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浄土宗の檀林寺院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年3月12日 (土)
目次 |
概要
浄土宗の檀林寺院。江戸時代、浄土宗僧侶になるには、いずれかの檀林で修行する必要があった。西山派の一部では現在も寺格として残る。 浄土宗の本山寺院も参照。
歴史
白旗派
- 1245年(寛元3年):鎌倉光明寺
- 1252年(建長4年):鴻巣勝願寺創建。
- 1358年(正平13年/延文3年):瓜連常福寺創建。まもなく聖冏が談議所を開く。
- 室町時代初期:観誉、鎌倉光明寺に学寮を開く。
- 1393年(明徳4年):増上寺創建。
- 1414年(応永21年):飯沼弘経寺創建。
- 1481年(文明13年):小金東漸寺創建。
- 1553年(天文22年):生実大巌寺創建。戦国時代における関東浄土宗の中心道場となる。
- 1558年(永禄1年):川越蓮馨寺創建。
- 1585年(天正13年):滝山大善寺創建。
- 1587年(天正15年):岩付浄国寺創建。
- 1591年(天正19年):江戸崎大念寺創建。
- 1591年(天正19年):館林善導寺創建。
- 1593年(文禄2年)2月頃:念仏三毒不滅安心問答が勃発。念仏で煩悩罪障が滅するかどうかが論争となる。
- 1595年(文禄4年):結城弘経寺創建。
- 1597年(慶長2年)7月以前:念仏三毒不滅安心問答に決着。不滅論は禁止される。
- 1597年(慶長2年)9月25日:知恩院から関東檀林へ関東浄土宗法度。光明寺を関東浄土宗の首位とする。
- 1597年(慶長2年):この頃、檀林として機能していたことが確実なのは光明寺、増上寺、蓮馨寺、浄国寺、飯沼弘経寺、大巌寺の6寺で、勝願寺、東漸寺、常福寺も檀林の役割があったと推定され、合計9寺となる。
- 1601年(慶長6年):本所霊山寺創建。
- 1604年(慶長9年):下谷幡随院創建。
- 1611年(慶長16年):新田大光院創建。
- 1612年(慶長17年):霊山寺、檀林と正式に認められる。実際にはこれ以前から機能していたとみられる。
- 1615年(元和1年)7月:幕府、浄土宗諸法度を知恩院、増上寺、伝通院の3寺宛に下す。この時までに光明寺に変わって増上寺が関東浄土宗の中心的寺院となる。
- 1615年(元和1年):この頃の檀林は、伝通院、霊山寺、大念寺、大光院、善導寺、大善寺、幡随院の7カ寺が加わり、16寺になっていたと推定される。
- 1616年(元和2年):小石川伝通院創建。
- 1624年(寛永1年):深川霊巌寺創建。関東十八檀林の成立はこれ以後のこと。
- 1626年(寛永3年):霊山寺、住職若年のため檀林停止。
- 1627年(寛永4年):この頃には増上寺が関東の檀林の筆頭になっていたと推定される(『東武実録』)。
- 1632年(寛永9年):増上寺、所化入寺掟
- 1671年(寛文11年)1月12日:「関東諸檀林掟書」に名越派檀林2寺と白旗派檀林17寺の署名がある(霊山寺は檀林を停止されていた。)
- 1675年(延宝3年)閏4月11日:幕府、檀林住職の選出方法を定める。紫衣檀林と黄衣(香衣)檀林が区別されていた。
- 1685年(貞享2年):霊山寺、檀林に再指定。関東十八檀林が揃う。
- 1685年(貞享2年)11月:幕府、檀林会議を定め、事実上の浄土宗の最高宗政機関となる。関東十八檀林制度が完成するのはこの時と考えられている。江戸檀林と田舎檀林の区別が定められる。江戸檀林の所化の定員を増上寺70人、伝通院50人、霊巌寺、幡随院、霊山寺は各30人に制限。入寮日を毎年1月11日とした。また田舎檀林は周辺の知恩院末寺や増上寺末寺を管轄するように定められる。
- 1867年(慶応3年)5月:常福寺から天徳寺に檀林号を移す(「浄土宗寺院調書」)。
