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聖徳太子信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月17日 (月)

聖徳太子建立七寺から転送)
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叡福寺・扁額.jpeg

聖徳太子(しょうとく・たいし)(574-622?)は、宗派を問わず日本仏教の開祖と位置付けられている推古天皇の皇太子。用明天皇皇子。その忌日法要は、聖霊会太子会などと呼ばれる。本地仏は、観音菩薩。また慧思の生まれ変わりとされる。特に天台宗日蓮宗では『法華経義疏』を著し法華経を広めた人物として、真言宗では空海の前世として、浄土真宗では浄土教を広め親鸞に夢告を降した教主として崇められている。禅宗開祖達磨と出会った伝説や善光寺如来と手紙を交わしたという伝説もある。律宗でも重視され、叡尊は『聖徳太子講式』を作った。舎利信仰とも密接な関係にある。大工の守護神として信仰されるようになる。富士山に最初に登った人物ともされる。

日本書紀は621年死去、法王帝説は622年死去とする


目次

歴史

信仰

御影

  • 唐本御影:天皇御物。紙本。縦約1m。『聖徳太子伝私記』で「唐本御影」と呼ばれる。大江親通が1140年に法隆寺を参拝した時は、夢殿の北の七間亭の東の端の二間を宝蔵と呼び、種々の宝物と共にここに収められていた。「太子の俗形の御影」「唐人の筆跡なり」「不可思議なり。よくよく拝見すべし」と記す(七大寺巡礼私記)。1238年(暦仁1年)の『聖徳太子伝私記』に「唐本御影」という語が初めてみえる。『私記』は寺伝として唐の人が参詣したところ聖徳太子が応現したのでその姿を写し取って2幅の絵像を描き、一つを法隆寺に納め、一つを唐に持ち帰ったとする。ただ注釈として唐の人ではなく百済の阿佐太子が描いたものとする園城寺慶政の説を紹介。慶政は1220年(承久2年)に七間亭を舎利殿として再建し、その後法隆寺東院を整備した人物でもある。この時、唐本御影の表装の交換も行った(1236年(嘉禎2年)頃か)。1238年(暦仁1年)8月11日、将軍九条頼経の所望により唐本御影など法隆寺宝物を京都法性寺に運び、14日まで貴族の邸宅を巡回した。1325年(正中2年)、法隆寺強訴のため鎌倉に「唐本御影」など動座。江戸時代なかばに東院伽藍舎利殿から西院伽藍三経院の西室に移された。1763年(宝暦13年)幽竹が模写。のち東院伽藍の宝蔵殿に移された。1878年(明治11年)2月、法隆寺宝物300点あまりが皇室に献上され、同年5月までに法華経義疏など11点と共に東京に運ばれた(残りの宝物は1883年(明治16年)に皇居に移された)。1964年(昭和39年)、東京国立博物館に法隆寺宝物館が建設され、法隆寺献納宝物のほとんどが移されたが、唐本御影や法華経義疏など7点は御物てして皇室に残された。昭和天皇の崩御後の財産相続で、唐本御影や法華経義疏を含む600点の宝物は宮内庁と内閣法制局と国税庁の協議の結果、皇室経済法に定める「皇位とともにつたわるべき由緒あるもの」と認定された。1887年(明治20年)、今後発行する紙幣の肖像画として聖徳太子が選ばれ、唐本御影を基に大蔵省印刷局技官の磯部忠一が下絵を作成し1930年(昭和5年)から紙幣が発行された。この時、衣服の時代考証には帝室博物館歴史課長の高橋健自が担当し、臨時御歴代史実考査委員の黒板勝美が助言した。1981年(昭和56年)7月、大蔵省は紙幣デザインを変更し聖徳太子の肖像画を止めることを発表した(新しい紙幣は1984年(昭和59年)秋から発行された)。1988年(昭和63年)、法隆寺夢殿で「法隆寺献納宝物110年慶讃法要」が行われ、唐本御影も夢殿に一時奉安された。(『信仰の王権 聖徳太子』)
  • 南無仏太子:二歳像
    • 浄土寺像
    • 香雪美術館像
    • 京都白毫寺像
    • 国源寺像
  • 童子太子:七歳像
  • 孝養太子像:十六歳像
    • 垂髪太子
    • 植髪太子
  • 摂政像:三十五歳、四十二歳、四十九歳像。
    • 水鏡御影:法隆寺蔵。聖徳太子が水鏡を用いて描いた自画像とされる。鎌倉時代。
    • 講讃太子:三十五歳、四十五歳。
    • 楊枝御影:「摂政太子」とも。四天王寺蔵。西本願寺蔵。法隆寺にも同様の像を伝える。
  • 黒駒太子
  • 聖皇曼荼羅:顕真が考案。東大寺戒壇院円照が勧進にあたり、近衛兼経の支援で作成。絵師は堯尊。1254年(建長6年)完成。1255年(建長7年)、上宮王院で証空を導師に開眼した。
  • 二王子像・二童子像:山背大兄王、殖栗皇子
    • 廟崛太子
  • 二僧像:
  • 四臣像:
  • 六臣像:小野妹子、蘇我馬子、日羅、秦河勝、阿佐太子、慧慈
  • 八童子像
  • 裸形像:広隆寺、叡福寺、大聖勝軍寺、斑鳩寺、鶴林寺。
    • 植髪太子:

