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知恩院宮家の祭祀

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年3月25日 (金)

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知恩院宮家は、知恩院門跡を務めた宮家。名目上は住職だったが寺務に関わることは認められなかった。歴代法親王は徳川将軍家の猶子となった。明治になり、華頂宮を称し、華頂侯爵家となる。華頂は知恩院の背後にある華頂山の名に由来する(ただしもともとは華頂の語は青蓮院を意味する)。

目次

歴史

宮門跡設置の理由について元和元年7月の「山門通規」に「知恩院満誉僧正之時、権現様為御意諸宗皆宮門跡云事有之故物気高見へ候間浄土宗茂宮門跡可被立置被仰候得者僧正御諚雖有旨御請候」とある。それまで中世の知恩院は事実上、青蓮院に隷属していた。浄土宗僧侶が香衣許可の綸旨を得るための執奏も青蓮院を通して朝廷に申請する必要があった。そこで知恩院宮を設置し、独立をはかった。直接、朝廷と交渉することが可能になり、同じ宮門跡として青蓮院宮に拮抗する立場となった。将軍の猶子として徳川家の一員となった。 しかし、実権はなく、宗門運営は江戸増上寺が行い、知恩院の運営は、方丈(従来の住職)が行った。正住職は門主であり、方丈は脇住持だったが、門主は脇住持から受戒し弟子となった。初代および2代のときに門主が寺務の実権を握ろうとする試みがなされたが、幕府と増上寺に阻まれ失敗した。『浄土宗全書』に「宮門跡は知恩院正住職にして、また浄土門主なれば一宗の統領首脳に在はせども実際の権力は関東総録所の占有するところなるのみならず知恩院が有する実権実務も元和条目第一条に規定する如く脇住持の掌中にありて唯だ重要なる法会の導師として大殿に出勤し参詣の男女に十念を授与したまふのみ」とある。1045石を領した。

年表

  • 1607年11月27日:知恩院宮を設置。良純法親王、知恩院宮に入室。
  • 1619年9月17日:良純法親王、満誉尊照を戒師として得度。幕府、門跡領として1045石を寄進。
  • 良純法親王、寺務掌握を画策か。
  • 1643年11月11日:良純法親王、素行不良を理由に甲斐に流される。知恩院宮、中絶。
  • 1651年:知恩院宮の復興。尊光法親王、相続が決まり将軍徳川家光の養子となる。
  • 1656年5月8日:尊光法親王得度
  • 1657年6月18日:良純法親王の寺務掌握を防ぐために霊巌の推挙で伏見宮出身の尊空が知恩院方丈に就任したという。
  • 1659年6月27日(22日とも):良純法親王帰洛。
  • 1674年:尊光法親王、知恩院寺務掌握を試み、そのために知鑑は隠居を申請するが増上寺の妨害で失敗。
  • 1736年:増上寺、門跡が「一宗の門主」だと通達。
  • 1813年7月:知恩院、門跡の「宗規蔑視、驕傲の行為」を諌める。
  • 1867年12月:尊秀法親王還俗
  • 1870年:華頂宮博経親王、東京に移住。
  • 1871年:明治政府、門跡を廃止。
  • 1876年5月24日:華頂宮博経親王死去。
  • 1882年(明治15年)6月:知恩院宮邸跡が善光寺大本願の久我誓円に寄進される。
  • 1886年1月11日:内務省、知恩院住職が門跡を称することを許可(華頂誌要)
  • 1894年(明治27年)9月:知恩院宮邸跡に善光寺の京都別院として得浄明院を創建。