- 1873年(明治6年)6月:大念寺から本誓寺に檀林号を移す(「浄土宗寺院調書」)。
- 1876年(明治9年)8月29日:下関酉谷寺、准檀林(浄土宗近代百年史年表)。
- 1880年(明治13年)2月5日:下関酉谷寺、准檀林を返上(浄土宗近代百年史年表)。
- 1889年(明治22年)2月3日:神奈川県泉谷寺から浄土宗佐太派佐太・来迎寺に檀林号を移し、派名を取り消す(「浄土宗寺院調書」)
- 1893年(明治26年):長崎浄音寺、茨城県の「浄福寺」の檀林格を譲り受けたという(日本歴史地名大系)。
(『近世浄土宗教団の足跡』など)
名越派
- 1336年(延元1年/建武3年)以前:如来寺成立
- 1330年(元徳2年):成徳寺創建。
- 1394年(応永1年)頃:円通寺創建
- 1395年(応永2年):専称寺創建。
- 1671年(寛文11年)1月12日:「関東諸檀林掟書」に名越派檀林2寺と白旗派檀林17寺の署名がある(霊山寺は檀林を停止されていた。)
- 1706年(宝永3年)4月:増上寺、両檀林に「名越檀林法度」を制定。
(『近世浄土宗教団の足跡』など)
鎮西派白旗流 檀林
関東十八檀林
知恩院や増上寺の住職になれるエリートコースであることから出世檀林と呼ばれた。紫衣檀林と香衣檀林がある。
名称 | 国郡 | 所在地 | 格式 | コメント | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 増上寺 | 武蔵国荏原郡 | 東京都港区 | 紫衣檀林(三命) | |
2 | 伝通院 | 武蔵国豊島郡 | 東京都文京区 | 紫衣檀林(再命) | |
3 | 霊巌寺 | 下総国葛飾郡 | 東京都江東区 | 香衣檀林 | |
4 | 霊山寺 | 下総国葛飾郡 | 東京都墨田区 | 香衣檀林 | |
5 | 幡随院 | (武蔵国豊島郡) | 東京都小金井市 | 香衣檀林 | |
6 | 大善寺 | 武蔵国多摩郡 | 東京都八王子市 | 香衣檀林 | |
7 | 蓮馨寺 | 武蔵国入間郡 | 埼玉県川越市 | 香衣檀林 | |
8 | 勝願寺 | 武蔵国足立郡 | 埼玉県鴻巣市 | 香衣檀林 | |
9 | 浄国寺 | 武蔵国埼玉郡 | 埼玉県さいたま市岩槻区 | 香衣檀林 | |
10 | 光明寺 | 相模国鎌倉郡 | 神奈川県鎌倉市 | 紫衣檀林(再命) | |
11 | 結城・弘経寺 | 下総国結城郡 | 茨城県結城市 | 香衣檀林 | |
12 | 飯沼・弘経寺 | 下総国岡田郡 | 茨城県常総市 | 紫衣檀林(初命) | |
13 | 常福寺 | 常陸国那珂郡 | 茨城県那珂市 | 紫衣檀林(初命) | 1601年檀林となる(『日本歴史地名大系』)。1708年、向山常福寺に移転。旧地は蓮華院となる。1864年頃に瓜連蓮華院が瓜連常福寺に復帰した。 |
14 | 大念寺 | 常陸国信太郡 | 茨城県稲敷市 | 香衣檀林 | |
15 | 東漸寺 | 下総国葛飾郡 | 千葉県松戸市 | 香衣檀林 | |
16 | 大巌寺 | 下総国千葉郡 | 千葉県千葉市 | 香衣檀林 | |
17 | 大光院 | 上野国太田郡 | 群馬県太田市 | 紫衣檀林(初命) | |
18 | 善導寺 | 上野国邑楽郡 | 群馬県館林市 | 香衣檀林 |
- 順序は暫定。
引込檀林
『仏教大語彙』は引込(ひっこみ)檀林として次の四寺を挙げる。
その他の檀林
- 泉谷寺:神奈川県横浜市。結城弘経寺の檀林格を移した?(『浄土宗典籍研究』)
- 佐太・来迎寺:大阪府守口市。1872年(明治5年)11月、融通念仏宗を改め「浄土宗佐太派」を称すが、12月3日、知恩院の所轄となり、1889年(明治22年)2月3日、神奈川県泉谷寺から檀林号を移し、派名を取り消す(「浄土宗寺院調書」)。
- 本誓寺:東京都江東区。1873年(明治6年)6月大念寺から檀林号を移す(「浄土宗寺院調書」)。
- 大音寺:長崎県長崎市。明治26年、茨城県の「浄福寺」の檀林格を譲り受けたという(日本歴史地名大系)。
