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松山・多賀神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2026年5月23日 (土)

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松山多賀神社-01.jpg

多賀神社は愛媛県松山市新立町にある多賀信仰の神社。祭神は伊邪那岐命伊邪那美命大物主神・大穴牟遅神・宇賀之御魂神(愛媛県神社誌[1]、多賀大社全国分祀社表[2])。かつては教派神道神道大成教傘下の多賀教会多賀大社多賀講社も兼ねていたようだ。近くに金刀比羅宮松山分社がある。

歴史

旧招魂社(愛媛県護国神社)社殿
  • 1628年(寛永5年):松山藩主に移封となった蒲生忠知が、蒲生家の氏神である近江の多賀大社から勧請。伊予国温泉郡藤原村(愛媛県松山市末広町周辺)に祀った(由緒書、末広町史[3])。
  • 1785年(天明5年):社殿焼失し、藤原村内の春日神社(松山市藤原2丁目に移り現存)に一時同座(愛媛県神社誌[4]
  • 1843年(天保14年)10月12日:松尾芭蕉150回忌に際して句碑を建立[5]。「馬をさへながむるゆきのあしたかな」
  • 1876年(明治9年)6月10日:<多賀教会設立。>
  • 1878年(明治11年)7月8日:「高知多賀教会所付属松山多賀教会所」設立を届け出る[6]。高知多賀教会で学んだ芦原伊佐男(北海道旭川神社初代社掌)が1880年(明治13年)に教会を設立したともいう(旭川神社鎮座百年史[7])。この時点での場所は不明。藤原村の多賀神社とは別に設けたのか、継承したのかも不明。
  • 1881年(明治14年)6月:多賀神社、藤原村から松山市湊町4丁目に遷座(愛媛県神社誌[8])。現在の伊予銀行湊町支店の東にあった(末広町史[9])。
  • 1882年(明治15年)5月15日:<神道大成派が独立。11月6日、神道大成教と改称>
  • 1883年(明治16年)12月24日:<多賀教会、神道大成教の所属となる>
  • 1884年(明治17年)5月8日:多賀教会長の訓導芦原速水(芦原伊佐男の甥)が3月8日に請願して新居郡阿島村鳩屋谷137番地に教会所設立を郡長から許可[10]。翌年6月2日愛媛県から教会所建設許可(速水は少講義となっている)[11]
  • 1884年(明治17年)8月11日:<教導職廃止。>
  • 1885年(明治18年)12月:多賀神社、湊町から新立町に遷座(愛媛県神社誌[12])。新立町は「明治以来開けた町で、多賀神社の門前町として栄えた」(愛媛県百科大事典 上[13])。全県から新立多賀神社にお参りが来たようだ。
  • 1887年(明治20年)頃:芦原伊佐男、引退して多賀神社を甥の芦原速水に譲る(旭川神社鎮座百年史[14])。教会長はこれ以前に速水になっている。伊佐男が教会を神社化したともいう。
  • 1888年(明治21年)4月:<教会講社と神社付属講社を分離>
  • 1888年(明治21年)10月:「寄付表」碑建立。「教会担任」として「芦原速水」の名がある。
  • 1889年(明治22年)1月:松山の尊王愛国主義青年が集まり青年講道会を設立し、多賀教会所に事務所を置く[15]
  • 1890年(明治23年)4月:拝殿前の注連柱建立。大成教管長の平山省斎が揮毫。「光華明彩」「修理固成」「神道管長特賜六位平山省斎書」とある。
  • 1890年(明治23年)8月:社標「多賀大神」碑建立。知事の勝間田稔揮毫。勝間田稔の「万代もくちぬぞくるしほととぎすつたなき跡を石に残して」[16](「万代も朽ちぬことなしみづくきのつたなき歌を石に残して」[17][18]
  • 1891年(明治24年)7月15日:<多賀大社、神社付属講社として貴寿講社を設立(のち多賀講社と改称)。従来の多賀教会の職員および会員をそのまま所属させた。多賀教会を廃止する構想だったようだが、実際には並立状態が長らく続き各地で混乱もあったようだ>
  • 1896年(明治29年):「第廿二連隊軍管区招魂社建築義捐募集広告」[19]で、招魂社を「松山市大字新立(多賀教会東の並ひ地)」に建設する計画を記す。発起人に芦原速水や堀弁一郎だけでなく、多賀大社宮司の名前もある。
  • 1897年(明治30年)1月15日:俳句雑誌『ホトトギス』第1号発行[20]。まもなく竣工する招魂社に奉納するための俳句募集の広告を掲載する。申込は「松山市新立多賀教会内招魂社建築事務所」。選者は正岡子規。
  • 1899年(明治32年)4月:手水舎建立
  • 1906年(明治39年)12月:大穴牟遅神社を合祀(愛媛県神社誌[21])。
  • 1907年(明治40年)2月:宇賀神社を合祀(愛媛県神社誌[22])。
  • 1909年(明治42年)7月:高島神社を合祀(愛媛県神社誌[23])。
  • 1912年(大正元年)4月:鳥居建立。「功徳」「至大」。
  • 1913年(大正2年)10月3日:招魂社(愛媛県護国神社)が道後村持田から多賀神社境内に遷座(松山市史料集第13巻[24])。
  • 1923年(大正12年)1月12日:大成教多賀教会愛媛本院の担当教会長が1921年に死亡し、大洲八多喜町の多賀教会長の久保安太郎が後任となったため、大洲八多喜町に愛媛本院を移転(大洲市誌[25])。現在の大成教愛媛多賀教会。
  • 1924年(大正13年):菅利夫、新立多賀神社の分霊を八幡浜の大黒町に祀る[26]。後の石鎚教多賀教会という[27]。後にこれとは別に神道大成教八幡浜多賀教会もできる。
  • 1933年(昭和8年):この年多賀大社発行の 『多賀神社史』に「多賀講社」の現状の一覧として「愛媛本部」「松山市新立町」とあり、八幡浜支部、宇和島出張所、白浦出張所、大洲出張所、大町出張所が付属していたとある[28]。面河村などに多賀講があった[29][30]
  • 1935年(昭和10年)6月15日:松山市久米村間の国道改修工事と新立橋新築工事の竣工式を多賀神社と新立橋現場で行う(松山市史料集第13巻[31])。
  • 1936年1月:愛媛招魂社の造営を決定
  • 1939年(昭和14年)4月1日:愛媛招魂社、内務大臣指定の「愛媛県護国神社」になる。(『靖国神社百年史』)
  • 1939年(昭和14年)10月9日:愛媛県護国神社が多賀神社境内から愛媛県松山市御幸の新しい社殿に遷座
  • 1941年(昭和16年)5月21日:無格社から村社に列格(内務厚生時報6-6[32]
  • 1949年(昭和24年)9月:空襲で焼失した武徳殿に変わり、多賀神社境内の旧招魂社社殿を改修して剣道の稽古場とするために寄付金趣意書を作成(松山市体育史[33])。1952年(昭和27年)まで使われたという(愛媛県体育史[34]
  • 1954年2月:旧招魂社社殿を用いて「さくら幼稚園」を開園。名称は招魂社の神紋に由来するという(幼稚園ウェブサイト)。

画像

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