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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

愛染寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年8月20日 (火)

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開山 天阿上人墓

愛染寺(あいぜんじ)は山城国紀伊郡(京都府京都市伏見区深草藪之内町)にあった真言宗寺院。本尊は愛染明王伏見稲荷大社の本願所だった。泉涌寺末。廃絶。 (参考:同名寺院愛染院

歴史

1468年3月の戦火で伏見稲荷大社の社殿が焼失。1499年に現在の本殿が再建された。 この復興を担ったのが「十穀聖」と呼ばれる僧侶だった。応仁の乱以前にも「十穀坊」「十石坊」の名が見える。各地を勧進して浄財を集め、稲荷信仰を広めた。 やがて寺院として体裁を整えるようになり、1655年5月に建てられた愛染堂が本堂となった。ほかに聖天堂があった。 愛染寺の名前の初出は1633年であるという。天阿日雄(1599-1674、慶宝寺近江・神照寺)の時代に当たる。

伏見稲荷大社の社家と対立しながらも、愛染寺配下の僧侶は御師として活動し荼枳尼天弁財天歓喜天を三大和合尊として喧伝した。 祈祷、配札だけでなく各地への稲荷社の勧請も行った。 社家は分社への「正一位」授与は一子相伝の修法であり門外不出であると主張していたが、愛染寺でも「正一位」を出していた。 文化年間には社家が愛染寺の稲荷勧請の停止を幕府に訴えたが、認められなかった。

寺院とはいうものの仏堂は敷地の片隅にあるだけであり、大きな書院、客殿が敷地の中央に建っていた。 書院、客殿は徳川家茂や一橋慶喜が何度か休息に使った。 (『伏見稲荷大社御鎮座千三百年史』)

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