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神武天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月5日 (火)

畝傍山東北陵から転送)
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神武天皇陵

奈良県橿原市大久保町にある神武天皇陵墓。延喜式では「畝傍山東北陵」と記され、現在も陵名を「畝傍山東北陵」(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)としている。

目次

歴史

現在の神武天皇陵中心部(国土地理院空中写真より)
現在の神武天皇陵(国土地理院空中写真より)
畝傍山周辺(国土地理院空中写真より)
(国土地理院空中写真より)

古代

『古事記』の神武天皇記には「御陵は畝火山の北の方の白梼の尾の上にあり」(倉野憲司校註『古事記』)とあり、『日本書紀』の神武天皇紀には「明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。」(坂本太郎ほか『日本書紀』)とある。一方が「畝火山の北の方の白梼の尾の上」とし、もう一方が「畝傍山の東北」とするように、その位置については、『古事記』と『日本書紀』の間で、微妙なズレがあった。

天武天皇の時代には神武天皇陵が重要視された。『日本書紀』の天武天皇紀によると、壬申の乱の際に、高市県主であった許梅に、高市の事代主(河俣神社。式内高市御県坐鴨事代主神社)と生霊神(牟佐坐神社)が神懸って、神武天皇陵に馬と兵器を献上せよという託宣が下った。よって大海人皇子(天武天皇)は許梅を神武天皇陵に派遣して馬と兵器を献上したという。これは神武天皇陵に関する確実な記事の初見である。皇位継承戦争のなかで、神武天皇陵の存在がクローズアップされたことは注目に値する。

平安時代の『延喜式』には「在大和国高市郡。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟。」とあり、朝廷によって陵墓を守るための守戸が設置されており、管理が行われていたことが分かる。しかし、ほかの陵墓と同様に、所在が不明になってしまった。

中世

中世には神武天皇の霊を慰めるために、神武天皇陵のそばに国源寺が創建されていた。

縁起によると、平安時代の974年(天延2年)、多武峰寺の検校であった泰善のもとに神武天皇神霊が白髪茅蓑の姿で出現し、国家栄福のために講会を行うように託宣したという。そこで、泰善は毎年3月11日に法華講を行うこととしたという(3月11日は『日本書紀』に示す神武天皇の崩御日である。)。そしてこれを聞いた国司藤原国光は多武峰寺の末寺として方丈堂を建てて観音を祭り、国源寺と称したという(『多武峰略記』)。さらに、越智親家(越智氏の始祖)が神武天皇の託宣を受けて、子の光慧が1187年(文治3年)に国源寺を中興したという(『大和国越智家譜』)。

これらは縁起であり、国源寺の実際の創建年代は不明であるが、1441年(嘉吉1年)には史料に見えることから鎌倉時代には存在していたことが判明している(白井伊佐牟2000)。現在の国源寺の境内からは鎌倉時代の瓦が出土しているという。

近世

研究の進展

江戸時代には神武天皇陵の所在は既に不明となっていた。その中で、神武天皇陵の伝承があったのが、現比定地である神武田(別名ミサンザイ)であった。『南都名所集』(1675年(延宝3年))に載せられた絵図には神武田を拝む旅人の姿が描かれており、「御陵のしるしの石がある」と記述されている。

江戸時代前半の陵墓研究者も神武田を神武天皇陵だと考えた。『前王廟陵記』(1696年(元禄9年))の松下見林や、『諸陵周垣成就記』(1698年(元禄11年))の細井知慎は著書の中で、ともに神武田の荒廃ぶりと、農民による「暴挙」を嘆いている。

しかし、幕府による最初の天皇陵修復事業「元禄の修陵」においては、四条村の塚山(「四条塚山古墳」)(現在の綏靖天皇陵)が神武天皇陵として修復された。これは地元の四条村と小泉堂村が、塚山こそ神武天皇陵であると、修陵を担当していた京都所司代に上申したためであった。一応、神武田も保護のための垣が設置されたらしい。しかしこれ以降、幕府の公式見解としては塚山が神武天皇陵となった。その後の文化の修陵でも塚山が神武天皇陵として修復された。

一方、『古事記』を重要視した本居宣長は、この塚山は『古事記』の記述に合わないと断じ、竹口栄斎の『陵墓志』がいう洞村の御陵山丸山)説を支持した。陵墓研究に大きな功績を残した蒲生君平も『古事記』の記述を重んじて、洞村の御陵山(丸山)説を唱えた。のちに文久の修陵にも関与する平塚瓢斎もこれを支持した。

ところで、のちに述べるように神武天皇即位二千六百年とされる1940年(昭和15年)には、神武天皇陵と橿原神宮の整備が行われたが、その百年前の紀元二千五百年にあたる1840年(天保11年)にも神武天皇陵の整備が計画されていた。それを計画していたのは水戸学による尊皇思想が高まっていた水戸藩である。水戸藩主徳川斉昭は紀元二千五百年に先立ち、1834年(天保5年)に神武天皇陵修復を幕府老中に建白した。これは実現しなかったが、詳細な計画資料が残された。

幕末の政局と文久の修陵

幕末、政局が不安定化するなか、幕府が諸侯に政策を問うと、宇都宮藩は陵墓修復を建白し、幕府はそれを許可した。これによって文久の修陵が始まった。文久の修陵は、尊皇思想の興隆を背景に、それまでの修陵と異なり、政局に関わる重要事項であった。神武天皇陵がかつてなく重要視され、神武天皇陵所在地の確定は、修陵事業の最初の難関であった。