- 大蓮寺?:神奈川県小田原市。
- 酉谷寺:山口県下関市南部町。1876年(明治9年)8月29日、准檀林(浄土宗近代百年史年表)。1880年(明治13年)2月5日、准檀林を返上(同書)。
中世の檀林
- 上野・養林寺:日本歴史地名大系
鎮西派名越流 名越檀林
名前 | 国郡 | 所在地 | 現在の宗派 | コメント | |
---|---|---|---|---|---|
円通寺 | 下野国 | 栃木県真岡市 | 浄土宗 | ||
専称寺 | 陸奥国 | 福島県いわき市 | 浄土宗 |
万治4年(1661)名越派の檀林は専称寺と円通寺のみに限られた。
西山派檀林
名前 | 国郡 | 所在地 | 現在の宗派 | コメント | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 正覚寺 | 尾張国愛知郡 | 愛知県名古屋市熱田区 | 西山浄土宗 | |
2 | 曼陀羅寺 | 尾張国葉栗郡 | 愛知県江南市 | 西山浄土宗 | |
3 | 総持寺 | 紀伊国名草郡 | 和歌山県和歌山市 | 西山浄土宗 | 梶取総持寺。 |
4 | 真宗院 | 山城国紀伊郡 | 京都府京都市伏見区深草 | 浄土宗西山深草派 | 円空立信の墓所。浄土律院。 |
5 | 大林寺 | 三河国 | 愛知県岡崎市 | 浄土宗西山深草派 | 三河十二本寺。 |
6 | 法蔵寺 | 三河国額田郡 | 愛知県岡崎市 | 浄土宗西山深草派 | 三河十二本寺。 |
7 | 崇福寺 | 三河国碧海郡 | 愛知県岡崎市 | 浄土宗西山深草派 | 三河十二本寺。 |
暫定リスト。 順序は西山浄土宗⇒浄土宗西山深草派の順で、それぞれ寺院名簿の順序による。 これらは現在も檀林の寺格を有している。
三河十二本寺も参照
- 善慧寺:岐阜県加茂郡八百津町。天下七檀林の随一という(日本歴史地名大系)
- 安養寺:福井県福井市。「檀林小本山」という(日本歴史地名大系)
- 如来寺:兵庫県たつの市。天文12年、光明寺と禅林寺から准檀林を与えられたという(日本歴史地名大系)
- 立政寺:岐阜県岐阜市。天下七檀林の一つという(日本歴史地名大系)
- 祐福寺:愛知県愛知郡東郷町春木屋敷。尾張国愛知郡。浄土宗西山禅林寺派。
資料
古典籍・史料
- 宇高良哲2015『関東浄土宗檀林古文書選』
文献
- 福井忍隆1961「浄土宗西山派会下『黌林定則』について」『印度学仏教学研究』9巻2号[1]
- 中井良宏1967「檀林教育の成立とその発展について―近世〔浄土宗〕寺院教育の一形態」『仏教大学研究紀要』51
- 中井良宏1969「近世浄土宗壇林教育の成立と発展について―近代寺院教育の一形態」『日本の教育史学』12巻[2]
- 玉山成元1968「近世初期における浄土宗宗政―とくに関東を中心として―」『印度学仏教学研究』17巻1号[3]
- 玉山成元1970「近世初期における浄土宗の教育―とくに関東十八檀林の成立を中心に」『日本仏教学会年報』36
- 長谷川匡俊1970「浄土宗檀林における本末関係の一考察―江戸時代中末期生実大巌寺をめぐって」『淑徳大学紀要』4[4]
- 長谷川匡俊1970「浄土宗田舎檀林考―江戸時代後期下総国生実大巌寺の場合」『日本仏教』31[5]
- 長谷川匡俊1971「浄土宗檀林をめぐる民衆教化の諸相―江戸中・後期の田舎檀林の場合」『駿台史学』29
- 長谷川匡俊1972「浄土宗檀林についての覚書―田舎檀林〔常陸・武蔵・下総の四寺〕の史料調査から」『淑徳大学紀要』6
- 長谷川匡俊1974「地方における浄土宗檀林の成立と展開―常陸国江戸崎大念寺の場合」『地方史研究』24-5
- 長谷川匡俊1975「地方における浄土宗檀林の展開―鎌倉光明寺「入寺帳」の分析を通してみたる」『仏教文化研究』21
- 長谷川匡俊2016「江戸中期における川越蓮馨寺檀林の運営管理と教育実施状況」『仏教文化研究』60
- 長谷川匡俊2020『近世浄土宗・時宗檀林史の研究』法藏館
