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山口・児玉神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年10月6日 (金)
児玉神社(こだま・じんじゃ)は、山口県周南市児玉町にある軍人奉斎神社。祭神は児玉源太郎。徳山市街地の中心部の邸宅跡に鎮座する。県社。神奈川県藤沢市の江ノ島にも江島・児玉神社がある。
目次 |
歴史
略歴
- 1852年(嘉永5年)閏2月25日:誕生。父は徳山藩士児玉半九郎。この時の生家は少し離れた場所にあった。
- 1868年(明治1年):戊辰戦争に従軍
- 1874年(明治7年):佐賀の乱に出征
- 1877年(明治10年):西南戦争で熊本鎮台参謀副長を務める。
- 1887年(明治20年):陸軍大学校初代校長。
- 1888年(明治21年)10月:入江石泉らと共に「徳山七士碑」を遠石の西端に建立[1]。
- 1894年(明治27年):日清戦争で「事実上の陸軍大臣」として動く。
- 1895年(明治28年)8月:男爵。日清戦争の功績による。
- 1898年(明治31年)2月:台湾総督に就任。後藤新平を重用した。
- 1900年(明治33年):陸軍大臣。
- 1901年(明治34年):台北に臨済宗妙心寺台湾別院を創建。
- 1903年(明治36年):内務大臣・文部大臣。参謀次長。
- 1903年(明治36年):生家跡を買い戻して児玉文庫を設立。
- 1904年(明治37年):日露戦争で満洲軍総参謀長となる。
- 1904年(明治37年):陸軍大将。
- 1906年(明治39年)4月:参謀総長。子爵に陛爵。
- 1906年(明治39年)7月23日:東京で死去。55歳。徳山では24日として伝わっている。青山霊園に埋葬、のち多磨霊園に改葬された。大観院殿藤園玄機大居士。
創建前史
- 1906年(明治39年)7月23日:児玉源太郎死去。徳山では24日として伝わっている。
- 1906年(明治39年)9月8日:徳山の菩提寺の曹洞宗興元寺に遺髪塔を建立。
- 1907年(明治40年)10月:子の児玉秀雄が伯爵に陛爵。
- 1908年(明治41年)頃:(親友の杉山茂丸が向島の私邸に児玉源太郎の御霊を祀る祠を創建。のちに江の島に遷座したという。)
- 1918年(大正7年)7月:徳山の屋敷跡に児玉源太郎頌徳碑「徳足以懐遠」を建立。
- 1918年(大正7年)5月20日:(江の島の児玉神社、「私祭神祠」から正式な神社として公認される)
- 1921年(大正10年)7月:(江の島の児玉神社の社殿造営。)
歴史
- 1922年(大正11年)12月15日:創立許可願を提出。同日、江の島の児玉神社から社殿(旧社殿か)を譲り受け、分霊を奉遷し、徳山の児玉神社に鎮座(遷座と呼び慣わしているようだ。あるいは分霊ではなく、江の島の神社そのものを遷座したという記述ももられる)。
- 1923年(大正12年)8月14日:創立許可。無格社。
- 1925年(大正14年):タイワンゴヨウ植樹
- 1926年(昭和1年)4月:「徳山七士碑」を児玉神社境内に移設[2]。
- 1945年(昭和20年):戦災で児玉文庫焼失
- 1933年(昭和8年)5月16日:県社に列格。
- 1940年(昭和15年)12月:(江の島の児玉神社が県社に昇格)
- 1981年(昭和56年)12月:児玉公園に徳山市慰霊碑建立
- 2011年(平成23年)7月23日:児玉公園に児玉源太郎像を建立。国立台湾博物館の像のレプリカ。
- 2015年(平成27年)9月17日:「児玉源太郎生誕の地」開園
- 2016年(平成28年)6月9日:児玉源太郎顕彰会設立
- 2022年(令和4年)10月23日:遷座100年奉祝祭。社殿修復も実施。