ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

廬山寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年8月30日 (日)

移動: 案内, 検索
廬山寺(国土地理院空中写真より)

廬山寺(ろざんじ)は、京都府京都市上京区北之辺町にある皇室ゆかりの天台宗系・浄土宗系の寺院。名称は浄土教の聖地である中国廬山に由来する。中世、円密戒浄(天台真言戒律・浄土)の四宗兼学の寺院として発展。戦後まで天台宗延暦寺派に所属したが、現在は「天台円浄宗総本山」を名乗る。京都御所のすぐ東に位置し、宮中御黒戸の祭祀を司った「御黒戸四箇院」の一つ。北には清浄華院、西には梨木神社がある。南には京極遣迎院があった。境内に慶光天皇らを葬る廬山寺陵墓地がある。初名は与願金剛院廬山天台講寺。山号は日本廬山。

目次

歴史

938年(天慶1年)、良源が北山に与願金剛院として創建。1245年(寛元3年)、後嵯峨天皇の勅で住心房覚瑜が船岡山南麓(出雲路とも)に再興(実際には1245年(寛元3年)には覚瑜は死去)。このとき、中国廬山の慧遠(334-416)が覚瑜の前に出現し、「廬山」の二文字を残して姿を消したため、「廬山天台講寺」と改称した。一方、これとは別に本光禅仙が開いた一条猪熊の草庵があった。この二つを明導照源が継承して併合。明導照源は外祖父の後醍醐天皇の帰依を受け、参内して講じる。明導照源は勅願寺の申請状を提出するが実現しなかった。仁空実導の代の1369年(応安2年)10月19日、室町幕府の祈願所となる(大日本史料総合DB)。1374年(応安7年)9月2日、後円融天皇が祈願を命ず(大日本史料総合DB)。1397年(応永4年)焼失。1401年(応永8年)閏1月12日、足利義満が参詣。1467年(応仁1年)兵火で焼失(『応仁記』)。宗桂の代、1476年(文明8年)10月5日、後土御門天皇の勅願寺となる(後土御門天皇実録)。以後、皇族の埋葬が増える。1494年(明応3年)焼失(『後法興院記』)。1516年(永正13年)、三条西実隆(1455-1537)が廬山寺で落飾して逍遥院尭空と名乗る。この頃、京都・雲居寺を末寺としていたらしい。1520年(永正17年)、土一揆が廬山寺を焼く(二水記)。1569年(永禄12年)焼失したが、同年再興(『廬山寺縁起』)。 1570年(元亀1年)、曼殊院門跡の覚恕法親王が廬山寺勧進帳を読進する(大日本史料総合DB)。 1571年(元亀2年)、明智光秀が廬山寺を延暦寺の末寺とみなして「違乱」するが、朝廷は延暦寺の末寺であることを否定して違乱を停止させる(大日本史料総合DB)。

天正年間、豊臣秀吉の京都整備で現在地に移転し、57石を寄進。現在地は紫式部の邸宅跡という。1708年(宝永5年)焼失。1788年(天明8年)焼失。1794年(寛政6年)、光格天皇が仙洞御所の一部を移築して、現在の本堂と御尊牌殿を再建(ウェブサイト)。1835年(天保6年)元三大師堂を再建。1856年(安政3年)御尊牌殿修復?(廬山寺文書)。 1874年(明治7年)、金山天王寺を合併(ウェブサイト)。 1878年(明治11年)尊牌保護料として金200円下賜され、翌年より毎年70円下賜されていたという(1896『皇朝天台史略』)。 1948年(昭和23年)、天台宗延暦寺派を離脱して円浄宗を称す(世界大百科事典)。

法然自筆といわれる『選択本願念仏集』写本が伝わる。

(国史大辞典、日本歴史地名大系ほか)

伽藍

Kokudo0025.jpg京都御苑東の寺院群の一番南が廬山寺(国土地理院空中写真より) Kokudo0029.jpg京都御苑東の寺院群。1945年頃(国土地理院空中写真より)
  • 本堂:本尊は阿弥陀如来。ただし、国史大辞典や日本歴史地名大系などには本尊は聖徳太子作の薬師如来とある。大師堂の東にあり、南面する。
  • 元三大師堂:本尊は良源。山門を入って正面すぐにある。西面。大師堂。
  • 地蔵堂:本尊は地蔵菩薩。明智光秀の持仏という。現存不詳。
  • 御尊牌殿:
  • 雲井の水:東北院の井戸の遺構という。井戸周辺はもともとは遣迎院の境内だった(拾遺都名所図会)。
  • 廬山寺陵墓地:本堂の北東にある。東側には御土居が残る。
  • 定朝墓:仏師定朝の墓の伝承地。