丸山説を支持する研究者が多い中、国学者谷森善臣は地元の伝承を重視して神武田説を支持した。一方、町人出身の研究者北浦定政は文献記録を重視して丸山説を主張した。

この丸山説と神武田説の対立は、最終的には、孝明天皇の勅裁によって解決した。谷森説と北浦説、および谷森による反論が付されて孝明天皇の叡覧に供され、1863年(文久3年)2月17日、孝明天皇が神武田に決定した。谷森による反論のみが付されたのは、実際にはあらかじめ谷森説が採用される手筈になっていたことを示すと考えられている。その後の修陵事業も谷森善臣の全面的な主導によって行われた。 一方、丸山も粗末に扱わないようにという孝明天皇の達しがなされた。

これを受けて神武田を神武天皇陵として同年5月より12月にかけて修復された。 勅裁の翌日、修復開始を奉告する勅使を遣わすため、勅使派遣の日時定の儀が行われ、22日に勅使徳大寺実則が派遣された。24日に勅使が神武天皇陵(神武田)に参向。これは神武天皇陵だけでなく、全陵墓への起工奉告の祭典とされた。これに合わせて、宮中でも孝明天皇の拝礼が実施されたが、これは宮中における神式皇霊祭祀の創始でもあった。 5月12日、修復要綱を幕府が許可し、工事が開始された。修復においては、文久の修陵において、最大の費用、全体の1割が割かれた。修復といっても、田んぼが続くだけの田園地帯に、大規模な垣や堀を全く新造したのが実態であった。ただし、塚本体には基本的に手を付けなかったらしい。11月下旬には修復工事は終了し、12月8日には柳原光愛が勅使として参向、竣工の奉告がなされた(孝明天皇紀)。この奉告は大規模な行列を伴った国家的儀式として行われた。

幕末、朝廷による攘夷祈願が各地の社寺で実施されたが、修復工事開始前の同年3月28日、神武天皇陵にも勅使が参向し、攘夷祈願が行われ、宮中でも天皇による遥拝が行われた。修復工事中の8月13日には大和行幸計画が発表され、天皇による神武天皇陵参拝が意図された。この大和行幸の目的は、将軍による政治を否定し、天皇親征により軍事統率者・政治統率者としての天皇の姿を誇示しようとする政治的パフォーマンスであった。理想的天皇とされる神武天皇の陵墓への参拝はその目的を達成するための重要な要素であったとともに、天皇統治の歴史的正統性を主張する重要な要素であった。神武天皇陵の政治性が伺える一端である。しかし、これは八月十八日の政変で中止になった。

1864年(元治1年)5月11日、神武天皇例祭の決定の奉告のため、野宮定功が奉幣使として参向(孝明天皇紀)。以後、毎年3月8日に勅使を派遣し、11日(神武天皇崩御日)に奉幣することとなった。神武天皇祭の始まりである。修復事業に関連して、近代天皇祭祀の原型が形作られていった。

近代

神武天皇陵

1868年(明治1年)3月11日、愛宕通祐が参向し、戊辰戦争平定を祈願した。 1868年(明治1年)7月、暴雨のため一部崩壊した。芝村藩主織田長易が修復し、翌年1月12日に完了した(明治天皇紀)。 1873年(明治6年)の太陽暦改暦に際しては、神武天皇祭は4月7日と定められ、のち4月3日に変更された。1877年(明治10年)の紀元節には明治天皇が行幸し、親拝を行った。明治憲法が制定された1890年(明治23年)には隣接地に橿原神宮が創建された。1898年(明治31年)、現在のマウンドが築造された。明治30年代以降には畝傍山地域の景観整備が段階的に進められた。周辺の集落移転を行い、植樹を実施して、荘厳な景観が創出された。

紀元二千六百年の1940年(昭和15年)には陵域の整備が行われた。東側にあった参道参入口を変更し、南に参道を伸ばして現在の形となった。参道を延長して、より荘厳にするためであった。

伝承地・考証地

現陵

神武田と呼ばれていた塚は、二つの小さな塚から構成されていた。直径約7メートル、高さ約1メートルのマウンドと、直径約6メートル、高さ約0.6メートルほどのマウンドの二つがあった。このマウンドは中世寺院の跡とも、古墳の残骸とも考えられている。文久の修陵ではこの塚はそのまま残された。これは墳丘損壊を危惧する谷森善臣の主張によるものであった。 しかし、1898年(明治31年)、大規模な造成が行われて、現在のマウンドが築造された。それは直径約40メートル、高さ3メートルの一つのマウンドとなっている。


研究文献

  • 星野良作「神武天皇回顧の研究」『研究史神武天皇』
  • 武田秀章 1996「神武天皇陵修補過程の一考察」『維新期天皇祭祀の研究』
  • 武田秀章 1996「文久・元治期における神武天皇祭の成立」『維新期天皇祭祀の研究』
  • 外池昇「「文久の修陵」における神武天皇陵決定の経緯」
  • 外池昇 2007「神武天皇陵はどこに」『天皇陵論』
  • 外池昇 2009「奥野陣七と神武天皇」『日本常民文化紀要』
  • 山田邦和 2001「天皇陵史料コレクション」、『歴史検証天皇陵』
  • 山田邦和 2001「神武天皇陵」、『歴史検証天皇陵』
  • 山田邦和 2005「「山陵図」図版解説」外池昇編『文久山陵図』
  • 高木博志 1999「畝傍山・神武天皇陵・橿原神宮 三位一体の神武天皇「聖蹟」」『IS』82

画像

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5」より作成

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