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木曽御嶽信仰の霊神信仰
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2011年10月25日 (火)
木曽御嶽信仰の霊神信仰 |
目次 |
概要
木曽御嶽信仰における霊神信仰について紹介する。霊神(れいじん)とは、過去の行者を神格化した存在である。時代や地域によって異なるし、講社によっても異なるが、その内容や特徴としては次の点が挙げられる。
- 死者の魂は御嶽山に行き、死後も御嶽山で修行している。
- 単なる祖霊、死霊ではなく、畏怖すべき神々の一員である。
- 御座で降りてきて託宣を下し、信者と対話できる。
- 講社や信者を守る存在である。
- 霊神碑を建てて、定期的に参詣する。
- 葬送儀礼や祖先祭祀(仏壇や墓参)からは独立している。
霊神信仰は木曽御嶽信仰の創始のころからあったわけではないらしい。その起源はよく分からない。死者の魂が木曽御嶽山に鎮まるという信仰は、普寛のころからあった。普寛の「亡骸は いずくの里に埋むるとも 心は御嶽の有明の月」という歌はよく知られている。これは辞世の歌とも言われるがそうではなく、生前から好んで書きつけていた歌である。一心や一山がさらに、この「死せば魂は木曽御嶽山に鎮まる」という信仰を喧伝したと言われている。伝承では普寛の葬儀のときに、普寛の霊が泰賢に憑依したといい、これが霊神を降霊する御座の始まりという。
全ての行者に対して、霊神号が贈られるわけではない。基準は講社によって大きく異なるが、霊神となった行者がその講社においては、礼拝尊崇の対象となるのであり、誰でも霊神になれるわけではないという。礼拝の対象となるのは行者のなかでも信者の信頼を受け、優れた能力を持ち、権威ある者に限られるという[1]。霊神と認められることで、御嶽大神(御嶽山座王大権現)を頂点とする木曽御嶽信仰のパンテオンに組み込まれ、神々の一員となるのであった。霊神は死後も木曽御嶽山で修行を続けていると考えられている。修行を積むに連れて、神としての高位に登ることができると考えられている。全ての霊神が御座で降りるとは限らず、一定の段階に至った霊神しか降りないともいわれている。
また行者のヒエラルキーとして開山(覚明・普寛)、講祖、行者の系譜に連なることとなる。霊神は、講社教会の神殿に祀られたり、地元の霊神場や木曽御嶽山の霊神場などに霊神碑が建てられたりして祭祀される。
霊神碑
霊神碑は霊の依代[2]として建立される石碑である。御嶽山の参道沿いや、あるいは各地の木曽御嶽信仰の霊場に建立される。楕円形の扁平な石に「●●霊神」と刻むのが一般的である。
同じ講社の霊神碑は土地利用の関係もあって、一定の箇所に建てられることが多い。多数の霊神碑を建てられるように最初から講社ごとに用地を確保することも多い。このような霊神碑が集まって建てられている場のことを霊神場(れいじんば)と呼ぶ。霊神場では、御嶽三神の碑を上部に据え、続いて覚明・普寛や講祖の碑を置き、その下にその他の碑を並べていくような配列が多い。
現在では、業者が入り、各講社に霊神場用の用地を斡旋していることもある。霊神場が集中している地域として、木曽御嶽山の参道があり、各地の木曽御嶽信仰の霊山にも設けられることがある。
昭和60年代において、御嶽山の三岳村区域で約15000基の霊神碑が確認されている[3]。そのうち14000基近くは護摩堂原霊神場に集中している。ただし、戦時中の金属供出で供出された銅像・銅碑類も多いという。