- 宇高良哲1973「浄土宗関東十八檀林制度の確立」『日本仏教』36
- 宇高良哲1976「近世初期の関東浄土宗檀林寺院の一考察―特に生実大巌寺を中心として―」『印度学仏教学研究』24巻2号[6]
- 宇高良哲1998「草創期の浄土宗関東十八檀林を支えた人々―特に近世初期の住職の動向を中心に」『大正大学研究論叢』6
- 宇高良哲2015『近世浄土宗史の研究』青史出版
- 宇高良哲2015『近世浄土宗教団の足跡』浄土宗出版
- 宇高良哲2015「近世初期の檀林小金東漸寺について」『近世浄土宗史の研究』
- 宇高良哲2015「草創期の関東十八檀林を支えた人々」『近世浄土宗史の研究』
- 宇高良哲2015「近世初期の知恩院住職と檀林生実大巌寺の関係について」『近世浄土宗史の研究』
- 宇高良哲2015「檀林伝法の沿革」『近世浄土宗史の研究』
- 宇高良哲2015「名越派檀林の僧侶養成」『近世浄土宗史の研究』
- 斎藤昭俊1977「近世における仏教教育-2-浄土宗檀林」『密教学』13・14
- 桜井敏雄1977「浄土宗・法華宗寺院の檀林について」『近畿大学理工学部研究報告』12
- 桜井敏雄・松岡利郎1977「関東十八檀林常福寺の伽藍について―浄土宗寺院伽藍配置の研究(1)―」『近畿大学理工学部研究報告』12
- 桜井敏雄・松岡利郎1977「関東十八檀林大厳寺の伽藍について―浄土宗寺院伽藍配置の研究(2)―」『近畿大学理工学部研究報告』12
- 桜井敏雄・松岡利郎1977「関東十八檀林大念寺の伽藍について―浄土宗寺院伽藍配置の研究(3)―」『近畿大学理工学部研究報告』12
- 桜井敏雄・松岡利郎1977「関東十八檀林伝通院の伽藍について―浄土宗寺院伽藍配置の研究(4)―」『近畿大学理工学部研究報告』12
- 真野淳成1979「浄土宗関東十八檀林制度の確立」『大正大学浄土学研究室大学院研究紀要』5
- 山田宏昭1980「浄土宗檀林における修学について」『大正大学浄土学研究室大学院研究紀要』6
- 梶井一暁1998「浄土宗関東檀林における修学僧の入寺・修学動向―増上寺『入寺帳』の分析から」『広島大学教育学部紀要第一部教育学』47
- 梶井一暁1999「浄土宗関東檀林の修学僧に関する考察:近世農民の社会移動を視点として」『日本の教育史学』42巻[7]
- 梶井一暁2000「近世後期農民子弟による浄土宗関東檀林修学の特色」『日本宗教文化史研究』4-2
- 粂原恒久2008「関東十八檀林順路記について」『日本仏教教育学研究』16
- 日塔和彦2009「9222浄土宗檀林大巌寺本堂・書院の当初形態考察―その1本堂の当初形態考察」『学術講演梗概集F-2建築歴史・意匠』2009[8](有料)
- 日塔和彦2010「9054浄土宗檀林大巌寺本堂・書院の当初形態考察―その2書院の当初形態考察」『学術講演梗概集F-2建築歴史・意匠』2010[9](有料)
- 石川達也2013「『江戸幕府日記』における浄土宗台命住職記事」『大正大学綜合佛教研究所年報』35[10]
- 石川達也2014「浄土宗檀林の住職交替について」『綜合仏教研究所年報』36[11]
- 石川達也2019「近世における浄土宗寺院の住職交代について―紫衣檀林を中心に」『仏教文化研究』63
- 下田桃子2015「浄土宗檀林寺院の僧侶集団と寺院運営―三縁山増上寺を中心として」『論集きんせい』37
- 小野威人2016「江戸時代以前の下総国飯沼弘経寺に関する一考察―天正・慶長年間(1573~1615年)の動向を含めて」『上越社会研究』31
- 小野威人2018「浄土宗旧檀林寺院における本末組織に関する考察―飯沼弘経寺に残る開山忌関連史料から見えてくるもの」『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』3巻4号[12]
- 青木篤史2020「関東十八檀林における生活規範についての一考察―感誉存貞談義所壁書三十三箇条を中心に―」『仏教文化学会紀要』29号[13]