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崇峻天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年6月26日 (水)

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奈良県桜井市倉橋にある崇峻天皇陵墓。天皇の位牌堂がある金福寺伝承地(現陵)、考古学で推定される赤坂伝承地(赤坂天王山古墳)、明治初年に治定されたことがある雀塚伝承地、豪華な副葬品が見つかった斑鳩伝承地(藤ノ木古墳)の4カ所の候補地がある。

歴史

崇峻天皇は、日本書紀によると、崇峻5年(592)11月3日、東漢直駒によって暗殺され、即日「倉梯岡陵」に埋葬された。古事記には「倉椅崗上」に陵墓があるとしている。延喜式には「倉梯岡陵」とあり、「無陵地并陵戸」という。

「元禄の修陵」では、『諸陵周垣成就記』[1][2]によると、赤坂伝承地と金福寺伝承地の双方を修復したらしい。「崇峻天皇御陵」の絵図に「御陵山 字岩屋山 又赤坂山トモ」とあり、赤坂伝承地と確認できる[3]。また次の頁に「字天皇屋敷」の地図を載せ、「金福寺」とともに「御陵の上に本堂」と記している[4]。「文化の修陵」では赤坂伝承地が修復されたようで、『歴帝陵考』(元禄12)、『大和志』、蒲生君平『山陵志』なども赤坂説を支持している。 幕末の「文久の修陵」では、比定地が不明として修復は実施されなかったらしく『文久山陵図』には記載がない。事業に関わった北浦定政は赤坂説は書記の記述に合わないとし、金福寺説を主張していた(『打墨縄』)。

1876年(明治9年)2月7日、大和国十市郡倉橋村の「スズメ塚」を「崇峻天皇倉梯岡上陵」に治定した(明治天皇紀)。今まで候補にも上がってこなかった雀塚が突然、治定されたのは謎である。(『磯城郡誌』では赤坂伝承地と雀塚伝承地を同一のものとして混同しており、明治9年に治定したのが、赤坂天王山古墳とする説は、ここから来ているのかもしれない)


1889年(明治22年)7月25日、所在を改めて、同村の「崇峻天皇御位牌所及び十二社神社境内」(金福寺伝承地)を治定し(明治天皇紀)、明治34年に修復された(『磯城郡誌』)。金福寺には、聖徳太子の位牌もあったという。のち「倉梯岡陵」に改称された。金福寺は倉梯柴垣宮跡とも言われる(『大和志』)。

金福寺伝承地では、元禄の時代から陵上に堂があると記載があり、『磯城郡誌』にも「御位牌所たりし一小堂は今尚ほ御陵の中央に存在し」とあり、現在もある小祠がそれであると思われる。十二社神社は、道の反対側に遷座して倉橋神社となったらしい。

斑鳩伝承地は、豪華な副葬品が見つかった藤ノ木古墳で、法隆寺の江戸時代の文書に崇峻天皇陵との記録があり、宝積寺という陵寺もあったという。現代でも支持する研究者がいる。


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