本地仏

  • 救世観音:四天王寺本尊と法隆寺夢殿本尊が救世観音と呼ばれる。四天王寺では「くせ」、法隆寺では「くぜ」と訓み、「ぐせ」「ぐぜ」とも訓むことがある。平安時代からは如意輪観音と同一視される。

絵図

  • 聖皇曼荼羅:法隆寺に伝わる図。顕真が考案。東大寺戒壇院円照が勧進にあたり、近衛兼経の支援で作成した。絵師は堯尊。1254年(建長6年)完成。1255年(建長7年)、上宮王院で証空を導師に開眼した。江戸時代作の副本や木版「太子前身現身後身曼荼羅」もある。間人皇后・聖徳太子・膳部郎女を阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の化身とする本地垂迹思想を基礎に、太子の前世や太子の生まれ変わり、太子の師や随身、阿弥陀如来二十五菩薩に擬えられる王子王孫「二十五王子」、太子の著書、仏舎利、法隆寺金堂鎮壇、磯長廟などを描く。
聖皇曼荼羅


磯長廟 阿弥陀三尊 金人

勝鬘夫人 空海 白鷹
守鳥 聖武天皇 聖宝
尾張王 三枝王 馬屋女王 財王 三枝末呂古王 磯部女王 甲可王
三島女王 桑田女王 念禅 用明天皇 達磨 近代王 佐々王
佐保女王 舂米女王 膳部郎女 間人皇后 聖徳太子 菅手女王 弓削王
末呂女王 乎末呂王 恵慈 御拳内舎利
四節縁起・十七条憲法・三経義疏
恵思 茨田王 難波王
手島女王 殖栗王


