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美国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年3月5日 (火)

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美国神社(びくに・じんじゃ)は、兵庫県宍粟市山崎町木ノ谷(播磨国宍粟郡)にある生野の変の殉難者を祀る招魂社大山祇命火迦具土命を祀る山神社に非公式に美玉三平・中島太郎兵衛・黒田与一郎を合祀したものらしい。美玉三平・中島太郎兵衛の殉難の地で、両名の墓碑がある。無格社。正式名称は山神社官軍殉難者奉斎招魂社


祭神

殉難者3柱を合祀した時期は不明。山口護国神社も参照。『兵庫県宍粟郡誌』[1]や兵庫県神社庁ウェブサイトの該当ページには祭神に殉難者は含まれていない[2][3]

  • 大山祇命:
  • 火迦具土命:1909年(明治42年)3月2日に合祀。
  • 美玉三平:鹿児島藩士。本名は高橋親輔。1863年(文久3年)10月14日戦死。贈従四位。山口招魂社官祭祭神。靖国神社合祀。墓所は美国神社(没地)、南林寺由緒墓。鹿児島市の明治維新戊辰之役戦士顕彰碑に名前あり。
  • 中島太郎兵衛重孝:養父郡の大庄屋の家の出身。1863年(文久3年)10月14日自刃。贈従四位。山口招魂社私祭祭神。靖国神社合祀。生家近くに墓。美国神社に墓碑。
  • 黒田与一郎重清:中島太郎兵衛の弟。兄を介錯した後、捕縛された。1866年(慶応2年)12月19日、京都六角獄舎で獄死。山口招魂社私祭祭神。靖国神社合祀。霊山官修墳墓唱義7号。生家近くに墓。

歴史

  • 1863年(文久3年)8月17日:(天忠組挙兵)
  • 1863年(文久3年)8月18日:(八月十八日の政変)
  • 1863年(文久3年)10月12日:生野挙兵。
  • 1863年(文久3年)10月14日:美玉三平・中島太郎兵衛、戦死。
  • 1863年(文久3年)10月18日:二人の遺骸を生野の代官所の牢内に仮埋葬[4]
  • 1864年(元治1年)1月5日:黒田与一郎ら捕縛された参加者、連行され但馬を出発。17日頃に京都に到着。[5]
  • 1864年(元治1年)7月19日:(禁門の変。六角獄舎で混乱に乗じて33人が殺害されるが、黒田与一郎は難を逃れる。[6]
  • 1866年(慶応2年)12月19日:黒田与一郎、六角獄舎で病死。[7]
  • 1888年(明治21年)9月:二人の墓碑建立を計画[8]
  • 1891年(明治24年):墓碑完成[9]
  • 1909年(明治42年)3月2日:火魂神社を合祀[10]

資料

  • 1923『兵庫県宍粟郡誌』[11]
  • 稲田耕一1968『木ノ谷に残る勤王志士美玉・中島両氏の伝記』[12]
  • 1977『山崎町史』「明治を迎える山崎」[13][14]
  • 1985『一宮町史』「世直しへの動きと一宮町」[15][16]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%BE%8E%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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