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宗祐寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年10月13日 (金)
宗祐寺(そうゆうじ)は、奈良県宇陀市榛原萩原(大和国宇陀郡萩原)にある融通念仏宗寺院。大和七大寺の一つ。近世には末寺50寺を擁した。多聞院と号す。山号は良栄山。(参考:同名寺院多聞院)
目次 |
歴史
- 敏達天皇10年8月:聖徳太子が毘沙門天を祀り、多聞院と称した。恵仁を住職とした。(奈良県宇陀郡史料)
- 天徳頃:良忍が聖徳太子殺生戒の霊地を訪ねて多聞院に滞在。一乗円戒を弘通し、融通念仏を勧進。(奈良県宇陀郡史料)
- 1290年(正応3年):本堂再建。(奈良県宇陀郡史料)
- 1559年(永禄2年):宗祐が入寺。織田信長の家臣だったと伝えるが確証はない。宗祐寺と改名。(奈良県宇陀郡史料)
- 1582年(天正10年):織田信長の寄進で堂宇を再建したという。(奈良県宇陀郡史料)
- 寛永頃:頼誉祐閑が入る。自ら「中興開山」と称す。末寺や講に十一尊仏の下付を始める。
- 1673年(延宝1年):音空貞顔、鐘楼、薬師堂、僧坊客殿を再建。(奈良県宇陀郡史料)
- 「年中行事」には49寺の末寺の名前が列挙されている。
- 1886年(明治19年):阿弥陀堂を再建。
組織
住職
- 1良栄宗祐(?-1590)<1559->:伊賀国黒田出身。俗姓は服部。織田信長の家臣だったと伝える。1558年(永禄1年)、本山から十一尊仏を下付される。1559年(永禄2年)に多聞院に入り宗祐寺と改称。1590年(天正18年)7月3日死去。泉与宗祐。
- 2道雄宗信(?-1622)<>:1622年(元和8年)11月7日死去。
- 3頼誉祐閑(?-1665)<>:自ら「中興開山」と称す。末寺や講に十一尊仏の下付を始める。「誉」号を持つことから浄土宗との関係が推定されている。1665年(寛文5年)7月29日死去(1624年(寛永1年)7月29日死去ともいうが年代が合わない)。
- 4音空貞顔(?-1692)<>:1673年(延宝1年)、「宗祐寺縁起」を編纂。1692年(元禄5年)10月15日死去。顕道。
- 5広空一卓(?-1679)<>:龍道。1679年(延宝7年)1月17日死去。
- 6専融貞山(?-1690)<>:貫道。1690年(元禄3年)5月8日死去。
- 7逞誉敬顔(?-1699)<>:穽道。1699年(元禄12年)9月24日死去。
- 〓誉順阿()<>:元禄年間の青龍寺来迎図に署名。
- 9臨空(?-1662)<1658-1662>:1658年(万治1年)宗祐寺住職。1662年(寛文2年)1月29日死去。
- 龍海融天(?-1733)<1732-1733>:大念仏寺執権。1732年(享保17年)宗祐寺住職。(略歴は大念仏寺#組織を参照)
- 13慧光秀冏()<>:1735年(享保20年)在職
- 21清凉得善(1835-1907)<1885-1897>:大念仏寺56世。河内国茨田郡出身。1835年(天保6年)生。1885年(明治18年)から1897年(明治30年)まで宗祐寺住職。1900年(明治33年)大念仏寺住職。()1901年(明治34年)4月とも。1907年(明治40年)11月4日死去。
資料
古典籍・史料
- 「宗祐寺縁起」
- 「歴代」
- 「年中行事」
- 「繰出位牌銘文」
文献
- 1959『榛原町史』「宗祐寺」[1]
- 浦西勉1978「仏教儀礼地方伝播過程の一考察―奈良県宇陀郡宗祐寺(融通念仏宗)の場合」[2]
- 吉田清1987「融通念仏宗と御廻在―特に大宇陀町とその周辺地域」『畿内周辺の地域史像』
- 大澤研一1998「融通念仏宗の大和国への勢力伸長について」『法明上人六百五十回御遠忌記念論文集』
- 澤井浩一2000「御回在と村落―奈良県宇陀郡榛原町宗祐寺の事例を中心として」『法明上人六百五十回御遠忌記念・融通念仏信仰の歴史と美術論考編』
- 稲城信子2004「大和における融通念仏宗の展開」『国立歴史民俗博物館研究報告』112
- 宗祐寺史編纂委員会2015『宗祐寺史』
- 宗祐寺史編纂委員会2017『宗祐寺什宝目録・経蔵目録・文書目録』
- 幡鎌一弘2015「大和国宇陀郡宗祐寺の創建とその活動」『融通念佛宗における信仰と教義の邂逅』