ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

深草北陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年6月28日 (日)

移動: 案内, 検索
深草北陵

深草北陵は京都府京都市伏見区深草坊町(山城国紀伊郡)にある陵墓。深草法華堂安楽行院法華堂深草十二帝陵ともいう。

深草十二帝陵(国土地理院空中写真より)
深草十二帝陵・嘉祥寺・真宗院(国土地理院空中写真より)

後深草天皇の遺骨を収めるために、法華堂が建立された。付属寺院として安楽行院が創建された。持明院統の天皇がこの法華堂に次々に葬られた。しかし、深草法華堂および安楽行院は、戦国時代の戦乱で荒廃した。 江戸時代になり、1617年(元和3年)、後陽成天皇の葬送の際に深草法華堂が再建された。一間四方の宝形造の小堂であった。1662年(寛文2年)には空心という僧により安楽行院も復興した(同時に安楽行院内に文徳天皇勅願で仁明天皇菩提寺の深草・嘉祥寺を復興したが、嘉祥寺の旧地とは異なるという。)。しかし、法華堂はまもなく荒廃して元禄年間には三度の修復を受けている。 江戸時代における深草法華堂の被葬者の認識については、異同があるようだ。 文久の修陵に際しては、後深草(89・持明院統1)、伏見(92・持明院統2)、後伏見(93・持明院統3)、後光厳(北朝4・持明院統8)、後円融(北朝5)、後小松(100・北朝6)、称光(101)、後土御門(103)、後柏原(104)、後奈良(105)、正親町(106)、後陽成(107)の天皇陵として「深草法華堂」として修復の対象となった。従来の小堂は取り壊されて、同じ場所に三間四方の宝形造柿葺の壮麗な堂宇が造営された。興味深いことに堂宇の前には鳥居が建てられ、祭場と思われる区画が整備されている(堂前に鳥居が書かれた古図があったらしいがこれに依るものか)。 明治以降に鳥居は撤去されて屋根は瓦葺に葺き替えられた。また伏見宮家初代の栄仁親王の墓もこの法華堂に治定された(年代未確認)。1894年(明治27年)に嘉祥寺の境内地を割いて、陵域を整備した(「嘉祥寺由緒」)。1906年(明治39年)3月23日、従来、「深草法華堂」と称してきたが、「深草北陵」と改称する(明治天皇紀)。 安楽行院と嘉祥寺と真宗院(浄土宗。後深草天皇勅願)および深草法華堂の関係については、由緒が混同されているようで、明瞭でない。 後深草天皇の陵墓としては、文久の修陵の際には現在地のほかに、後深草天皇が崩御した伏見殿跡に「後深草帝 御火所」が定められたが、別説に基づき、同地はのちに後崇光太上天皇陵に変更された。(『文久山陵図』224・同所収「山陵考」281-283・京都市「嘉祥寺現地解説板」・嘉祥寺「嘉祥寺由緒」)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B7%B1%E8%8D%89%E5%8C%97%E9%99%B5」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール