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幸彦社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年2月2日 (木)

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幸彦社

幸彦社(さちひこしゃ)は福岡県北九州市小倉南区蒲生にある国学者を祀る霊社豊前・蒲生八幡宮境内にある。祭神は柿本人麻呂と西田直養。

西田直養(1793-1865)は小倉藩士で神理教教祖佐野経彦の師に当たる。 1793年(寛政5年)生。藩士高橋元義の四男。西田直享の養子となる。儒学を石川彦岳大田錦城に、和歌を国学者秋山光彪に学ぶ。36歳の時、勘定奉行となり、町奉行、近習番頭などを歴任した。江戸京都大坂などにも出張した。平田篤胤、屋代弘賢、塙保己一、伴信友、萩原広道らと交流。のち本居大平の門下となった。小倉藩が佐幕の姿勢を取り、1864年(元治1年)、山口藩が攻撃された英米仏蘭の下関砲撃事件の時、小倉藩が傍観していたことに憤慨し、絶食。1865年(慶応1年)3月18日死去。号は筱舎。著書『古事記集解』『金石記』『金石年表』『神璽考』『筱舎漫筆』『四天王寺旧地根元考』など多数。

西田直養の死後、門人である蒲生八幡宮神主や佐野経彦らによって建てられたようだ。神社明細帳によると、1867年(慶応3年)8月5日創建。現存する鳥居には「佐野経彦」の名が刻まれている。創建翌年にあたる1868年(明治1年)に佐野経彦が編纂した『企救郡誌』(佐野経彦著)の蒲生八幡宮の項目に「幸彦社 西田直養霊社なり」とある。(伊東尾四郎著1931『企救郡誌』)

『国学者伝記集成』に「維新後、東紫村に其社を建て、東紫神社と号し、村社に列せらる」とあるが、地誌などに「東紫神社」という名の神社は登場しない。蒲生八幡宮の所在地は近世の南方村にあたり、明治時代には東紫村(1889年(明治22年)~1907年(明治40年))であったため、幸彦社が東紫神社である可能性もある。

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