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浪合神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年3月13日 (木)
浪合神社(なみあい・じんじゃ)は、長野県下伊那郡阿智村にある、尹良親王を祀る霊社。尹良親王墓が隣接する。
歴史
- 1424年(応永31年)8月5日:尹良親王、信濃で世良田政義らと挙兵したが、三河国に向かう途中に波合で戦死したという。波合村の堯王院の位牌では1396年3月24日と伝える[1]。その後、親王の霊を祀ったというがはっきりしない。
- 延宝正徳頃:「行義権現」と呼ばれていた(棟札)。
- 江戸時代中期:この頃、『浪合記』成立か。
- 1744年:この年成立の『伊那郡神社仏閣記』に「尹良親王宮」と記される。
- 1765年:これ以降の棟札に「尹良大権現」
- 1831年:石碑建立計画があがるが実現せず[2]。
- 1872年11月:村社に列格[3]
- 1775年7月2日:富岡鉄斎が浪合村を訪問[4]。12日まで滞在。浪合村の増田平八郎や伍和の原九右衛門(実行教所属)と陵墓公認の運動を開始。
- 1880年6月29日:勅使として侍従西四辻公業が加部厳夫・川瀬清直と共に来訪して調査。増田が松尾多勢子を通じて内務省の品川弥二郎に依頼した結果だという。西四辻は6/27、三留野の行在所で調査の命を受けたという[5]
- 1881年2月14日:治定[6]。1884年とも。
- 1895年11月:500年大祭か
- 1903年10月14日:「勅使参向の碑」建立式典。富岡鉄斎が斎主[7]。碑銘は9月。碑陰に富岡鉄斎の銘文(1900年5月銘)。
- 1902年:守部設置
- 1904年9月:倍塚1-3号決定
- 1905年:冊の建設を開始
- 1907年:「尹良親王神社」と称する。
- 1909年10月:八幡社及び諏訪社を合祀して「浪合神社」と改称。
- 1913年9月:「尹良親王御旧迹」碑建立。富岡鉄斎も関わる
- 1915年:昇格の請願
- 1973年:高松宮、植樹
- 1978年8月6日:富岡鉄斎慰霊祭[8]。
- 1991年8月:慰霊塔(宝篋印塔)建立
(『日本歴史地名大系』ほか)