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忠烈祠 - SHINDEN

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忠烈祠

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年11月12日 (日)

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忠烈祠

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左:高雄市忠烈祠 右:国民革命忠烈祠

目次

概要

忠烈祠とは、中華民国の国家殉難者を祀る霊廟である。

歴史

中華民国の建国から遷台まで

中国および儒教文化圏では、古くから忠臣を祀る霊廟の創建が行われてきた。孔子を祀る文廟に儒学者を合祀したり、皇帝を祀る宗廟に功績を残した忠臣を合祀したりすることが行われてきた。その遺構は現在でも確認できる。しかし、武人祭祀に関しては、中国では意図的に軽視されてきたともいわれている(これに対して、朝鮮王朝では日本の朝鮮出兵時の戦没者・功績者などを祀る忠烈書院と呼ばれる霊廟の創建が盛んに行われている。)。また、特定の階層に限らない国民の戦没者一般を対象とした祭祀制度は近代化によるナショナリズム(国家主義・国民主義)の登場を待たなければならなかった。

辛亥革命の直前の1911年(宣統3年・明治44年)3月29日(旧暦)、倒清のグループが武装蜂起を実行した。この黄花崗起義と呼ばれる武装蜂起は失敗したが、のちの中華民国においてこの日は「革命先烈紀念日」と定められ、忠烈祠などの祭日となった。同年10月10日、再び武装蜂起を行い、辛亥革命となった。1912年(民国1年・大正1年)1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国樹立が宣言された。以後、内戦が続くが、1925年(民国14年・大正14年)、蒋介石が国民党の主導権を握ると北伐を開始した。北伐を一段落した1928年(民国17年・昭和3年)10月10日に中華民国国民政府が成立し、ようやく一定の統一を見た。

1931年(昭和6年)7月11日、中華民国国民政府は「褒揚条例」を公布した。これは「奮勇抗敵忠心衛国確有功績者」を顕彰する制度であり、祭祀施設に関する規定はまだなかった。1933年(昭和8年)には、内政部により「烈士附祠弁法」が公布され、国民革命や抗日のために犠牲となった「烈士」を祀る「記念祠」(「烈士祠」)を創建することが規定された。続いて1936年(昭和11年)5月、中華民国行政院は、軍事委員会制定の「各県設立忠烈祠弁法」を公布した。ここで初めて「忠烈祠」という呼称が用いられた。「抵禦外侮」(抗日)、「北伐」(内戦)、「赤剿」(中国共産党)の各戦役で死亡した官兵を祀るものとした。

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が開始された。1940年(昭和15年)9月20日、中華民国政府は「抗敵殉難忠烈官民祠祀及建立紀念坊碑弁法大綱」と「忠烈祠設立及保管弁法」を公布した。現在の忠烈祠関係法規の基礎となるものであった。中央政府は各省市県の地方政府に、忠烈祠の創建を要求したが、地方政府は戦争で被害を受けた街の復興で精一杯の状態であり、新たに忠烈祠造営を実行する余裕はなかった。既存の寺廟を改造して創建されたが、極めて簡素なものに留まったという。それでも1945年(昭和20年)10月現在において、中国大陸の17省752県に766箇所の忠烈祠が創建された。

上述の「弁法大綱」では政府所在地に「首都忠烈祠」を創建することを規定していたため、臨時首都であった重慶に創建する計画が進められていた。しかし、適当な用地が見つからず、物価高騰で予算が追いつかなかったため、実現しなかった。

遷台以降

桃園市忠烈祠。旧・桃園神社社殿をそのまま転用している。
戦前の台湾護国神社社殿。戦後もそのまま「台湾省忠烈祠」の社殿として用いられた。

1945年(民国34年・昭和20年)9月2日、日本政府は降伏文書に調印し、第二次世界大戦は終了した。中華民国ではこの翌日を抗日戦争記念日として祝った(これが忠烈祠などの祭日が9月3日であることの由来である。)。日中戦争終戦後、中華民国政府は重慶から南京に戻ったが、内戦と財政難を抱えて、「首都忠烈祠」の創建はままならなかった。

1949年(民国38年・昭和24年)、中国大陸では中国共産党が勢力を伸ばし、4月には中国共産党人民解放軍が中華民国の首都南京を占領、10月1日には中華人民共和国の樹立が宣言されるに至った。中華民国政府は、同年、台湾に撤退した。

これより先、1945年(民国34年・昭和20年)10月、中華民国政府は日本が撤退した台湾を接収し正式に中華民国の領土に編入した。11月16日、中華民国政府は地方政府に対し、抗戦殉難忠烈軍民の姓名と事績を調査し、忠烈祠を設けることを命じた。これを受けて中華民国に編入された台湾でも調査が各地で開始され、資料が少なくはっきりしないが、翌年5月29日には新竹県大湖区の烈士名簿が作成されていたという。6月17日、鄭成功、丘逢甲、劉永福を主神とする73位を祀る新竹県忠烈祠(現・桃園市忠烈祠)が創建されたのが資料のある最初の明確な事例である。しかしながら、創建年代のはっきりしない忠烈祠が多いようである。中華民国政府の遷台を挟んだ時期に忠烈祠の創建が進められた。

興味深いのは、日本植民地時代の神社を転用して忠烈祠を創建したことであった。上述した新竹県忠烈祠(現・桃園市忠烈祠)もそれである。中華民国政府は台湾省の中心的な忠烈祠として台湾省忠烈祠を創建したが、これは日本植民地時代の台湾における戦没者祭祀の中心だった「台湾護国神社」の社殿設備をそのまま転用したものであった。

制度整備と改築

中国宮殿式建築で造営された国民革命忠烈祠

民国50年代後半には忠烈祠の整備が設備的にも制度的にも進められた。これはいくつかの要因があった。まず第一に第二次大戦後の冷戦構造が形成されるにつれて、中華民国の大陸奪還は絶望的な状況となり、台湾を領土とすることを前提に政策を見直す必要があったこと、日本式の木造建築は台湾の風土に合わず、神社建築の傷みが進んだこと、また植民地時代の遺物をナショナリズムの場に用いることへの違和感があったことなどである。

台湾省忠烈祠は1967年(民国56年・昭和42年)、政府が「地方忠烈祠」といえども事実上の「中央忠烈祠」であるとの認識を示し、蒋介石の指示もあって改築されることとなった。12月11日に起工して、1969年(民国58年・昭和44年)3月24日に竣工した。日本式の神社の雰囲気は一掃されて、中国宮殿式建築が建てられた。太和殿に似せた建築で、これ以後改築された地方忠烈祠のモデルとなった。竣工の直前の2月5日、「国民革命忠烈祠入祀弁法」が公布され、「国民革命忠烈祠」と改称され、国民革命忠烈祠は「首都忠烈祠」に準ずる「専祠」となり、事実上の「首都忠烈祠」としての役割が与えられた。また同年7月25日、「忠烈祠祀弁法」が公布され、現在の地方忠烈祠管理の基本法となっている。

1972年(民国61年・昭和47年)9月29日、日本政府は、中華人民共和国と日中共同声明を発表し、中華人民共和国と国交を結んだ。これをもって、日本政府と中華民国の国交は断絶した。中華民国では反日感情が高まり、忠烈祠に使われていた神社建築を改築する動きを後押しする結果になったと思われる。

近年の改革

民国87年(1998年)に近代建築のタワーに改築された嘉義市忠烈祠。

民国87年(1998年)4月から民国88年(1999年)12月にかけて、「忠烈祠祀弁法」の大きな改正が行われた。民国87年(1998年)4月8日、忠烈祠祀弁法は修正され、殉職警察、義勇警察、消防、民防、義勇消防人員などの殉難者を祭祀の対象に加えることとなった。きっかけは民国86年(1997年)の白暁燕誘拐殺害事件において警察官が殉職し、警察士気高揚のために発案されたことにあったという。また、大陸中国との緊張緩和により、戦闘による殉職者が減ったことも背景にあったという。戦没者から始まり、公務殉職者まで合祀の対象としていくという発想の広がりは日本と同じものといえる。