子院

京都御苑(国土地理院空中写真より)

1518年(永正15年)の廬山寺文書には常不動院、栖賢庵、万荼羅院を「管領三塔頭」と記し、雲居寺大慈園寺金光院を「諸末寺」と記す。

  • 金光院:1570年(元亀1年)には存在(言継卿記、継芥記)。明治維新時に廃絶(坊目誌)。
  • 宝林院:1570年(元亀1年)には存在(言継卿記、継芥記)。廃絶。
  • 十輪院:明治維新時に廃絶(坊目誌)。
  • 不動院:明治維新時に廃絶(坊目誌)。1518年(永正15年)の廬山寺文書に「常不動院、号竹中」とあり、1570年(元亀1年)の言継卿記や継芥記にみえる「竹中坊」に該当すると思われる。
  • 栖賢庵:1508年(永正5年)には存在。廃絶。
  • 万荼羅院:

組織

歴代住職

  • 良源(912-985):天台座主。慈慧大師。通称は元三大師。
  • 住心覚瑜(1158-1233):平康房の子。1158年(保元3年)生。園城寺の良慶に天台を学ぶ。1217年(建保5年)7月7日、如意寺で慶範のもとで伝法灌頂。浄土教の別所として知られた光明山寺に3、4年滞在した後、京都出雲路に草庵を開く。これが廬山寺の復興とみなされるが詳細は不明。草庵を開いた前後に法然と交流があったとみられている。浄土宗では浄土宗の僧とみなされている(その評価は分かれる)。修験道本山派住心院の始祖ともいう。門下に浄土宗鎮西派九品寺流開祖の長西がいる。覚愉とも。住心房。出阿。出雲路上人。1233年(天福1年)1月30日死去(「廬山寺代々住持」によると1170年(嘉応2年)生まれで1245年(寛元3年)1月29日死去とある)。著作に『善導和尚類聚伝』などがあったが伝わらない。(新纂浄土宗大辞典ほか)
  • 禅也()<>:1336年(延元1年/建武3年)11月18日死去。(「廬山寺代々住持」)
  • 1本光禅仙(?-1304)<>:一条猪熊に庵を開く。延暦寺東塔十方院より移る。1304年(嘉元2年)4月10日死去。(「廬山寺代々住持」ほか)
  • 2禅月心善()<>:1339年(延元4年/暦応2年)死去。(「廬山寺代々住持」)
  • (康空示導)?
  • 3明導照源(1298-1368)<-1336->:廬山寺中興。六条有房の六男。後醍醐天皇の外孫。1298年(永仁6年)生。延暦寺で遍照光院仲円に師事。大原来迎院に住す(本朝高僧伝)。最初は常住房房雲と称すが、三鈷寺の康空示導に浄土宗西山派(本山流)も学び、明導房照源と改名。後醍醐天皇に講じ、御衣を賜ったという。1336年(延元1年/建武3年)以前(大日本史料総合DB)に廬山寺に住し、典籍を整備し、学僧が集まった。講義録に『止観義例猪熊鈔』などがあり「廬談」と総称?。1368年(正平23年/応安1年)5月12日死去。71歳。仁空と共に天台宗廬山寺流の祖。弟子に明空。浄聖院と号す。
  • 4仁空実導(1309-1388)<>:三鈷寺10世(11世?)。藤原為信の子。1309年(延慶2年)生。諱は恵仁。字は静山。天台宗、密教、戒律、浄土宗西山派を学ぶ。照源と共に仲円に師事。1368年(正平23年/応安1年)廬山寺を兼務。1388年(元中5年/嘉慶2年)12月11日死去。80歳。勅諡は円応。『大日経義釈捜決抄』『遮那業案立』など著作多数。照源とと共に天台宗廬山寺流の祖。現在では天台宗の僧侶とも、浄土宗西山派(本山流)の僧侶ともみなされる。
  • 5明導照源(1298-1368)<>:再任。
  • 6仁空実導(1309-1388)<1368->:再任。
  • 7澄空恵達(?-1385)<>:1377年(天授3年/永和3年)、仁空実導が廬山寺を澄空恵達に譲ることを示す(大日本史料総合DB)。1385年(元中2年/至徳2年)死去(「廬山寺代々住持」)。
  • 8明空志玉(?-1403)<-1400->:1400年(応永7年)時点で在職。1403年(応永10年)、帰国して遣明使に同行して明に渡る途中、船中で死去。普一志玉と混同されることがあるが別人。字は中庵。(「廬山寺代々住持」では1406年(応永13年)死去とある。)
  • 9無相恵鏡(-1408)<>:1408年(応永15年)5月7日死去。(大日本史料総合DB)
  • 10示鏡弁空(1348-1448)<>:太政大臣洞院公賢の子。字は無象。1448年(文安5年)死去。101歳。(「廬山寺代々住持」)
  • 11了空正明(?-1451)<>:1451年(宝徳3年)死去。(「廬山寺代々住持」)
  • 12大用照珍(?-1452)<>:明空志玉の侍者だった。6年間、入宋して1404年(応永11年)1月帰国。廬山寺に住す。1417年(応永24年)在職か(大日本史料総合DB)。1452年(享徳1年)死去(「廬山寺代々住持」)。昭珍。10世との記述もある。
  • 13陽元照春(?-1458)<>:1458年(長禄2年)死去。(「廬山寺代々住持」)
  • 14涵翁中濡(?-1471)<>:1471年(文明3年)死去。(「廬山寺代々住持」)
  • 15月堂窓桂(?-1482)<>:勅願寺になったと1476年(文明8年)に在職していた「宗桂」か(大日本史料総合DB)。1482年(文明14年)死去(「廬山寺代々住持」)。
  • 16徳仲頴芳(?-1488)<>:1488年(長享2年)死去。穎芳。(「廬山寺代々住持」)
  • 17星岳照提(?-1497)<>:1497年(明応6年)死去。(「廬山寺代々住持」)
  • 18月峰照雲(?-1527)<1511->:1511年(永正8年)に入寺か(大日本史料総合DB)。1527年(大永7年)12月4日死去(大日本史料総合DB)(「廬山寺代々住持」では4月8日死去)。月峯照雲。昭運。
  • 19宝雲頴通()<>:1531年(享禄4年)5月在職。(大日本史料総合DB)
  • 20冬嶺良秀()<>:
  • 宝雲頴通()<>:再任。
  • 泰空()<>:
  • 22超空()<>:

資料

古典籍

  • 『廬山寺縁起』:1569年(永禄12年)。『大日本仏教全書』収録[1]
  • 『廬山寺過去帳』:追善する皇族の名前を列挙。廬山寺文書所収[2]
  • 『廬山寺住持次第』:『柳原家記録』所収[3][4]
  • 「廬山寺代々住持」:『京天台四箇寺歴代略譜』所収。『続天台宗全書』圓戒2解題[5]を参照。
  • 卍元師蛮「京兆廬山寺沙門照源伝」『本朝高僧伝』
  • 『続天台宗全書』圓戒2
  • 「廬山寺」『古事類苑』[6]
  • 「廬山寺文書」:抜粋が新日本古典籍総合データベースにある[7]
  • 「京都五ヶ寺取調書」:不詳。新日本古典籍総合データベースにあるのは別の書籍(延享八講秘録)か[8]
  • 「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」:17世まで掲載。鷲尾順敬旧蔵。
  • 「仁空置文」:『続群書類従』所収[9]

文献

  • 獅子王圓信1929「台密廬山寺流の伝燈」『密教研究』33[10]
  • 岩田教圓1933「大日経義釈捜決抄の刊本と廬山寺流の教学に就て」『新山家学報』新8
  • 山口光圓1956「安居院流から廬山寺流へ」『台門學報』1
  • 山口光圓1958「宗淵僧都の天台教学―特に廬山寺流の教学について」『天台学僧宗淵の研究』
  • 藤平寛田1992「明導照源と廬山寺流義科書『廬談』について」『天台学報』35
  • 窪田哲正2006「照源の『止観義例猪熊鈔』について」[11]
  • 加藤繁生2008「廬山寺墓地の石造遺構―伝『雲水の井』について」『史迹と美術』78(1)
  • 大塚紀弘2009「教院興行と三鈷寺流の成立―康空から仁空・照源へ」『中世禅律仏教論』
  • 吉田淳雄2015「出雲路の住心房覚愉について」『大乗仏教と浄土教』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BB%AC%E5%B1%B1%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール