後醍醐天皇が吉野に遷幸すると性円は南朝方につき、吉野に赴いたという。そこで北朝は寛尊法親王を大覚寺門跡に任じた。法親王は大覚寺統の祖である亀山天皇皇子であったが、北朝に通じていた。南北朝時代の大覚寺の動向については諸説ある。

この頃には嵯峨天皇宸筆の般若心経に対する信仰が高まり、「頂戴」が行われていたという。その早い例として川島氏は康安元年(正平16年、1361)に後光厳天皇が借りだした例を上げている。頂戴とは拝見したり、般若心経の破片を飲んだりしたことである。そのようにして疾病平癒などの祈願を行ったという。

南朝最後の後亀山天皇は明徳3年(元中9年、1392)、三種の神器を後小松天皇に譲った。寺伝では神器の譲渡が行われたのが正寝殿とするが少なくとも現在の建物は当時のものではない。

くじびきにより青蓮院門跡だった足利義教が第6代将軍に就任すると、幕府権力を立て直すために弾圧を強化。同じくくじ引きでの候補だった弟の大覚寺門跡義昭を、義教は警戒。義昭も不満を募らせる。永享9年(1437)7月、義昭は寺を脱出した。吉野で挙兵したとの噂が流れ、討伐軍を送った。実際は、四国、九州に潜伏するが、やがて島津氏に打たれた。 永徳寺(宮崎県串間市)などに墓がある。

盗賊によって殺害された性守の次の門跡、義俊は、連歌師としても知られる。紹巴とも親しく交わった。天文3年(1534)、空席となった蓮華光院門跡を兼帯するようになる。両寺の関係は古く、北朝の命によって入寺した寛尊も元は蓮華光院門跡であった。 義俊は近衛家出身で、以後、貴族の入寺は幕末まで全て近衛家出身者だった。

江戸時代

戦国時代、応仁元年(1467)、応仁2年(1468)、天文5年(1536)と度々焼失している。天正17年(1589)、空性法親王が門跡となると、伽藍復興へと動き出した。寛永年間には整備がいったん完了し、現在の伽藍の基礎ができた。天明年間には五大堂が造営された。慶長16年(1611)、徳川家康は1016石を安堵している。元和元年(1615)、尊性法親王が性演を招いて蓮華光院門跡を復興。

江戸時代末期、慈性法親王輪王寺宮となり江戸寛永寺に移った。真言宗の門跡から天台宗の門跡に移るのは異例の人事であった。幕府が尊王派であった親王を警戒して江戸に移したとも言われる。

近代

古義真言宗、西部真言宗、真言宗大覚寺派(第1次)、古義真言宗、真言宗を経て戦後、真言宗大覚寺派の大本山となった。

明治維新で廃絶となった蓮華光院を合併。

大正時代、大正天皇即位式の饗応殿が下賜されたのに伴い、伽藍の整備が行われ、現在の姿となった。念願の心経殿が再建された。

伽藍

境内
名称 本尊など 概要
勅封心経殿
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薬師如来 現在の大覚寺の事実上の中心となる堂。現在のものは1925年(大正14年)の再建。法隆寺夢殿を模して設計された。高床式コンクリート造り。嵯峨天皇後光厳天皇後花園天皇後奈良天皇正親町天皇光格天皇が書写した勅封般若心経を奉安する。60年に一度、開封される。現存しないが後深草天皇伏見天皇のものもあったともいう。
御影堂
大覚寺・C御影堂1.jpg
嵯峨天皇弘法大師後宇多天皇、恒寂親王 勅封心経殿の拝殿となっている。1925年(大正14年)の造営。大正天皇即位式の饗宴殿を移築。
五大堂
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五大明王 本堂。江戸時代の天明年間の再建とされる。元は現在の御影堂正面の石舞台の場所にあったが、大正時代の整備で現在地に移された。元は弘法大師が唐より伝来したという五大明王を祭ったとされる。
御霊殿
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後水尾天皇 蓮華光院御影堂を1871年(明治4年)に移築。安井堂ともいう。
霊明殿
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阿弥陀如来 右側に草繋全宜門跡を祀る。功労者を祀る。

