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学養寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年2月12日 (金)

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妙伝寺妙釈院内にある「学養寺旧跡」碑。天文法難の後に妙伝寺内に学養坊として復興されたことを偲ぶもので、往時の所在地は明らかでない

学養寺(がくようじ)は京都下京にあった日蓮宗寺院。洛中法華二十一寺の一つ。戦国時代の京都における身延門流の拠点だった。跡地不明。妙伝寺妙釈院燈明寺が後身とされる。

目次

歴史

日養による創建

綾小路にあった。身延山9世の日学(1386-1459)に帰依し、京都布教を命じられた日養(?-1459)が応永年間(1394-1428)に創建(「中世日蓮教団の丹後進出に関する一考察 : 実教院日養上人を中心として」[1])。日讃を開山とする説もある(身延山史[2])。

身延門流の関西拠点として興隆

日学が身延山から上洛して天皇に上奏した時の、弟子の日讃(?-1474)の尽力を評価して与えた1428年(正長1年)の書状に「此の相坂関より西之身延門流、悉く学養寺の末寺たるべき者也」とあるように、日学は学養寺を関西の身延門流の本寺と定め、1475年(文明7年)創建の妙伝寺が関西同門流の中心となるまで勢力を誇った。

1452年(享徳1年)美濃遊学中の池上本門寺7世の日寿(1431-1452)が突如病にかかり、京都学養寺で療養するが、同寺で死去して境内に埋葬された(日本仏家人名辞書ほか)。のち日寿の墓に付属して常寿寺が建てられた。この他、1433年(永享5年)に将軍諫暁で上洛した身延山玉泉坊の日伝や、身延10世の日延(1430-1461)、池上8世日調(1428-1501)らが関東から京都に修学・布教しにきたとき、学養寺に滞在した。


天文法難での廃絶と後身寺院

1536年(天文5年)天文法難で廃絶。再建されなかった。

その後、年代は不明だが、妙伝寺の日養が子院なら再建が容易だろうと考え、学養坊を創建。のち学養坊は子院の妙釈院に併合された(日蓮宗事典)。「身延山歴代略譜」の日学の項目にも「京都学養寺開基 今ノ妙伝寺内妙釈院是ナリ」とある[3]

一方、1558年(永禄1年)、北野で日像建立の「七口之題目石」の一つが発掘され、これを祀るために立本寺8世の日経が右近之馬場に寺院を創建。新寺の創建が禁止されていたため、学養寺の寺号を引き継いだ。1588年(天正16年)後陽成天皇が一日百灯供養を行い、燈明寺と改称した。(日蓮宗事典)

組織

歴代

  • 日学(1386-1459)<>:成就院。勧請開山。身延9世。
  • 1日養(?-1459)<>:実教院。但馬国出身。日学の弟子。最初、密教を学んだが、応永年間、諸国廻国して身延山で日学に帰依して改宗した。祖師像と大曼荼羅を授けられ、京都弘通を命じられた。京都に学養寺を創建し、永享年間、日為に譲り、但馬に帰り、堂を建てた。1449年(宝徳1年)、請われて丹後で布教し、丹後最初の日蓮宗寺院である妙立寺をはじめ多数の寺院を建てたという。1459年(長禄3年)8月16日、郷里で死去。
  • 2日為()<>:
  • 3日讃(?-1474)<>:大乗坊。開山とされることもある。日学の弟子。1474年(文明6年)死去。
  • 4日顕(?-1500)<>:1500年(明応9年)死去。
  • 5日頼(?-1533)<>:1533年(天文2年)死去。
  • 6日要()<>:
  • 7日教()<>:
  • 8日勇()<>:
  • 9日現()<>:
  • 10日潤()<>:
  • 11日栄()<>:
  • 12日受()<>:

「洛陽学養寺代々」(「中世日蓮教団の丹後進出に関する一考察 : 実教院日養上人を中心として」[4]

子院

  • 常寿寺:池上7世の日寿の墓に付属して創建。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AD%A6%E9%A4%8A%E5%AF%BA」より作成

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