山背大兄王 白髪部王
片岡女王 五徳博士 蘇我馬子 鎮壇 日羅 小野妹子 日置王

秦川勝 迹見赤檮
調子丸 黒駒
  • 講讃図
  • 天寿国繍帳
  • 夢中顕現聖徳太子曼荼羅図:岡崎西照寺所蔵。聖徳太子(孝養)、善導、法然、証空を描く。

絵伝

仮称 指定など 概要
四天王寺絵堂原本 聖霊院絵堂に奈良時代後期には存在していた。聖霊院絵堂は天平勝宝年間(749-757)の建立。
四天王寺障子絵伝 771年(宝亀2年)。敬明らが制作。
法隆寺延久本 国宝 1069年(延久1年)。元来は障子絵。綾本(絹本?)。秦致真(秦致貞)の作。現存最古の聖徳太子絵伝。法隆寺絵殿のために作られた。1786年(天明6年)に屏風5双に仕立てられ、近年、額装10面とされた。50場面あまりを描く。1878年(明治11年)に皇室に献納。戦後、東京国立博物館に移管。法隆寺献納宝物の一つ。「e国宝」[1]。場面解説[2]。ColBase[3]。アートスケープ[4]
四天王寺元仁本 1224年(元仁1年)。四天王寺絵堂。南都絵師の尊智。
法隆寺嘉元本 重要文化財 4面。1305年(嘉元3年)。絹本。上野法橋と但馬房の筆。約70場面。春夏秋冬に分けて描くのが特徴。1878年(明治11年)に皇室に献納。戦後、東京国立博物館に移管。法隆寺献納宝物の一つ。国指定文化財等DB[5]。ColBase[6]
四天王寺元亨本 重要文化財 掛幅6幅。1323年(元亨3年)。700年遠忌の翌年に制作された。南都松南院座の遠江法橋。
上宮寺本 重要文化財 絵巻1巻。1323年(元亨3年)頃。1321年(元亨1年)銘の発願文が補紙にある。紙本。重要場面のみを抽出した14場面を描く。冒頭のみ詞書がある。1「入胎と誕生」、2「2歳・南無仏と唱える」、3「3歳・桃花より青松を愛でる」、4「6歳・百済より経論と僧尼将来」、5「10歳・蝦夷の調伏」、6「16歳・物部守屋との戦い」、7「16歳・六角堂の建立」、8「17歳・百済より仏舎利と工人が到来」、9「19歳・戴冠」、10「22歳・四天王寺の建立」、11「27歳・富士に登る」、12「35歳・勝鬘経講讃」、13「遷化と葬送」、14「諸王子の昇天」。常陸・上宮寺蔵。
徳川家伝来本 絵巻10巻。1324年(正中1年)頃。通常の絵巻の半分程度の大きさ(小絵)。65場面のうち47場面が鎌倉時代の作で、土佐経隆筆と伝えるがはっきりしない。残りの18場面は1710年(宝永7年)に狩野常信が補作したもの。詞書は元々は別本だったとみられている。箱書きによれば1731年(享保16年)徳川吉宗から田安宗武に与えられた。近代には堂本印象が入手所蔵。個人蔵。
妙安寺本 重要文化財 4幅。鎌倉時代。絹本。静嘉堂文庫本に近い。下総三村・妙安寺蔵。
乾坤院本 1幅。鎌倉時代。14世紀。元は9幅前後か。本証寺本に似ており、本証寺本より古い可能性もある。本証寺本第1幅に似ている。水野信元が乾坤院に寄進した。愛知県知多郡東浦町の曹洞宗乾坤院蔵。
メトロポリタン美術館本 2幅。鎌倉時代後期。米ニューヨークのメトロポリタン美術館蔵。
静嘉堂文庫本 重要文化財 4幅。61場面。真宗高田派満性寺旧蔵だが真宗系の太子絵伝ではない。静嘉堂文庫蔵。国指定文化財等DB[7]。DNPイメージアーカイブス[8]
ボストン美術館本 5幅。1,2,5,6,9幅。本証寺本に似ている。住吉家伝来。フェノロサが住吉広賢から購入。伝藤原隆信筆。香雪美術館本と合わせて9幅とみられるが1幅は所在不明。
香雪美術館本 3幅。鎌倉~南北朝時代。絹本。第3,7,9幅。ボストン美術館本と一具とみられる。第9幅の表装に焼損がある。18世紀末にはボストン美術館本と別に伝来するようになったと考えられている。1911年(明治44年)以前に朝日新聞創業者村山龍平が入手。近年、香雪美術館に寄贈された。
大蔵寺本 2幅。鎌倉時代後期~南北朝時代。大和・大蔵寺蔵。[9]
本証寺本 重要文化財 9幅。鎌倉~南北朝時代。14世紀。絹本。121場面を描く。10幅とされるが1幅は善光寺如来絵伝の1幅が混入したもの。四天王寺周辺で制作されたとみられている。本証寺蔵。安城市文化財図録[10]
飯田太子堂伝来本 飯田市指定 5幅。鎌倉時代末期~南北朝時代(14世紀)。長野県飯田市宮ノ上の飯田太子堂伝来。1993年(平成5年)飯田市美術博物館に寄贈。第6幅目を失ったとみられる。摩耗が激しい。静嘉堂本に類似。[11][12]
根津美術館本 南北朝時代。14世紀。根津美術館蔵。
観音正寺伝来本 14世紀。観音正寺の旧蔵。東京国立博物館寄託。
光照寺本 広島県指定 4幅。16場面。1338年(延元3年/暦応1年)。明尊の発願で隆円が親鸞聖人絵伝や法然上人絵伝と共に制作。備後・光照寺蔵。龍谷ミュージアム寄託。
鶴林寺八幅本 重要文化財 8幅。南北朝時代。1450年(宝徳2年)2月修復。絹本。鶴林寺蔵。2002年(平成14年)盗難。2003年(平成15年)返還。
称名寺本 福井県指定 6幅。南北朝時代。福井県坂井市三国町黒目の真宗高田派南称名寺蔵。
住吉家伝来本 3幅。南北朝時代。14世紀。絹本。元は8幅と推定。土佐行光筆と伝承される。川合玉堂旧蔵。東京国立博物館蔵。[13]
叡福寺本 8幅。南北朝時代。叡福寺蔵。第8幅は天保年間の補作。[14]
断簡群 南北朝時代。14世紀。徳川家伝来本の模写。香雪美術館蔵の1巻は4図を収録。松山久松家旧蔵本があったことが知られており、12図を収録していたが、昭和頃に切断され、東京国立博物館に2点[15][16]、東京黎明アートルームに1点、独ランゲン美術館に1点が所蔵されている(その他にも存在する可能性もある)。またこれらとは別に米ワシントンのフーリア美術館に3点の断簡が所蔵されている。
断簡善重寺本 水戸市指定 1幅。絹本。南北朝時代。善重寺蔵。[17]
断簡ハーバード大学美術館本 徳川家伝来本の模写。断簡。米ボストンのハーバード大学美術館所蔵。
願船寺本 茨城県指定 1幅。室町時代前半。浄土真宗で普及した略絵伝。願船寺蔵。
鶴林寺三幅本 加古川市指定 3幅。室町時代。鶴林寺蔵。
帖装聖徳太子絵伝 1帖。室町時代。15世紀。徳川家伝来本の模写。40紙32場面(29図とも)の断簡集。土佐光信筆と伝承。1691年(元禄4年)、青木重正が四天王寺に奉納した。四天王寺蔵。
杭全神社本 10幅。全興寺発願。杭全神社蔵。
妙源寺伝来本 掛幅3幅。室町時代。14~15世紀。絹本。妙源寺旧蔵。奈良国立博物館収蔵品DB[18]
勝鬘皇寺本 岡崎市指定 4幅。室町時代。勝鬘皇寺蔵。岡崎市美術博物館寄託。
妙源寺本 岡崎市指定 3幅。室町時代。妙源寺蔵。
正雲寺本 小松市指定 室町時代後期のA本と室町時代前記のB本。江戸浅草の真宗報恩寺からもたらされたという。正雲寺蔵。
本誓寺 白山市指定 5幅。元は10幅か。法然や親鸞のことも載せる。加賀・本誓寺蔵。[19]
万徳寺 瀬戸市指定 4幅。静嘉堂本の模写とみられる。1464年(寛正5年)に寄進。1,4は当初のもの、2,3は江戸時代後期の補作。瀬戸市の万徳寺蔵。[20]
大聖勝軍寺本 八尾市指定 大聖勝軍寺蔵。
中野太子堂本 高島市指定 4幅。室町時代。滋賀県高島市安曇川町中野区の中野太子堂に伝来。龍谷ミュージアム保管。
津市上宮寺本 津市指定 6巻。室町時代。津市上宮寺蔵。
談山神社本 奈良県指定 4幅。15世紀。談山神社所蔵。多武峯本。奈良国立博物館寄託。奈良地域関連資料画像データベース[21]
広隆寺本 広隆寺所蔵か。不詳。
橘寺本 重要文化財 室町時代。16世紀。8幅。伝土佐光信筆。琳賢系の絵師の制作か。法隆寺本を踏襲。橘寺蔵。指定名称は「太子絵伝」。
油日神社本 甲賀市指定 室町時代。油日神社蔵。
斑鳩寺四幅本 兵庫県太子町指定 4幅。1555年(弘治1年)。四季に分けて描く。斑鳩寺蔵。
斑鳩寺八幅本 8幅。斑鳩寺蔵。
太子町本 兵庫県太子町指定 太子町所蔵?
善徳寺本 富山県指定 室町時代末から桃山時代。静嘉堂文庫本に類似。真宗大谷派城端別院蔵。
瑞泉寺本 重要美術品? 8幅。絵解きに使われる。伝巨勢金岡筆。真宗大谷派井波別院蔵。
四天王寺慶長本 焼失 1600年(慶長5年)。伝狩野山楽筆。大坂の陣で焼失。
四天王寺元和本 重要文化財 板絵。比較的状態の良い6面と焼損激しい11面が残る。1623年(元和9年)。伝狩野山楽筆。四天王寺絵堂。焼失したと思われていたが1943年(昭和18年)に発見された。四天王寺蔵。
叡福寺三巻本 3巻。江戸時代。17世紀。叡福寺の掛幅本を抜き出し。叡福寺蔵。
常円寺 那珂川町指定 1幅。江戸時代中期。栃木県那珂川町の常円寺蔵。[22]
法隆寺天明本 1787年(天明7年)。吉村周圭充貞筆。法隆寺蔵。
橘保春本 6面。1813年(文化10年)。橘保春筆。四天王寺蔵。
山内古藤模写本 掛幅4幅。1842年(天保13年)。山内勝春、古藤養真模作。東京国立博物館蔵。[23]
須坂太子堂本 須坂市指定 6幅。1879年(明治12年)。須坂太子堂。太子町蔵。須坂市中島町出身の画家の牧方丘が長野正覚寺本を参考に描いた。[24]
最高裁判所壁画 3面。堂本印象筆。最高裁判所図書館にある。最高裁大法廷に掲げられていた。
杉本健吉本 障壁画7面。1983年(昭和58年)。杉本健吉筆。四天王寺絵堂に納められている。
聖徳太子絵伝四季図大屏風 濱野年宏作。1992年(平成4年)。現代的な作品。中宮寺蔵。
本証寺模写本 本證寺本の模写。2014年(平成26年)。安城市歴史博物館が制作。愛知県立芸術大学の手による。
杭全神社複製本 杭全神社本のデジタル複製。
瑞泉寺複製本 瑞泉寺本の複製。
土佐光信筆聖徳太子一代絵巻 6巻。土佐光信筆。頂法寺六角堂所蔵。