大覚寺・E鎮守.jpg
鐘楼
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勅使門
大覚寺・B勅使門・表1.jpg
勅使門
宸殿
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門跡寺院の御所としての中心殿舎。東福門院後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものという。
舞楽台
大覚寺・C舞楽台・勅使門・裏側.jpg
正寝殿
大覚寺・E正寝殿1.jpg
剣璽の間、御冠の間がある。
明智陣屋
大覚寺・A明智陣屋2.jpg
大玄関
大覚寺・A大玄関.jpg
庭湖館
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秩父宮御殿
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華蔵閣
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華道芸術学院
大覚寺・A華道芸術学院.jpg
信徒会館
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嵯峨寮
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霊宝館
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大沢池
大覚寺・大沢池-02.jpg
御所跡
大覚寺・大沢池周辺・御所跡-02.jpg
後宇多上皇の御所。中御所。
心経宝塔
大覚寺・F心経宝塔1.jpg
秘鍵大師 1967年(昭和42年)建立。
五社明神
大覚寺・五社明神社・本体-01.jpg
外宮内宮八幡宮春日社住吉社 空海が離宮の鎮守として創建したという。
放生池
大覚寺・大沢池-06.jpg
天神島
大覚寺・大沢池周辺・天神社-03.jpg
天満宮
菊ケ島
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華供養塔
大覚寺・A華供養塔1.jpg
護摩堂
大覚寺・大沢池周辺・護摩堂-02.jpg
不動明王
閼伽堂
大覚寺・F閼伽堂.jpg
大日堂
大覚寺・大沢池周辺・堂塔-01.jpg
大日如来
聖天堂
大覚寺・F聖天堂.jpg
歓喜天
石仏群
大覚寺・大沢池周辺・石仏.jpg
松尾社
大覚寺・F鎮守・松尾社.jpg
松尾大明神
愛宕清瀧社
大覚寺・五社明神社・末社-01.jpg
愛宕大明神清瀧大権現
気比多賀社
大覚寺・五社明神社・末社-04.jpg
気比大明神多賀大明神
稲荷社
大覚寺・五社明神社・末社-03.jpg
稲荷大明神
大覚寺宮墓地
大覚寺宮墓地A・全体-05.jpg

画像

院家・子院

  • 覚勝院:現存
  • 不壊化身院:門跡の隠居所だった。
  • 金剛乗院:
  • 宝護院:
  • 聖無動院:
  • 方広院:高尾山薬王院
  • 金剛王院:成田山新勝寺
  • 常住金剛院:
  • 大虚空蔵院:
  • 菩提心院:
  • 戒蔵院:
  • 速成就院:
  • 大勝院:
  • 宝幢院:
  • 大智院:
  • 無垢染院:
  • 総持王院:
  • 大金剛院:
  • 仏母心院
  • 教王常住院
  • 五覚院
  • 西来院
  • 済治院
  • 遍照寺?
  • 祇王寺
  • 観空寺:京都府京都市右京区嵯峨観空寺久保殿町。嵯峨天皇創建。定額寺。江戸時代再興。現在は境外仏堂か。
  • 蓮華清浄寺:今林陵の地にあった。

