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大阪・豊国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年12月14日 (土)
豊国神社(ほうこく・じんじゃ)は大阪府大阪市中央区大阪城にある豊臣秀吉を祀る霊社。領主奉斎神社。祭神は豊臣秀吉・豊臣秀頼・豊臣秀長(神社ウェブサイト)。当初は京都豊国神社の別社で大阪市街地中心部の中之島(大阪市北区)にあった。府社。豊臣氏の祭祀も参照。大阪豊国神社。大阪城豊国神社。
目次 |
奉斎
- 豊臣秀吉(1536-1598):豊国大明神。墓所は阿弥陀ケ峰にある。
- 豊臣秀頼(1593-1615):秀吉の次男。1615年(元和1年)5月8日、大坂夏の陣で自刃。23歳。
- 豊臣秀長(1541-1591):秀吉の異父弟。母は秀吉と同じ大政所。父は大政所が再婚した竹阿弥(筑阿弥)。常に秀吉の片腕として補佐した。1585年(天正13年)、大和郡山城主。1586年(天正14年)1月、参議従三位。10月権中納言。11月正三位。ついで従二位権大納言となり、「大和大納言」と呼ばれた。1591年(天正19年)1月22日、郡山城で病死。51歳。墓所は郡山城近くにある。菩提寺は大徳寺大光院、春岳院。大光院殿前亜相春岳紹栄大居士。羽柴秀長。
秀頼合祀は没地だからと推測できるが、秀長が合祀された理由は不詳。
歴史
1868年(明治1年)閏4月6日、明治天皇は豊臣秀吉の偉業を讃える御沙汰書を発表し、「豊太閤其人の如き英智雄略の人を得させられたく思し食しこれによって新に祠宇を造営し」と秀吉を祀る神社の創建を命じた。またそれを伝える政府の通達に「大阪城外近傍に於て相応の地を撰び社壇造営仰せ出され候」とあり、鎮座地を大阪城の近郊としていた。これは大阪行幸の時期に当たり、大阪を重視していたことに基づくと思われる。しかし検討された大阪遷都論も破棄されたためか、結果的に墓所のある京都東山に変更された(京都豊国神社)。一方で、1875年(明治8年)4月7日、大阪にも「別社」を建てることを命じ、翌年7月3日、鎮座地を中之島の仙台藩邸跡(現中央公会堂の地)と定めた。1879年(明治12年)11月28日に鎮座した(ウェブサイトでは1880年(明治13年))。大阪城天守閣の方角に向かって東面して建てられた。1882年(明治15年)6月8日、秀頼と秀長を合祀した(『府社豊国神社社記』)。
1912年(大正1年)、中央公会堂建設のため府立中之島図書館西に遷座。7月29日に起工し、11月15日に遷座祭を行った。社殿は南面に改められた。ながらく京都豊国神社の管轄下にあったが独立して1921年(大正10年)12月、府社に列格された。社殿改修され1934年(昭和9年)10月26日に遷座祭。 1935年(昭和10年)頃から大阪市庁舎の増築のため、鎮座地の変更が求められたが戦時下で中断していた。戦後、1956年(昭和31年)に大阪市から再び要請があり1961年(昭和36年)1月、大阪城内の現在地に遷座した。旧社殿は大阪府豊中市の服部住吉神社に移築された。
境内社として白玉神社、玉繁神社、玉春神社、七夕神社、若永神社がある。
(神社ウェブサイト、『日本歴史地名大系』、『生ける豊太閤』ほか)
境内
- 本社:
- 白玉神社:
- 玉繁神社:
- 玉春神社:
- 七夕神社:
- 若永神社:
画像
参考文献
- 神社ウェブサイト
- 日本歴史地名大系
- 『生ける豊太閤』[1]