歴代

知恩院宮

  • 1良純法親王(1603-1669)<1619-1643>:後陽成天皇の第8皇子。1603年生。幼称は八宮。1607年11月27日、知恩院宮に入室。1614年12月、親王宣下を受け、直輔親王。1615年6月、徳川家康の猶子となる。1619年9月17日、満誉尊照を戒師として得度。1643年11月11日、素行不良を理由に甲斐の天目山に流される。湯谷神社境内に居住したとも。曹洞宗興因寺(山梨県甲府市下積翠寺町)に移る。1655年、真言宗薬王寺(山梨県西八代郡市川三郷町)に移る。1659年6月27日(22日とも)、許されて京に戻り泉涌寺一条殿新善光寺に入る。1664年4月、北野に移住。還俗して以心庵と号した。1669年8月1日死去。67歳。墓所は泉山陵墓地。薬王寺に位牌があるという。1768年8月、100回忌にあたり、本位に復して無礙光院と追諡された。無礙光院宮専蓮社行誉心阿自在良純大和尚。
  • 2尊光法親王(1645-1680)<1651-1680>:後水尾天皇の第10皇子。1645年生。幼称は栄宮。1651年、相続が決まり将軍徳川家光の養子となる。1654年、親王宣下があり、良賢親王。二品となる。1656年5月8日、知恩院勝誉旧応を戒師として得度。1662年から1666年まで江戸に滞在して増上寺で修学する。1680年1月6日死去。36歳。墓所は知恩院宮墓地。1778年、一品を贈位。無量威王院宮大蓮社超誉勝阿神龍尊光大和尚と号す。
  • 3尊統法親王(1696-1711)<1698-1711>:有栖川宮幸仁親王の王子。1696年生。幼称は淳宮、岡宮。1697年、霊元天皇養子。1698年、知恩院宮を相続。1706年、将軍徳川綱吉の養子となる。翌年、親王宣下を受け、良邦親王。知恩院円理を戒師として得度。1709年二品。1710年9月から増上寺で修学。12月帰洛。1711年5月18日死去。16歳。墓所は知恩院宮墓地。1811年、一品を贈位。寿経光院宮源蓮社高誉等阿愍生尊統大和尚と号す。
  • 4尊胤法親王(1715-1739)<1719-1739>:霊元天皇の第18皇子。1715年生。幼称は悦宮。1718年、知恩院宮の相続内定。1719年1月23日相続。1726年、将軍徳川吉宗の猶子。1727年、親王宣下があり栄貞親王。1739年12月26日死去。25歳。墓所は知恩院宮墓地。最勝光院宮慶蓮社深誉見阿真融尊胤大和尚。
  • 5尊峰法親王(1741-1788)<1746-1788>:京極宮(桂宮)家仁親王の第2王子。1741年生。幼称は富貴宮。1746年、知恩院宮を相続し、桜町天皇の養子となる。1748年相続とも。1753年、将軍徳川家重の養子となり、1754年、親王宣下を受け、和義親王と称する。同年、知恩院了風につき出家。1788年7月21日死去。48歳。墓所は知恩院宮墓地。無辺光院宮高蓮社俊誉乗阿斉聖尊峰大和尚。
  • 6尊超法親王(1802-1852)<1805-1852>:有栖川宮織仁親王の第8王子。1802年生。幼称は種宮。1805年、知恩院宮を相続。光格天皇の養子、将軍徳川家斉の猶子となる。1810年、親王宣下があり、福道親王。同年得度。1852年7月7日死去。51歳。墓所は知恩院宮墓地。大光明院宮照蓮社耀誉真阿芬陀梨尊超大和尚。
  • 7尊秀法親王(1851-1876)<1852-1869>:伏見宮邦家親王の第12王子。1851年生。1852年、知恩院宮相続。1856年知恩院に入る。1860年、孝明天皇養子、将軍徳川家茂猶子となり、親王宣下を受け、博経親王と称する。1861年、知恩院72世荘誉浄厳を戒師として得度。翌年法然650年遠忌の導師を勤める。1865年、日光山勅会に参列。江戸に滞在して増上寺で学ぶ。1867年、帰洛。1867年12月で還俗。華頂宮初代となる。1869年、浄土宗宗政と知恩院寺務を名誉学天に委任して知恩院宮の統治は終わる。海軍少将。1876年5月24日死去。26歳。墓地は華頂宮墓地。最蓮社真誉。華頂宮博経親王。

華頂宮

  • 1博経親王(1851-1876)<>:
  • 2博厚親王()<>:
  • 3博恭王()<>
  • 4博忠王()<>:

華頂侯爵家

院家

貴族から出家して仕えた。門主の代行することも。 また功績を上げた個人に授与されたようである。増上寺の院家とは異なるか。

  • 覚了院:大炊御門経孝の子。1667年得度。1733年死去。
  • 常恭敬院:隆円。1822年特賜。
  • 無量覚院:大雲。1867年特賜。
  • 隠誉
  • 瑞相寺
  • 達亮

旧跡

資料

  • 華頂誌要[1]
  • 嵐瑞澂1976「知恩院宮門跡の設置について」『仏教論叢』20
  • 江島孝導1986「知恩院宮門跡御殿の組織ー 第二代尊光法親王時代について」『鷹陵史学』12[2]
  • 大内瑞恵2012博士論文『近世前期朝廷とその周縁の文事ー後陽成天皇八宮良純入道親王を軸として』
  • 2001「配流の親王と甲州ー後陽成天皇八宮良純法親王」[3]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80」より作成

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