多くは後世の院室兼帯寺院の号としてみられるものだが、本当に実際にこのような院家があったのかどうかは不明。

関連旧跡

組織

組織

住職

  • 川島将生「大覚寺歴史」『大覚寺の名宝』ほか
  • 現在は住職を門跡と称する。
大覚寺門跡の歴代門跡一覧
世数 生没年 在職年 略歴
1 恒寂法親王 825-884 876- 淳和天皇第二皇子。833年(天長10年)、仁明天皇皇太子となるが、842年(承和9年)、承和の変で廃太子。淳和院に移る。849年(嘉祥2年)三品。出家。876年(貞観18年)大覚寺を開く。大学寮の釈奠を復興。俗名は恒貞親王。884年(元慶8年)9月20日死去。60歳。入道塚陵墓参考地が墓の伝承地。
2 寛空 884-972 宇多法皇の弟子。東寺長者、仁和寺別当。京都・蓮台寺香隆寺)を創建。884年(元慶8年)生。972年(天禄3年)死去。
3 定昭 906-983 興福寺一乗院開山。以後、20代良信まで一乗院が兼帯する。
4 定好 一乗院門跡2世。
5 真範 986/987-1054 一乗院門跡3世。
6 頼信 1010-1076 一乗院門跡4世。
7 頼尊 ?-1100 一乗院門跡5世。
8 覚信 1065-1121 一乗院門跡6世。
9 玄覚 ?-1138 一乗院門跡7世。
10 覚英 ?-1157 一乗院門跡8世。
11 覚継 1124-1171 一乗院門跡9世。恵信。
12 信円 1153-1224 一乗院門跡10世。
13 良円 1178-1220 一乗院門跡11世。
14 実信 一乗院門跡12世。
15 実静 一乗院門跡13世。実浄。
16 信昭 1253-1286 一乗院門跡14世。
17 隆信 一乗院門跡15世。
18 覚恵 一乗院門跡16世。
19 覚昭 ?-1308 一乗院門跡17世。
20 良信 1278-1329 一乗院門跡18世。
21 後嵯峨法皇 1220-1272 1220年(承久2年)生。1272年(文永9年)崩御。嵯峨南陵
22 亀山法皇 1249-1305 1249年(建長1年)生。1305年(嘉元3年)崩御。亀山陵
23 後宇多法皇 1267-1324 中興。1267年(文永4年)生。1324年(正中1年)崩御。蓮華峰寺に葬られた(蓮華峰寺陵)。
24 性円法親王 1292-1347 後宇多天皇皇子。1292年(正応5年)生。1307年(徳治2年)出家。南朝方に着き、吉野の後醍醐天皇に従ったという。1347年(正平2年/貞和3年)3月7日死去。56歳。南池院宮と号す。
25 寛尊法親王 ?-1382 亀山天皇皇子。吉野に走った性円法親王に代わって北朝が任命。仁和寺西院、蓮華光院に住す。大僧正。親王。1377年(天授3年/永和3年)四天王寺別当。1382年(弘和2年/永徳2年)11月26日死去。寛融法親王。大覚寺宮墓地に治定墓。
26 性勝法親王 ?-1354 後宇多天皇皇子。俗名は良治親王。1354年(正平9年/文和3年)3月17日死去。大覚寺宮墓地に治定墓。
27 恒性王 1305-1333 ?-1332 後醍醐天皇皇子。1305年(嘉元3年)生。1332年(元弘2年/正慶1年)父帝が隠岐に流されるとともに越中配流となり幽閉。1333年(元弘3年/正慶2年)天皇の隠岐脱出で警戒されて幕命で名越時有に殺害された。富山県高岡市に治定墓恒性王墓大覚寺宮越中宮
28 深守法親王 1323-1391 1383- 邦良親王第五王子。光明天皇猶子。1323年(元亨3年)生。1341年(興国2年/暦応4年)出家。大金剛院に入る。権僧正。親王。二品。1383年(弘和3年/永徳3年)、大覚寺門跡。1391年(元中8年/明徳2年)4月15日死去。69歳。大覚寺宮墓地に治定墓。
29 弘覚法親王 生没年不詳 邦良親王王子。大金剛院。弘覚王とも。大覚寺宮墓地に治定墓。
30 寛教法親王 後光厳天皇皇子。大覚寺宮墓地に治定墓。