民国90年(2001年)12月05日には「国民革命忠烈祠入祀弁法」が廃止され、代わって、「国軍作戦或因公亡故官兵安葬紀念表揚実施弁法」が制定された。また民国92年(2003年)1月21日に「祭祀革命先烈陣亡将士弁法」(民国36年06月21日発布)も廃止された。

この時期、軍人公墓忠霊塔・忠霊祠の制度改革も続けて行われているようだが、調査中である(軍人公墓や忠霊祠についての資料は忠烈祠に比べてさらに少ないようである。軍人公墓や忠霊祠の起源や沿革、忠烈祠との関係・相違については調査中である。)。また民国99年の地方行政区画改革に伴う制度改正についても調査中である。

(以上、歴史の項目は蔡錦堂2003「台湾の忠烈祠と日本の護国神社・靖国神社との比較」、蔡錦堂2008「褒揚及忠烈祠祀栄典制度之研究」、『全国法規資料庫』[1]によるところが大きい。)

制度

忠烈祠関連法令
名称 発布・公布 最終修正・廃止(2011年5月現在)
内政部組織法[2] 民国17年(1928年・昭和3年)03月30日 民国97年(2008年・平成20年)01月02日
褒揚条例[3] 民国20年(1931年・昭和6年)07月11日 民国75年(1986年・昭和61年)11月28日
(廃止)抗敵殉難忠烈官民祠祀及建立紀念坊碑弁法大綱[4] 民国29年(1940年・昭和15年)09月21日 民国58年(1969年・昭和44年)08月08日廃止
(廃止)忠烈祠設立及保管弁法[5] 民国29年(1940年・昭和15年)09月21日 民国58年(1969年・昭和44年)08月08日廃止
(廃止)祭祀革命先烈陣亡将士弁法[6] 民国36年(1947年・昭和22年)06月21日 民国92年(2003年・平成15年)01月21日廃止
(廃止)国民革命忠烈祠入祀弁法[7] 民国58年(1969年・昭和44年)02月05日 民国90年(2001年・平成13年)12月05日廃止
忠烈祠祀弁法[8] 民国58年(1969年・昭和44年)07月25日 民国88年(1999年・平成11年)12月29日
国軍作戦或因公亡故官兵安葬紀念表揚実施弁法[9] 民国90年(2001年・平成13年)10月31日 民国99年(2010年・平成22年)12月22日
国防部後備司令部弁事細則[10] 民国95年(2006年・平成18年)02月15日 民国97年(2008年・平成20年)01月04日
因公亡故替代役役男安葬紀念表揚実施弁法[11] 民国99年(2010年・平成22年)10月20日 なし
参照『全国法規資料庫』[12]
『国家図書館数位多元資源査詢系統』[13]
『政府公報資訊網』[14]

現在、忠烈祠が依拠する基本法令は、「忠烈祠祀弁法」である。これは忠烈祠のほか紀念坊や碑も対象となっている。そのほか、「因公亡故替代役役男安葬紀念表揚実施弁法」、「内政部組織法」、「国防部後備司令部弁事細則」、「褒揚条例」などに規定がある。「忠烈祠祀弁法」は中央政府が管理する忠烈祠一般を対象にした法令だが、特に国民革命忠烈祠が依拠する基本法令として「国軍作戦或因公亡故官兵安葬紀念表揚実施弁法」がある(改正前は「国民革命忠烈祠入祀弁法」がそれに当たる)。

中央政府が管理する忠烈祠は、首都忠烈祠、専祠、地方忠烈祠の三種類に分類されている。法令には明確な規定がないが、首都忠烈祠と専祠以外の全ての官立の忠烈祠が地方忠烈祠であるわけではなく、地方政府が独自に管理している忠烈祠もある(もちろん民間の忠烈祠もある)。

首都忠烈祠・専祠

「忠烈祠祀弁法」によると、「中央政府所在地之首都」には「首都忠烈祠」を創建することが定められており、あるいはそれに準ずる「専祠」を建てることができると定められている(「忠烈祠祀弁法」第8条)。しかし、中華民国の「首都」である南京は、現在、中華人民共和国によって実効支配されており、「首都忠烈祠」の創建は困難となっている。よって、「国軍作戦或因公亡故官兵安葬紀念表揚実施弁法」に「中央政府所在地」である台北にある「国民革命忠烈祠」が「専祠」として規定されている(「国軍作戦或因公亡故官兵安葬紀念表揚実施弁法」第22条、改正前は「国民革命忠烈祠入祀弁法」第2条に規定)。この「国民革命忠烈祠」が事実上の「首都忠烈祠」であるといえる。

「忠烈祠祀弁法」には首都忠烈祠は内政部が管理することが定められているが、「専祠」の規定はない(「忠烈祠祀弁法」第10条)。専祠である国民革命忠烈祠は、国防部が管理することが定められている(「国軍作戦或因公亡故官兵安葬紀念表揚実施弁法」第22条。改正前は「国民革命忠烈祠入祀弁法」第3条。)。また経費については、忠烈祠祀弁法に首都忠烈祠および専祠は国庫から支出することが定められている(「忠烈祠祀弁法」第9条)。

忠烈祠一般の管理が内政部および地方政府であるのに対して、国民革命忠烈祠のみ国防部となっている。蔡錦堂2008でも忠烈祠の管理が不統一であることに注目されている。このことは近代日本の戦没者祭祀行政において、一般の神社、地方招魂社(護国神社)、官修墳墓が内務省の管轄であったのに対して、靖国神社のみ陸軍省(および海軍省)の管轄だったことに似ている。


地方忠烈祠

忠烈祠・軍人公墓等建立状況(行政区画別)
政府 種別 忠烈祠 軍人公墓 忠霊塔・忠霊祠
行政院 政府 国民革命忠烈祠 国軍示範公墓
空軍烈士公墓
国軍忠霊殿
国軍台北忠霊塔
国軍彰化忠霊塔
国軍高雄忠霊塔
台北市 院轄市 台北市忠烈祠 台北市軍人公墓
新北市(旧・台北県) 院轄市 新北市忠烈祠(旧・台北県忠烈祠) 新北市軍人忠霊祠(旧・台北県軍人忠霊祠)
台中市 院轄市 台中市忠烈祠
台南市 院轄市 台南市忠烈祠 (南区)(旧・台南市忠烈祠)
高雄市 院轄市 高雄市忠烈祠(旧・高雄市忠烈祠) 高雄市軍人忠霊祠 (鳥松)(旧・高雄市軍人公墓)
桃園市 院轄市 桃園市忠烈祠
台湾省 新竹県 新竹県軍人忠霊祠(旧・新竹市忠霊祠)(市から移管?)
台湾省 苗栗県 苗栗県忠烈祠
台湾省 彰化県 彰化県忠烈祠 彰化県軍人忠霊祠
台湾省 南投県 南投県忠烈祠
台湾省 雲林県 雲林県忠烈祠
台湾省 嘉義県 嘉義県軍人忠霊祠
台湾省 屏東県 屏東県忠烈祠
台湾省 宜蘭県 宜蘭県忠烈祠 宜蘭県軍人忠霊祠
台湾省 花蓮県 花蓮県忠烈祠 花蓮県軍人忠霊祠
台湾省 台東県 台東県忠烈祠 台東県軍人忠霊祠
台湾省 澎湖県 澎湖県忠烈祠 澎湖県軍人忠霊祠
福建省 金門県 (金門県軍人公墓) 金門県軍人公墓
福建省 連江県 (連江県軍人公墓) 連江県軍人公墓
(旧・台湾省 台中県) 県(合併廃止) 豊原忠烈祠(旧・台中県忠烈祠) 台中市軍人忠霊祠
(旧・台湾省 台南県) 県(合併廃止) 台南市忠烈祠 (新化)(旧・台南県忠烈祠) 台南市軍人忠霊祠
(旧・台湾省 高雄県) 県(合併廃止) 高雄市軍人忠霊祠 (燕巣)
台湾省 基隆市 省轄市 基隆市忠烈祠
台湾省 新竹市 省轄市 (旧・新竹市軍人忠霊祠)(県に移管?)
台湾省 嘉義市 省轄市 嘉義市忠烈祠

地方忠烈祠という用語は「褒揚条例」に見える。「忠烈祠祀弁法」には「地方忠烈祠」という用語はないが、第8条に忠烈祠は「直轄市、県(市)政府所在地」に建て、首都忠烈祠や専祠を「中央政府所在地之首都」に建てるとあり、前者が地方忠烈祠だと考えられる。あるいは、第10条に「直轄市忠烈祠」「県(市)忠烈祠」という用語が見えるがこれも地方忠烈祠であると考えられる。「忠烈祠祀弁法」には「地方忠烈祠」という用語はないが、この記事では「忠烈祠祀弁法」の上述のものを「地方忠烈祠」と呼称する(内政部の委託によって行われた蔡錦堂2008の研究でも地方忠烈祠の呼称が使われている)。 「忠烈祠祀弁法」には、地方忠烈祠は地方政府が管理することが定められている(「忠烈祠祀弁法」第10条)。また経費については、地方忠烈祠は地方政府が支出することが定められている(「忠烈祠祀弁法」第9条)。

なお、前述のとおり、地方政府が管理している官立の忠烈祠が全てこの記事でいう地方忠烈祠に当たるわけではなく、中央政府が関与するもののみを差しており、地方政府が独自に管理する忠烈祠や民間の忠烈祠もある。豊原忠烈祠は旧・台中県忠烈祠であったが、台中県と台中市の合併により、地方忠烈祠でなくなったらしい。

現在、忠烈祠がないのは、旧・高雄県(高雄市に合併)、新竹県、新竹市、嘉義県である。新竹県忠烈祠は1946年に創建されたが、桃園県分割により桃園県忠烈祠(現・桃園市忠烈祠)となった。その後、新竹県、および新竹市において建てられることはなかった。新竹県においては県長が提案したこともあったが否決された。新竹県で入祀者がいる場合はもっとも近い桃園県忠烈祠に合祀された。国防部と国防部動員局は1958、59年(民国47、48年)、内政部や台湾省政府に対して、当時忠烈祠のなかった高雄県、南投県、台東県などの県市に忠烈祠を創建するように何度も交渉しており、このとき高雄県は建設する方向で検討していたが、結局実現しなかったという。

印象論に成りかねないが、殿宇や敷地の大きさから規模を分類すると、超大型、大型、中型、小型の4種類に分類できるだろう。超大型は台北市忠烈祠で、殿宇の建坪も敷地の面積も最大である。大型は、台中市忠烈祠と高雄市忠烈祠である。いずれも建坪が1000平方メートルを越えている。中型は新北市忠烈祠、台南市忠烈祠(南区)、桃園市忠烈祠、苗栗県忠烈祠、屏東県忠烈祠、花蓮県忠烈祠、澎湖県忠烈祠、豊原忠烈祠(旧・台中県忠烈祠)、嘉義市忠烈祠である。この中でも特に新北市忠烈祠、花蓮県忠烈祠、澎湖県忠烈祠は敷地や殿宇の整備が充実して、荘厳な様相となっている。なお桃園市忠烈祠と嘉義市忠烈祠は特殊な様式となっている。前者は日本時代の神社建築をそのまま流用しており、後者は近代的なタワーとなっている。その他が小型のものであるが、彰化県忠烈祠、南投県忠烈祠、雲林県忠烈祠、宜蘭県忠烈祠、台東県忠烈祠、台南市忠烈祠(新化)、基隆市忠烈祠がそれである。最少は寺廟から土地を寄付されて建てられた南投県忠烈祠である。

合祀と烈士

忠烈祠に合祀(入祀)されるものの条件は次の表のようになっている。 忠烈祠祀弁法の第2条では、率先して戦い殉職した者、功績を挙げた者、守備に尽力した者、困難に挑んで不治の負傷を負った者、その他忠烈の事績に値する者、また第3条では軍の活動に協力した民間人戦死者が合祀されることが述べられている。注目されるのは、民国87年の改正によって、忠烈祠祀弁法に第2-1条が追加され、軍人以外の殉職者も合祀の対象となったことである。

合祀されている烈士は、中華民国国民だけではない。そのなかには国民でないものも含まれている。国民革命忠烈祠には例えば、1900年(明治33年・光緒26年)の恵州蜂起に孫文に呼応して参加した日本人の山田良政が合祀されており、他にも鄭成功や台湾民主国の丘逢甲、劉永福が合祀されている。また「日本国民」であった霧社事件の「抗日英雄」たちも合祀されている。また当然のことながら反政府軍や中国共産党の戦没者は合祀されていない。これらのことは忠烈祠が靖国神社と同様に政治的な性格が色濃い存在であることを示している。


忠烈祠入祀基準
種別 基準 法令
忠烈祠 殉職官兵:身先士卒衝鋒陥陣者 忠烈祠祀弁法 第2条第1款
忠烈祠 殉職官兵:殺敵致果建立殊勲者 忠烈祠祀弁法 第2条第2款
忠烈祠 殉職官兵:守土尽力忠勇特着者 忠烈祠祀弁法 第2条第3款
忠烈祠 殉職官兵:臨難不屈或臨陣負傷不治者 忠烈祠祀弁法 第2条第4款
忠烈祠 殉職官兵:其他忠烈行為足資矜式者 忠烈祠祀弁法 第2条第5款
忠烈祠 殉職警察 忠烈祠祀弁法 第2-1条
忠烈祠 義勇警察 忠烈祠祀弁法 第2-1条
忠烈祠 民防人員 忠烈祠祀弁法 第2-1条
忠烈祠 消防人員 忠烈祠祀弁法 第2-1条
忠烈祠 義勇消防人員 忠烈祠祀弁法 第2-1条
忠烈祠 其他依法令従事於公務之人員 忠烈祠祀弁法 第2-1条
忠烈祠 有冒険犯難執行職務或其他忠烈事蹟、足資矜式者 忠烈祠祀弁法 第2-1条
忠烈祠 殉難人民:偵獲敵方重要情報者。 忠烈祠祀弁法 第3条第1款
忠烈祠 殉難人民:組織民〓協助軍隊工作或執行軍隊命令者。 忠烈祠祀弁法 第3条第2款
忠烈祠 殉難人民:刺殺敵方酋目者。 忠烈祠祀弁法 第3条第3款
忠烈祠 殉難人民:破壊敵方重要交通路線者。 忠烈祠祀弁法 第3条第4款
忠烈祠 殉難人民:焚毀或破壊敵方工廠倉庫及其他重大軍用物資者。 忠烈祠祀弁法 第3条第5款
忠烈祠 殉難人民:破壊敵方之間〓組織者。 忠烈祠祀弁法 第3条第6款
忠烈祠 殉難人民:被虜不屈者。 忠烈祠祀弁法 第3条第7款
忠烈祠 殉難人民:救護作戦官民者。 忠烈祠祀弁法 第3条第8款
忠烈祠 殉難人民:其他忠貞事蹟、足資矜式者。 忠烈祠祀弁法 第3条第9款
国民革命忠烈祠 亡故官兵:作戦時地、為争取勝利、冒険犯難、功成身死者。 国軍作戰或因公亡故官兵安葬紀念表揚實施弁法 第18条第1款
国民革命忠烈祠 亡故官兵:作戦時地、克尽職責、慷慨成仁者。 国軍作戰或因公亡故官兵安葬紀念表揚實施弁法 第18条第2款
国民革命忠烈祠 亡故官兵:因執行特殊危険任務死亡、経総統明令褒揚者。 国軍作戰或因公亡故官兵安葬紀念表揚實施弁法 第18条第3款
国民革命忠烈祠・地方忠烈祠 致力国民革命大業、対国家民族有特殊貢献者。 褒揚條例 第2条第1款および第5条
国民革命忠烈祠・地方忠烈祠 参預戡乱建国大計、応変有方、臨難不〓、卓着忠勤、具有勲績者。 褒揚條例 第2条第2款および第5条
国民革命忠烈祠・地方忠烈祠 冒険犯難、忠貞不抜、壮烈成仁者。 褒揚條例 第2条第5款および第5条
戦死或因公殞命者 兵役法 第44条第5款

祭典

祭典については、忠烈祠祀弁法において、毎年3月29日と9月3日に「公祭礼節」を行うことが規定されている(「忠烈祠祀弁法」第24条。)(廃止された「祭祀革命先烈陣亡将士弁法」では地方政府は忠烈祠かその他の場所で毎年3月29日(革命先烈及陣亡将士)と9月3日(陣亡将士)に祭典を行うことが規定されていた(「祭祀革命先烈陣亡将士弁法」第2・3条)。)。首都忠烈祠は総統が主祭となり、地方忠烈祠においては各首長が主祭となることが規定されている。


忠烈祠一覧

忠烈祠一覧
忠烈祠名称 種別 管理部署 所在地 神社跡地 入祀烈士数 コメント
0 (なし) 首都忠烈祠 行政院内政部
1 国民革命忠烈祠 専祠 行政院国防部 台北市中山区剣潭山 (指定) 台湾護国神社 39万9158
2 台北市忠烈祠 地方忠烈祠 台北市政府 民政局第三科(宗教礼俗科) 台北市南港区研究院路3段130号 台北市軍人公墓 277
3 新北市忠烈祠(旧・台北県忠烈祠) 地方忠烈祠 新北市政府 民政局宗教礼俗科 新北市淡水区中正路1段6巷31号 無格社 淡水神社 227
4 台中市忠烈祠 地方忠烈祠 台中市政府 民政処礼俗宗教科孔廟忠烈祠聯合管理所 台中市北区力行路260号 国幣小社 台中神社 502
5 台南市忠烈祠 (南区)(旧・台南市忠烈祠) 地方忠烈祠 台南市政府 民政局宗教礼俗課 台南市南区健康路1段1号 官幣中社 台南神社(旧地) 296
6 高雄市忠烈祠(旧・高雄市忠烈祠) 地方忠烈祠 高雄市政府 文化局文獻委員會 高雄市鼓山区忠義路32号 寿山公園側 県社 高雄神社 799
7 桃園市忠烈祠 地方忠烈祠 桃園市政府 文化局、民政処孔廟忠烈祠聯合管理所? 桃園市桃園区成功路3段200号 県社 桃園神社 265
8 苗栗県忠烈祠 地方忠烈祠 苗栗県苗栗市大同里福星山15鄰1号 福星山公園(〓貍山公園) 県社 苗栗神社 288
9 彰化県忠烈祠 地方忠烈祠 彰化県政府 民政局、文化局 彰化県彰化市南郭段南郭小段 93
10 南投県忠烈祠 地方忠烈祠 南投県政府 民政局宗教礼俗課 南投県南投市彰南路3段1929号 碧山巌寺隣接地 63
11 雲林県忠烈祠 地方忠烈祠 雲林県政府 民政局宗教礼俗課 雲林県斗六市岩山路25号 39
12 屏東県忠烈祠 地方忠烈祠 屏東県政府 民政局宗教礼俗課 屏東県屏東市自由路16号 県社 阿〓神社(旧地) 160
13 宜蘭県忠烈祠 地方忠烈祠 宜蘭県政府 民政局宗教礼俗科 宜蘭県員山郷員山段442号 員山公園 県社 宜蘭神社 32
14 花蓮県忠烈祠 地方忠烈祠 花蓮県政府 民政局宗教礼俗課 花蓮県花蓮市復興新村81号 県社 花蓮港神社 362
15 台東県忠烈祠 地方忠烈祠 台東県政府 民政局宗教礼俗課 台東県台東市鯉魚山麓 県社 台東神社 32
16 澎湖県忠烈祠 地方忠烈祠 澎湖県馬公市新生路219号 県社 澎湖神社 298
17 金門県軍人公墓(地方忠烈祠) 金門県政府 殯葬管理所 金門県金寧郷東洲68
18 連江県軍人公墓(地方忠烈祠) 連江県政府 民政局戸役政課 連江県南竿郷介壽村76号
19 豊原忠烈祠(旧・台中県忠烈祠) 地方忠烈祠 台中県政府 民政局宗教礼俗課 台中市豊原区水源路坪頂巷23-5号 81
