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摂津・南宮神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年1月14日 (土)
南宮神社(なんぐう・じんじゃ)は兵庫県西宮市社家町にある神社。西宮神社境内にあるが、西宮神社の管轄下になく、広田神社の境外摂社である。現在の祭神は「豊玉姫神・市杵島姫神・大山咋神・葉山姫神」(広田神社ウェブサイト)だが、南宮神社という名称から諏訪神を祀る説もある。北向きに鎮座するのは広田神社のほうを向くためという。広田神社の神宝「剣珠」を元は南宮神社に伝来した。南宮、浜南宮とも。広田神社や西宮神社と同じく「西宮」と呼ばれた時代もあったらしい。広田神社関連旧跡、西宮神社関連旧跡。
目次 |
歴史
神祇官との関係
創始は不詳。現在は埋立が進んで海岸線から離れたが、元々は浜辺に近く、周辺一帯を御前浜(おまえのはま)といった。「御前」とは広田神社の神前という意味である。 『長秋記』1119年9月5日条には源師時は広田神社奉幣の後、西宮神社に奉幣して南宮で里神楽を観ている。この記述からこの頃には西宮神社と南宮神社が近くにあったことが分かる。 平安時代末、広田神社や西宮神社と共に神祇官長官(神祇伯)が新任した時に巡拝する神社の一つとなっていた。1224年に神祇伯資宗王が巡拝した記録がある。 『日本歴史地名大系』では南宮神社の成立の目的として、海辺に別宮を置くことによる海上支配権の掌握を挙げる。
諏訪信仰との関係
祭神については諏訪信仰との関係を窺わせる記述が多い。諏訪神が「諏訪南宮法性上下大明神」と呼ばれたように南宮という名は諏訪神を示す呼称の一つである。しかし先に南宮という名称が成立し、そこから諏訪信仰に結び付けられていった可能性を考えたい。上記の『長秋記』1119年条では「南宮」の呼称がある。1132年の宣旨案には広田神社は「北南両社」から構成され、山麓と海辺に社殿があったと記す。このことから南宮という呼称は広田神社本社との位置関係で生じたと推測できる。『仲資王記』1213年8月4日条には「広田社南宮修理、昨日造始仮殿之間、三社殿内奉遷」とあるが、古代の神社建築は1座1殿が原則だったので、この頃の祭神は3座と推測される。しかし諏訪信仰の神社が3座で祀られる例というのはあまり聞かない。 『仲資王記』1204年11月17日条に暴風で大破した広田神社本宮五社を修復した記事があり、五社とは「八幡・住吉・広田・南宮・八祖」とする。広田神社本社に南宮神社も並んで祀られていることが分かる。現在もこの形式を踏襲し、「南宮」の位置には諏訪神を祀るが、南宮神社の分霊を祀ったと捉えたい。
諏訪信仰との関連が出てくるのは鎌倉時代以降で、諏訪信仰独自の神事である「御狩神事」が甲山で行われた記録が登場。 1月9日の夜に猪と鹿を1頭ずつ狩り南宮神社に供えたという。1232年の古文書によると、甲山にある神呪寺の妨害のため、神事が延期になったという。 1282年の文書によると、この神事は客神として諏訪神を迎えたことにより始まると記され、南宮神社が諏訪神を祀る認識が形成されていたとみられる。ちなみにこの神事を行う時には村民が門を閉め、出入りを禁止して家に籠ったとあり、十日戎前日の同日に行われている西宮神社の神事「居籠神事」の起源という説もある。 1356年成立の『諏訪大明神絵詞』には「西宮の南宮」のことを記し、本地仏を諏訪神と同じ普賢菩薩だとする。
如意宝珠信仰
広田神社や南宮神社に限ることではないが、中世、如意宝珠信仰の隆盛に乗じて神功皇后が感得した宝珠の存在が語られるようになった。 南宮神社では神功皇后が感得したという剣珠が伝来し信仰を集めた。平安時代末に後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』では「浜の南宮は如意や宝珠の玉を持ち」と歌われ、京都でも知られていた。 1275年8月8日、西大寺叡尊が拝観し(感身学正記)、絶海中津も1382年8月に拝観し、「絶世の奇観」と記している(蕉堅稿)。『実隆公記』1491年2月5日条には前月29日に「西宮剣珠」が「紛失」したとの伝聞を記す。現在は広田神社にあるという。
「南宮」や「浜の南宮」と呼ばれてきたが、上記の『実隆公記』1491年条に「西宮剣珠」とあるのを始め、種々の史料から室町時代には南宮神社が「西宮」と呼ばれていたという(それまでは広田神社や神祇伯が巡拝する諸社を「西宮」と呼んでいたと考えられている)。
西宮神社の独立
鎌倉時代後期には南宮神社周辺が海運・漁業の拠点として発展し市場が立つようになったが、これが商業都市西宮の起源とされる。南宮神社の境内社であった戎神社が市神・招福神として信仰を集めて隆盛。 南宮神社や広田神社を凌ぐ勢いで発展し、戦国時代に西宮神社として独立したと考えられている。