31 義昭 1405?-1441 足利義満の子。大僧正。准三宮。1437年(永享9年)、異母兄の将軍将軍足利義教に対抗して吉野で反乱を起こした。1441年(嘉吉1年)九州に逃れ、島津忠国に討たれる。永徳寺(宮崎県)などに墓。足利義昭。尊宥。大覚寺八幡宮、福島大明神として祀られた。菩提寺は大興寺
32 性深 生没年不詳 1442- 東寺長者法務鷹司家出身。鷹司房平の子。1442年(嘉吉2年)、大覚寺門跡となる。准三宮。大僧正。大金剛院と号す。
33 性守 1475-1530 二条家出身。二条政嗣の子。1475年(文明7年)生。1494年(明応3年)、大覚寺門跡。准三后。大僧正。1530年(享禄3年)11月26日盗賊に襲われ、死亡。56歳。
34 義俊 1504-1567 連歌師として知られる。近衛家出身。近衛尚通の子。1504年(永正1年)生。大僧正。准后。1567年(永禄10年)1月12日死去。64歳。禅意。称念寺と号す。以後、近衛家が続く。このころから尊性まで蓮華光院門跡を兼帯する。
35 尊信 ?-1588 近衛稙家の子。1588年(天正16年)死去。義性。大僧正。准三宮。
36 空性法親王 1573-1650 四天王寺別当78世。追尊陽光太上天皇誠仁親王(後陽成天皇の父)の第二王子。正親町天皇養子。1573年(天正1年)生。俗名は定輔親王。義性とも。1573年(天正1年)10月20日、仁和寺門跡任助親王の付弟となる。1587年(天正15年)11月19日、親王宣下。1588年(天正16年)8月23日、大覚寺で出家。性舜と称す。1590年(天正18年)親王。1598年(慶長3年)10月12日から1615年(元和1年)まで四天王寺別当(真言系最後の四天王寺別当)。のち還俗。1650年(慶安3年)8月25日死去。78歳。大覚寺宮墓地に治定墓。瑞庵(随庵)、後天王寺宮と号す。
37 尊性法親王 1602-1651 東寺長者。後陽成天皇第五皇子。1602年(慶長7年)生。1651年(慶安4年)死去。二品。大覚寺宮墓地に治定墓。仏母心寺宮と号す。
38 性真法親王 1639-1696 後水尾天皇第四皇子。1639年(寛永16年)生。俗名は真敦親王。1649年(慶安2年)親王。同年、大覚寺で出家。1663年(寛文3年)性演から伝法灌頂。一身阿闍梨。1696年(元禄9年)1月4日死去。58歳。大覚寺宮墓地に治定墓。
39 性応法親王 1690-1712 霊元天皇皇子。俗名は寛敦親王。1690年(元禄3年)生。1712年(正徳2年)8月15日死去。23歳。大覚寺宮墓地に治定墓。
40 寛守 1712-1729 近衛基熙の子。近衛家煕の養子。1712年(正徳2年)生。1722年(享保7年)、大覚寺に入る。1729年(享保14年)1月14日死去。18歳。後善住院と号す。
41 寛深 1723-1787 近衛家熙の子。1723年(享保8年)生。1787年(天明7年)9月24日死去。65歳。信性。大楽心院と号す。
42 深真 ?-1800 近衛家出身。1800年(寛政12年)11月9日死去。20歳?清浄観院と号す。深貞。
43 亮深 ?-1854 東寺長者。法務。近衛経熙の子。1854年(安政1年)12月29日死去。瑜伽定院と号す。
44 慈性法親王 1813-1867 1837-1846 天台座主有栖川宮韶仁親王王子。1813年(文化10年)生。東大寺別当。1846年(弘化3年)、輪王寺宮が本務となり、寛永寺に移る。天台座主。1867年(慶応3年)12月7日死去。輪王寺宮寛永寺墓地に治定墓。輪王寺宮日光墓地に治定髪爪塔。
