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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

天壇

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年6月3日 (日)

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天壇(てんだん)とは皇帝が天帝を祀る祭壇である。天帝を祀るのは天子である皇帝にのみ許された行為であり、天壇は自らが天帝から承認された世界に唯一無二の支配者であることを表明する施設であった。各王朝ごとに天壇が作られた。漢代の泰畤が起源ともいう。地壇と対をなす。圜丘壇円丘壇南郊南壇郊祀壇などとも呼ばれた。日本では臨時に郊祀が行われた記録はあるが、恒久的な施設は作られなかった。


起源

天地壇の起源は、前漢にある。元鼎4年(前113)汾陰に后土祠、元鼎5年(前112)甘泉に泰畤を設けた。后土祠については周王朝の鼎が泗水に沈んでいたが、黄河の洪水で泗水と黄河が通じ、汾陰に流されていたという伝説があった。その後、前漢の丞相匡衡が天地壇の建立を建始元年(前32)に提言。のち王莽の時代に元始5年(西暦5)に定着した。南北に天壇と地壇が建てられた。王莽のクーデターをはさみ、後漢の建武2年(26)、光武帝が洛陽の南7里に天壇を祀った。建武中元2年(57)までは天壇に地壇も合祀されていた。この後漢の天壇には日月北斗、五星、五岳、二十八宿、雷公、先農、風伯、雨師、四海、四涜、名山、大川など1514神も祀られていた。

一覧

参考文献

  • 『東洋文庫 漢書郊祀志』解説
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A9%E5%A3%87」より作成

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