20 台南市忠烈祠 (新化)(旧・台南県忠烈祠) 地方忠烈祠 台南県政府 民政局宗教礼俗課 台南市新化区 郷社 新営神社(旧地) 292
21 基隆市忠烈祠 地方忠烈祠 基隆市政府 民政処宗教礼儀科 基隆市信二路278号 中正公園 県社 基隆神社 123
22 嘉義市忠烈祠 地方忠烈祠 嘉義市政府 民政局宗教礼俗課 嘉義市公園街46号 嘉義公園 国幣小社 嘉義神社 94
  • 中央政府が管理する忠烈祠の一覧である。
  • 地方忠烈祠は、国防部ウェブサイト「祠祀葬〓」によると、18箇所が挙げられている(2011/05/01閲覧)。しかし、2011年1月の内政部資料「忠烈祠祀概況」によれば、19箇所が挙げられている。比較すると、台中県忠烈祠がウェブサイトには欠けている。これは台中県の台中市への合併によって廃止になったと推定される。蔡錦堂2008年「褒揚及忠烈祠祀栄典制度之研究」によると、地方忠烈祠は、新竹県・嘉義県・高雄県(当時)・新竹市の4県市を除くほかの各県市に存在すると述べ、また金門県・連江県のものはそれぞれ「軍人公墓忠烈祠」「忠霊祠」と称しており、「忠烈祠」であるかどうかは疑いがあるが、仮に忠烈祠としておくとある。これに従って地方忠烈祠は21箇所を挙げた。
  • 社格および神社跡地、管理部署については蔡錦堂2008年「褒揚及忠烈祠祀栄典制度之研究」に基づく。社格の県社以上は他の資料でも確認済み。しかし、神社跡地の流用について、郷社員林神社⇒彰化県忠烈祠、無格社斗六神社⇒雲林県忠烈祠は他の資料では確認できなかったため、このリストでは除外した。
  • 「入祀烈士数」は、2011年1月の内政部資料「忠烈祠祀概況」に基づく。人数は2010年の時点のデータである。
  • 旧・高雄県(高雄市に合併)、新竹県、新竹市、嘉義県には忠烈祠は創建されていない。

大陸

ギャラリ

参考文献

  • 蔡栄任 2001『一種傅科権力技術的歴史性建構―従台湾日治時期神社到戦後忠烈祠』[15]
  • 蔡錦堂 2000「忠烈祠研究」[16]
  • 蔡錦堂 2003「台湾の忠烈祠と日本の護国神社・靖国神社との比較」『台湾の近代と日本』中京大学社会科学研究所[17]
  • 蔡錦堂 2008「褒揚及忠烈祠祀栄典制度之研究」[18]
  • 原田敬一 2003「戦後アジアの軍用墓地と追悼―台湾の場合―」『文学部論集』87[19]
  • (未見)張世瑛 2010「國民政府對抗戰忠烈事蹟的調査與紀念」[20]
  • 中華民国内政部 2011年1月「忠烈祠祀概況」[21]
  • ウェブサイト 国防部『祠祀葬〓』[22](2011年(平成23年)5月1日閲覧)
  • 『全国法規資料庫』[23]
  • 『国家図書館数位多元資源査詢系統』[24]
  • 『政府公報資訊網』[25]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BF%A0%E7%83%88%E7%A5%A0」より作成

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