45 中御門神海 1806-1883 1873-1883 真言宗西部管長2代。亮深の弟子。神護寺住職となる。1871年(明治4年)7月7日、1846年(弘化3年)以来無住だった大覚寺の留守居を兼務[1][2]。1873年(明治6年)3月6日、大覚寺門跡[3]。1875年(明治8年)7月25日、教導職権少教正[4]。1879年(明治12年)2月22日、権少教正から少教正[5]。4月1日、仁和寺冷泉照道にかわり真言宗西部管長に就任[6](30日に「真言宗西部」を廃止して「真言宗」に統合)。1880年(明治13年)11月22日、少教正から権中教正[7]。1883年(明治16年)2月13日死去、78歳[8](1882年(明治15年)2月死去[9]とも)。瑜伽心院と号す。「明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」」[10]
46 楠玉諦 1818-1899 1887-1897 東寺長者。備中国後月郡県主村出身。俗姓は岡田。1818年(文政1年)生.松蓮寺で学ぶ。高野山智積院で修行。1834年(天保5年)故郷の妙覚寺(四王寺)住職、1845年(弘化2年)多聞寺住職となる。1859年(安政6年)、高野山南室院住職。1864年(元治1年)、高野山報恩院住職。1869年(明治2年)、高野山大聖院住職。11月、一山集議。1872年(明治5年)教導職試補。1873年(明治6年)、権大講義。1875年(明治8年)3月、高野山仁王院住職。10月権少教正。1876年(明治9年)5月、大教院巡回教師。12月、高野山五智院住職。1878年(明治11年)11月、大学林正教師。1879年(明治12年)9月、少教正。1880年(明治13年)1月、高野山宝性院門主[11]。笠置遍照寺を兼務。3月定額位。11月、権中教正。1885年(明治18年)1月、真宗大教校に請われて華厳を講ずる。1887年(明治20年)1月24日大覚寺門跡[12]。1892年(明治25年)7月1日、内務省から真言宗長者就任を認可(官報[13])。1893年(明治26年)と1894年(明治27年)に御修法大阿闍梨[14]。1894年(明治27年)6月末に長者退任(官報[15])。1895年(明治28年)、京都府知事北垣国道の寄進で祇王寺を再興[16]。1897年(明治30年)12月、大覚寺を引退[17]。1899年(明治32年)9月17日死去。82歳。郷里に供養塔がある。華厳学に通じる。
47 高幢龍暢 1827-1912 1898-1912 東寺長者。大覚寺派初代管長。讃岐出身。旧姓は奈良。1827年(文政10年)生。地元地蔵寺住職。1872年(明治5年)、屋島寺住職[18]。1880年(明治13年)、八栗寺住職。1886年(明治19年)11月、神護寺住職[19]。一宗公選で選出され、1898年(明治31年)5月20日大覚寺門跡に晋山[20]。1900年(明治33年)8月10日、単称真言宗から真言宗大覚寺派が独立し、初代大覚寺派管長に就任(官報[21])。1904年(明治37年)8月1日、真言宗各派連合長者[22]。1905年(明治38年)から1907年(明治40年)まで御修法大阿闍梨[23]。1907年(明治40年)8月12日、長者退任[24]。1912年(大正1年)9月2日、在職で死去。86歳。
48 龍池密雄 1843-1934 1912-1928 金剛峰寺座主389世。大覚寺派2代管長。古義真言宗2代管長。備後国道上村出身。旧姓は和田。1843年(天保14年)生。1853年(嘉永6年)、寒水寺に入門。福山藩の学者に漢籍を学び、17歳で高野山に登る。1865年(元治2年)帰郷して法楽寺住職。1873年(明治6年)、高野山顕正院住職。1879年(明治12年)頃、福山龍華院を開く。1886年(明治19年)1月27日、備後国の宿坊である高野山総持院の住職[25]。4月26日、以前から寺務をみていた福山明王院を兼務[26]。1897年(明治30年)、高野山興隆会(小松宮彰仁親王総裁)を設立し、高野山興隆をはかる。1903年(明治36年)金剛峰寺寺務検校執行法印403世[27]。1906年(明治39年)、厳島で伊藤博文と会見し、工費寄贈を受けて弥山登山道を改修した。1911年(明治44年)、高野山宝性院門主(月日不明)[28]。1912年(大正1年)11月10日、管長選挙で当選[29]。27日内務省、管長就任を認可(官報[30])。1913年(大正2年)3月11日福山明王院を兼務[31]。1915年(大正4年)12月28日、大正天皇即位にあたり玉体安穏宝祚無窮を祈願して般若心経1万巻を書写し1巻を献納[32][33](昭和天皇即位の時も)。1920年(大正9年)1月、御修法大阿闍梨[34]。1923年(大正12年)8月17日、文部省、真言宗高野派管長鎌田観応死去のため、真言宗各派連合総裁事務取扱と真言宗高野派事務取扱となることを認可[35]。1925年(大正14年)4月23日、勅封心経殿を建立し、後宇多法皇600年御忌を執行。7月、伊勢神宮参拝し富士山登頂。同年12月14日、高野派・御室派・大覚寺派が合同して「古義真言宗」となり、大覚寺派管長職消滅。管長泉智等死去で宗派合併時の取り決めにより管長後任とされ、1928年(昭和3年)9月29日、文部省から古義真言宗管長就任を認可[36]。同時に金剛峰寺座主となる。この時、86歳。焼失した壇上伽藍の復興に取り組み大塔を再建。1934年(昭和9年)3月4日、明王院で死去。般若心経写経2万枚以上。詩文に長じた。
49 小川光義 1853-1929 1929-1929 自坊は徳島荘厳院。1853年(嘉永6年)生[37]。俗姓は石田。高野山修行。1873年(明治6年)、自性寺住職。瑞川院を兼務。1878年(明治11年)徳島法務支所、のち東寺の真言宗法務所に勤務し、会計を担当し、財政を司る。1899年(明治32年)安祥寺住職。1905年(明治38年)荘厳院住職。大覚寺事務長。1911年(明治44年)、真言宗各派連合議長。1907年(明治40年)12月定額位。1929年(昭和4年)1月5日、龍池密雄の金剛峰寺座主就任で後任を選ぶ選挙が行われ当選[38]。1月22日古義真言宗管長から大覚寺門跡に任命[39]。1929年(昭和4年)12月14日、在職で死去。
50 藤村密幢 1870-1949 1930-1941 金剛峰寺座主392世。合同真言宗初代管長。古義真言宗管長。金剛峰寺寺務検校執行法印430世。和歌山県田中村出身。1870年(明治3年)生。俗姓は上田。13歳で高野山成福院の藤村密応に師事。高野山中学林、高野山大学林で学ぶ。1889年(明治22年)、東京錦城学校、郁文館に学ぶ。1895年(明治28年)、高野山成福院住職。1899年(明治32年)、高野派宗務所職員。1911年(明治44年)、朝鮮開教監督となり、朝鮮や満洲を視察[40]。1923年(大正12年)8月、連合法務所臨時総務[41]。12月、総務。1926年(大正15年)、古義真言宗成立し御遠忌局総監。1927年(昭和2年)1月14日、古義真言宗総務・金剛峰寺執行長に就任。12月1日総辞職[42]。1928年(昭和3年)10月、宗会議長。1929年(昭和4年)4月、高野山東京別院主監。1930年(昭和5年)2月22日、金剛峰寺寺務検校執行法印。1930年(昭和5年)3月22日、前任者の死去により選挙が行われ大覚寺門跡に当選。23日就任[43]。1934年(昭和9年)御修法大阿闍梨[44]。1935年(昭和10年)10月、恒寂親王遠忌・弘法大師遠忌を執行。1937年(昭和12年)大覚寺門跡再選[45]。1941年(昭和16年)2月10日、古義真言宗管長・金剛峰寺座主に当選[46]。17日、文部省より古義真言宗管長就任を認可[47]。同日、大覚寺門跡退山式[48]。1941年(昭和16年)3月31日、諸派が合併して合同真言宗となるとその初代管長となる[49]。1949年(昭和24年)4月14日死去。80歳。
51 釈法伝 1870-1945 1941-1945 岡山県出身。1870年(明治3年)生。俗姓は高橋。初名は奥野法伝。1892年(明治25年)広島遍照寺住職。1895年(明治28年)、高野山大学林卒。1912年(明治45年)笠岡遍照寺住職。1931年(昭和6年)8月10日、古義真言宗総務・金剛峰寺執行長[50]。1941年(昭和16年)3月18日大覚寺門跡に無投票当選[51]。4月13日入山式。1942年(昭和17年)御修法大阿闍梨[52]。1945年(昭和20年)1月22日死去[53]
52 谷内清巌 1867-1953 1945-1947 兵庫県淡路島出身。1867年(慶応3年)生。1918年(大正7年)10月21日大覚寺事務長[54]。1920年(大正9年)8月11日大覚寺事務長選挙で当選[55]。1928年(昭和3年)、大覚寺門跡事務取扱[56]。1929年(昭和4年)神護寺住職。1945年(昭和20年)3月1日、大覚寺門跡[57]。1946年(昭和21年)御修法大阿闍梨[58]。1947年(昭和22年)12月辞任[59]。1953年(昭和28年)9月6日死去[60]
53 草繋全宜 1884-1969 1947-1969 真言宗大覚寺派(戦後)管長初代。広島県加茂村出身。1884年(明治17年)生(1883年(明治16年)とも)。1904年(明治37年)、目白僧園卒。1901年(明治34年)、岡山県大福寺住職。1919年(大正8年)、鎌倉青蓮寺住職[61]。1931年(昭和6年)11月、high山東京別院主監・東京宗務出張所所長[62]。1937年(昭和12年)2月1日、古義真言宗総務6代・金剛峰寺執行長[63]。宗会議長。1940年(昭和15年)頃、興亜局開教総監。北支開教監督。1940年(昭和15年)頃、相模大山寺住職を兼務[64]。1947年(昭和22年)、大覚寺門跡[65]。1950年(昭和25年)8月11日、真言宗大覚寺派独立し管長となる。1969年(昭和44年)10月12日、在職で死去[66]。87歳。大乗心院と号す。
54 乃村龍澄 1883-1977 1969-1977 自坊は香西寺。香川県高松市出身。1883年(明治16年)生[67]。1909年(明治42年)香西寺住職。1911年(明治44年)、東洋大学卒。1947年(昭和22年)大覚寺耆宿。翌年高野山耆宿、大僧正。1967年(昭和42年)、大真言宗連盟理事長。1969年(昭和44年)11月11日、臨時宗会で他の候補者の辞退により推戴決議[68]。28日、大覚寺門跡に就任。1975年(昭和50年)4月、味岡事務長を懲戒解雇し、以降、大覚寺紛争が起こる[69][70]。1977年(昭和52年)6月9日退任。1977年(昭和52年)12月30日死去。
55 横山定雄 1901-1982 1977-1982 1901年(明治34年)生[71]。福山明王院で得度。龍池密雄の弟子。1926年(大正15年)、福山円照寺住職。1977年(昭和52年)6月9日、「青空宗会」で大覚寺門跡に選出[72][73][74]。味岡内局はこれを無効として職務停止の仮処分を京都地裁に申請[75](のち却下[76])。1981年(昭和56年)2月15日味岡側と和解書調印[77][78]。1982年(昭和57年)1月23日、在職で死去[79]。81歳。恵光院と号す。
56 味岡良戒 1903-1988 1982-1988 自坊は人吉高野寺。熊本県出身。1903年(明治36年)生。1926年(昭和1年)、高野寺を創建。嵯峨美術短期大学を創設し、大覚寺学園初代理事長。大覚寺事務長となるが、管長の乃村龍澄、横山定雄と対立を続ける。1981年(昭和56年)2月15日、和解書調印[80][81]。1982年(昭和57年)9月2日大覚寺門跡に就任。1988年(昭和63年)3月29日、在職で死去[82][83]。85歳。
57 黒田昇龍 1901-1989 1988-1989 香川県出身。1901年(明治34年)生[84]。真言宗京都大学選科卒。1928年(昭和3年)、宝妙寺住職。1988年(昭和63年)5月17日、臨時宗会で大覚寺門跡に選出[85]。1989年(平成1年)10月14日死去[86]。88歳。