木曽御嶽山のほかでは岩崎御嶽山には4500基超の霊神碑があることが知られている[4]。これは木曽御嶽山外で最大の霊神場とされる。また八海山には約570基の霊神碑がある[5]。
一般に、お墓参りをするときに交流も何もない他家のお墓にはほとんど関心を置かず、背景としてしか認識していないように思えるのと同じように、自身の所属する講社以外の霊神碑にはあまり関心を寄せないようである。
霊神碑の歴史
番号 | 場所・霊神 | 建立年 | 概要 |
---|---|---|---|
1 | 大泉寺の覚明碑 | 1838年(天保9年) | 覚明最古。 |
2 | 赤岩巣の覚明碑 | 1859年(安政6年) | 山内で覚明最古。 |
3 | 木曽町川西の覚明碑 | 1843年(天保14年) | 「神霊」号最古。 |
4 | 小日和田峠頂上の覚明像 | 1845年(弘化2年) | 「霊神」号最古。 |
5 | 王滝里宮の普寛碑 | 1845年(弘化2年) | 普寛最古。 |
6 | 護摩堂原の亀翁霊神 | 1846年(弘化3年) | 現在の形態の最古。 山内黒沢口最古。 覚明普寛以外で最古。 |
覚明の名が刻まれた最古の碑は大泉寺にある1838年(天保9年)のものである。これを皮切りにいくつか行者の碑が建てられていく。それは右表の通りである。しかし、江戸時代には、石碑石像の建立は覚明普寛や講祖に限られていた[6]。それが、富士信仰や各地の霊山で見られる登山記念碑や、大峰山で立てられる碑伝(ひで)などの影響も受けて、建碑の習慣が持ち込まれ、ついで各行者を祀る石碑が立てられるようになったらしい[7]。
先駆者への追慕の習慣は仏教において伝統的になされてきたし、建碑の習慣も取り立てて珍しいものでもない。しかし、ここまで大量の石碑を建立させることは従来の信仰ではなかった。この動機はなんだろうか。現在でこそ、祖霊社に合祀されることがあるものの、霊神碑は基本的に具体的個別的個人一人のために建てられる。漠然とした先駆者全般というイメージではない。一人一人への追慕尊崇の念が非常に強かったのであり、きっとそれは御座によって培われたのではないだろうか。
霊神には「●●霊神」という神号が贈られる。これは吉田神道や垂加神道で人物を神として祀るときに用いられきた称号であった[8]。霊神号を扁平石に刻んだ初例は関東を中心とした巴講である。巴講はもともと御嶽講ではなく、復古神道を学んだ中里允修が、天心術という独自の教えを広めるための組織であった。中里允修は死後、石碑を建てられ、亀翁霊神として祀られた。これが霊神碑の初例とされる[9]。
1855年(安政2年)に、王滝の庄屋が王滝登山道の奉納物調査を行なっているがこのときのリストには覚明普寛および一心の碑が確認できるが、霊神碑と思われるものはない[10]。黒沢口には亀翁霊神碑がすでに建てられていたがそのほかについては不詳であるものの、それほど多くはないだろう。この時点では霊神碑の建立は定着していなかったものと思われる。
「霊神」号を刻む石碑が一般化するのは明治7,8年ころからと言われている[11]。これは御嶽講が教派神道各派に所属し始めた時期であり、霊神碑建立自体の増加も同じ時期からであるという[12]。それまでは行者とか菩薩とか仏教風の称号が用いられていた。これが神仏分離を経て、神道風の用語を用いるようになったものと考えられている。
霊神碑の形態
形態は様々である。石碑が最も多いが、石碑の形もバリエーションに富む。祀られるのは一名が基本だが、二名の場合、三名の場合などもある。さらには数十名を列記したものもある。
