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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

比蘇寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年9月10日 (日)

比曽寺から転送)
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比蘇寺(ひそでら)は、大和国吉野郡(奈良県吉野郡大淀町)の吉野にあった古代寺院。吉野川右岸(北側)にあり、奈良時代以前はこのあたりが吉野の中心地だったと言われる。聖徳太子建立四十六寺の一つ。役小角旧跡聖宝旧跡叡尊旧跡吉野寺比曽寺檜曽寺比蘇山寺現光寺栗天奉寺とも呼ばれた。大和・世尊寺が後身。

歴史

古代

聖徳太子の創建と伝える。『日本書紀』欽明14年5月条に登場する吉野寺が比曽寺のこととされる。『扶桑略記』推古3年条には「吉野比蘇寺」とあり、栴檀で観音像を作り、祀ったという。日本霊異記には光を放つ阿弥陀像があると記す。 発掘調査でも飛鳥時代の伽藍跡が見つかっている。薬師寺式伽藍に似ているという。

奈良時代には役小角が大峰山を開く前に拠点としたと伝える。天平時代には神叡が隠遁して虚空蔵菩薩の霊感を得たといい、晩年の道センが滞在して『梵網経』の注釈を著す。

平安時代には聖宝が入り、地蔵像、弥勒像を造立して祀ったという。 清和上皇行幸(三代実録)。宇多上皇行幸(扶桑略記)。 藤原道長も長保6年(1004)6月などに参拝している。

中世

金峰山寺別当の春豪が弘安2年(1279)に復興。 さらに西大寺中興の叡尊が滞在し、以後、西大寺末となる。 南北朝時代には後醍醐天皇が行幸して、文観に秘法させている。 三条西実隆は日記に塔2基が向かい合い、楼門があったと記す。 縁起では当時、金堂、講堂、食堂、東塔西塔、東室西室、仁王門、中門、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、東院西院、伝燈堂、安居院、温室院、百済院があった。

室町時代再建の東塔は文禄3年(1594)9月、豊臣秀吉京都伏見に移築(慶長2年とも)。さらに慶長5年(1600)、徳川家康園城寺に移して現存する(園城寺ウェブサイト)。 江戸時代中期、曹洞宗の朴導秀拙が比曽寺を復興して大和・世尊寺と称した。 現在も古代の礎石や古瓦が残る。

東京麻布の浄土真宗光照寺は比蘇寺が三河を経て江戸時代に移った由緒を伝えるが不詳(日本歴史地名大系)。

(日本歴史地名大系、国史大辞典)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%AF%94%E8%98%87%E5%AF%BA」より作成

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