58 井上紀生 1920-2003 1989-1993 自坊は神戸立江寺。兵庫県光明寺の出身。1920年(大正9年)生。1932年(昭和7年)京都専門学校(現種智院大学)卒。1945年(昭和20年)関西大学卒。1953年(昭和28年)、立江寺住職。1989年(平成1年)12月1日、臨時宗会で大覚寺門跡に選出[87]。1993年(平成5年)任期満了。1997年(平成9年)大覚寺門跡退任。2003年(平成15年)3月23日死去。83歳。
59 上井寛円 1905-2005 1993-1997 自坊は丹波・高山寺。1905年(明治38年)生。1932年(昭和7年)、京都専門学校卒。1941年(昭和16年)合同真言宗教学課長。1945年(昭和20年)、大覚寺執事。宗会議長。1971年(昭和46年)大僧正特任。1993年(平成5年)11月19日、臨時宗会で大覚寺門跡に選出[88]。1997年(平成9年)任期満了。2005年(平成17年)4月20日死去。99歳。
60 片山宥雄 1919-2015 1997-2005 自坊は福山明王院。広島県広島市出身。1919年(大正8年)3月20日生。1930年(昭和5年)、明王院で龍池密雄を師僧として得度。1944年(昭和19年)、京都専門学校(現種智院大学)卒。同年、東寺で日下義禅から伝法灌頂。1946年(昭和21年)寒水寺住職。1957年(昭和32年)明王院住職。宗会議員、宗会議長を歴任。1982年(昭和57年)から5年間、宗務総長・寺務長。大僧正。大覚寺内紛の解決に尽力。1997年(平成9年)10月27日、臨時宗会で大覚寺門跡に選出就任[89]。1999年(平成11年)、京都真言宗学園理事長。2004年(平成16年)、後七日御修法大阿闍梨を務め、同年真言宗長者。2005年(平成17年)11月退任。2015年(平成27年)5月14日死去。種智院大学同窓会会報[90]、福山誠之館同窓会ウェブサイト[91]
61 新開真堂 1925-2013 2005-2008 徳島県出身。1925年(大正14年)生。高野山専修学院卒。真観寺住職。大覚寺法流委員。宗会議員。耆宿。大僧正、定額位。2005年(平成17年)12月1日、大覚寺門跡に就任。著書に『詳解般若心経秘鍵』『新開真堂大僧正選集』など多数。
62 下泉恵尚 1927- 2008-2012 徳島県出身。1927年(昭和2年)生。自坊は徳島県美馬市の最明寺高野山大学卒。高野山宝寿院道場で森田龍僊から伝法灌頂?1967年(昭和42年)、最明寺住職。1996年(平成8年)名誉住職。宗会議員、宗会議長を歴任。耆宿。2000年(平成12年)、大僧正。2008年(平成20年)7月11日、大覚寺門跡。この時点では61世と数えていたようだ。
63 黒沢全紹 1936-2024 2012-2019 自坊は鎌倉補陀洛寺。1936年(昭和11年)生[92]。横浜清風高等学校校長。2012年(平成24年)大覚寺門跡。2018年(平成30年)御修法大阿闍梨、真言宗長者。2019年(令和1年)退任。2024年7月2日死去[93]
64 尾池泰道 1939- 2019-2023 自坊は香川県観音寺市の延命寺。2019年(令和1年)5月9日、大覚寺門跡。2023年(令和5年)5月、任期満了。
65 山川龍舟 1949- 2023-2027予定 自坊は広島県福山市地蔵院。福禅寺を兼務。1949年(昭和24年)生。高野山大学卒。2007年(平成19年)、財務部長。大覚寺耆宿。2023年(令和5年)5月9日、大覚寺門跡。

資料

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA」より作成

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