楕円形の扁平石が最も多い。自然石を用いたものや御影石を加工したものが用いられる。一般的な霊神碑で1基40万円から50万円という。ほかに墓石のような角柱を建てるものもある。特殊なものとしては、神鏡型のものや扁平石の正面に像を彫り込んだものがある。
石碑以外にも様々な形態を取るものがある。代表的なのは、石像、銅像だろう。これには立像・座像・胸像などのタイプがあるが、座像が一番多い印象を受ける。ほかに祠の形態を取るものがある。なかに御幣を納めることが多い。また五輪塔の形をしたものもある。さらに特殊なものとしては、碑伝のようなものを建てるものや、磨崖仏のように岩に掘り込んだものもある。形は様々であるが、その用途目的は石碑のものと同様であるのでこれらも霊神碑の範疇と考えて差し支えない。
近年の変化
しかし、近年、霊神観に急激な変化が起きていることが指摘されている[13]。
一概には言えないがあえて一言でいえば、祖先祭祀化であるといえる。行者が生前に自らに霊神号を贈り、予め霊神碑を建立したり、あるいは、行者だけでなく、信者に対して、霊神号を贈り、霊神碑を建てたりしている。後者においては、「●●家霊神」というように家の祖先を祀るようになってきている。あるいは子供の霊を祀った霊神碑の建立も行われてきている。
従来、霊神は畏敬の存在であった。その敷居が下がり、より親しい存在になってきているといえる。
霊神碑には遺骨を納めないものであったが、近年は分骨を納めるもののいるという。この変化は八海山のような木曽御嶽山以外でも広まっている[14]。御嶽教、木曽御嶽本教などの教団では納骨堂の建立も行われている。
無縁墓の場合と同様に、無縁霊神碑の問題も起きている。
系譜
霊神場
祖霊社
名称 | 所在地 | 概要 |
---|---|---|
黒沢御嶽神社 若宮祖霊殿 | 長野県木曽郡木曽町三岳 | 黒沢御嶽神社若宮にある祖霊殿。信者祖先の霊を合祀している。木曽御嶽本教の慰霊大祭が毎年10月23日24日に行われている。 |
黒沢御嶽神社 天昇殿 | 長野県木曽郡木曽町三岳屋敷野2888 | 黒沢御嶽神社の納骨堂。黒沢登山道にある。1975年(昭和50年)10月に建立(境内由緒書き)。 |
木曽御嶽本教 霊碑園 | 長野県木曽郡木曽町三岳 | 木曽御嶽本教の霊神場。木曽御嶽本教創設者武居誠をはじめ、歴代の幹部の霊神碑が祀られている。 |
王滝御嶽神社 里宮霊神社 | 長野県木曽郡王滝村東3315 | 王滝御嶽神社里宮にある祖霊殿。2004年(平成16年)改修(王滝御嶽神社ウェブサイト)。 |
王滝御嶽神社 講祖本社 | 長野県木曽郡王滝村東 | 1890年(明治23年)8月1日より15日まで普寛霊神百年祭を実施。記念碑を建立。のち1920年(大正9年)10月1日、2日に一心霊神百年祭を実施。記念碑を建立。(『御嶽の歴史』283) 1954年(昭和29年)4月、一山霊神百年祭を実施。記念碑を建立(『村誌王滝』1643)。他に王滝里宮の境内社にも講祖本社がある。 |
御嶽教 御嶽山大和本宮 大和光霊殿 | 奈良県奈良市大渕町3775 | 御嶽教の大和本宮にある納骨堂・祖霊殿。御嶽教の歴代管長および教師、信徒が祀られている。3月最終日曜に祭典が行われている(御嶽教ウェブサイト)。 |
御嶽教 木曽大教殿 大霊殿 | 長野県木曽郡木曽町福島新万郡2325 | 御嶽教の木曽大教殿にある祖霊殿。 |
御嶽教 歴代管長霊場 | 長野県木曽郡王滝村 | 御嶽教の歴代管長を祀った霊神場。王滝口三合目と四合目のあいだに位置する。1987年(昭和62年)の建立(教派神道連合会ウェブサイト)。毎年5月17日に御嶽教立教記念祭が行われる。 |
画像
参考文献
- 木曽御嶽信仰#参考文献を参照。