ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
寂光院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年10月31日 (日)
寂光院(じゃっこういん)は京都府京都市左京区大原草生町にある天台宗寺院。本尊は地蔵菩薩。平清盛娘の建礼門院徳子が隠棲した。尼寺とされる。裏山に建礼門院の大原西陵がある。寺号は玉泉寺。山号は清香山。(参考:同名寺院寂光寺)
目次 |
歴史
寺伝によると聖徳太子が594年(推古2年)に用明天皇の菩提を弔うために創建したという。玉泉寺の子院の一つだったと伝える。初代住職は日本最初の三比丘尼の一人である慧善尼という。または空海、あるいは良忍の創建ともいう。 1165年(永万1年)、阿波内侍が出家して証道と名乗り、入寺した。これを2代住職とみなしているという。 1185年(文治1年)10月、壇之浦の戦いで平家が滅亡した後、建礼門院徳子が隠棲して真如覚と名乗り入寺。高倉天皇、安徳天皇、平家一門の冥福を祈ったという。翌1186年(文治2年)4月、後白河法皇が建礼門院を訪ねて御幸した。平家物語によると建礼門院は1191年(建久2年)2月(没年は異説多し)、寂光院の阿弥陀三尊の中尊の手に五色の糸を結びつけて亡くなったという(現在は阿弥陀如来を祀っているかは不明)。 1344年(興国5年/康永3年)頃には妙法院門跡が「寂光院検校職」の権限を主張していた。 後には聖衆来迎寺の末寺となった。 1603年(慶長8年)、淀殿の発願で伽藍再興。近世は、天台宗と浄土宗の兼学で寺領は30石だった。 2000年(平成12年)5月9日、本堂焼失。 2005年(平成17年)6月2日、再建。 (ウェブサイト、日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)
伽藍
- 本堂:本尊は地蔵菩薩は六万体地蔵菩薩と呼ばれる。2000年(平成12年)の焼失後、2005年(平成17年)に旧本堂そのままに再建。本尊は焼損した旧本尊を模刻し、美術院国宝修理所の小野寺久幸が造立したもの。また建礼門院像と阿波内侍像を祀る。火災後に平安仏所が造立。焼失した阿波内侍像は平家の手紙で作られた張り子の像とされるが、焼け残った書状からは室町時代の後期とみられる年号が見つかった。
- 弁天堂:現存未確認。
- 大原西陵:建礼門院の陵墓。
- 御庵室跡
- 阿波内侍墓
- 大納言佐局墓
- 右京大夫局墓
- 治部卿局墓
組織
住職
- 1慧善尼(生没年不詳)<594-?>:日本で最初の尼僧の一人。錦織壺の娘。古墳時代末期の人物。584年(敏達天皇13年)、禅蔵尼と共に善信尼の弟子となり、高句麗の恵便について出家。587年(崇峻天皇1年)、百済にわたり正式に受戒して帰国。桜井寺に入った。寂光院の伝承では、俗名を玉照姫といい、聖徳太子の「御乳人」だったという。恵善尼。
- 2証道尼(生没年不詳)<1165-1185>:阿波内侍。建礼門院の女房。出自は諸説あるが、寂光院では藤原信西の娘とする。寺伝では建礼門院より先に寂光院に入っていたとされる。
- 3真如覚尼(1155-1213)<1185->:建礼門院平徳子。高倉天皇中宮。平清盛の娘。安徳天皇の生母。1185年(文治1年)に出家して寂光院に隠棲。没年は様々な伝えがあるが、一般的には1213年(建保1年)死去とされる。
- 30小松智教(?-1965)<1917-1945>:1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで寂光院院主。1965年(昭和40年)7月18日死去。83歳。
- 31小松智光(1910-2003)<1945-2003>:滋賀県出身。1910年(明治43年)生。1930年(昭和5年)四度加行。1934年(昭和9年)得度(?)。比叡山専修院修了。1945年(昭和20年)寂光院院主。1988年(昭和63年)、天台宗で女性初の大僧正となる。2003年(平成15年)12月24日死去。93歳。
- 32瀧沢智明(1936-)<2005->:大阪府出身。1936年(昭和11年)生。1989年(平成1年)叡山学院研究科特修修了。1973年(昭和48年)寂光院に入り、1984年(昭和59年)得度。2005年(平成17年)6月、寂光院院主。瀧澤智明。
資料
- 京都府寺誌稿
- 田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-上-」『史迹と美術』29-6
- 田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-下-」『史迹と美術』29-7
- 小松智光1983『わが思う:ブッダと平和への道:上下』寂光院
- 小松智光1989『仏教の女性観』寂光院
- 小松智光・大木明1995『寂光院:京の古寺から10』淡交社
- 奥健夫1997「清涼寺・寂光院の地蔵菩薩像と「五境の良薬」―像内納入品論のために」『仏教芸術』234
- 京都市消防局2001「あれから1年―寂光院火災以降の文化財の防火防災対策」『近代消防』39-8
- 平塚桂・大窪健之・小林正美2001「木造文化財の防災における「地域力」に関する研究―大原・寂光院本堂火災を通して(都市計画)」『日本建築学会近畿支部研究報告集』41
- 平塚桂・大窪健之・小林正美2001「木造文化財の防災における「地域力」に関する研究―大原・寂光院本堂火災を通して(地域防災・都市計画)」『日本建築学会学術講演梗概集』
- 高桑いづみ・野川美穂子2004「鎌倉時代に制作された横笛―仏像胎内に納入された三例を中心に―」『芸能の科学』31[1]
- 鈴井千晶2004「大原御幸の道」『仏教大学大学院紀要』32[2]
- 延原隆司2005「寂光院本堂の復原」『建築研究協会誌』10
- 小松智光・瀧澤智明2005『寂光院の寺宝美術』
- 瀧澤智明・坪内稔典2009『寂光院:古寺巡礼京都38』淡交社