随臣・眷属

秘宝

  • 七種之霊宝(法隆寺)
    • 釈迦御袈裟:糞掃衣。ノウ袈裟。釈迦が勝鬘夫人に与え、小野妹子が持ち帰った。勝鬘経講讃の時に着用したという。奈良時代8世紀。
    • 梵網経:聖徳太子自筆と伝える。平安時代初期。9世紀。この時代の紺紙金字経は断簡が多いが、完全な巻子本で伝わるものは希少という。題箋は太子の手の皮という。現在は東京国立博物館法隆寺宝物館にある。
    • 五大明王鈴:古代真鈴。太子生誕の時に宮中の棟に現れた。上部が欠損。唐代8-9世紀。
    • 御足印:両足の跡が残る壁代。足跡が残っているかどうかで仏法の盛衰を示すという。奈良時代8世紀。
    • 賢聖瓢壺:八臣瓢壺。春秋瓢。唐代8-9世紀の酒器。
    • 梓弓:梓真弓。怨敵退治に用いたという。奈良時代8世紀。
    • 六目鏑箭:蝦夷と物部守屋を退治した時の矢。箭1と利箭5とやなぐいも伝わる。奈良時代8世紀。
  • 七種宝物(四天王寺)
    • 京不見御笛:龍笛と高麗笛。鎌倉時代。13-14世紀。後花園上皇が、取り寄せたが壊れてしまった。四天王寺に戻ると復元したという伝説がある。1689年の箱が伝わる。
    • 太子緋御衣:唐花文袍残欠。飛鳥時代。7世紀。太子着用。重要文化財。奈良時代八世紀の漆皮箱(重要文化財)に収められて伝えられた。
    • 懸守:太子所用の御守り。7点。平安時代。12世紀。国宝。
    • 剣:直刀2点。丙子椒林剣は飛鳥時代7世紀の鉄の直刀。太子所用。国宝。「丙子椒林」の金象嵌。「椒林」の意味は分かっていない。七星剣は国宝。飛鳥時代7世紀。鉄造。直刀。獣頭、雲、北斗七星、三星の金象嵌。
    • 御手印縁起:四天王寺縁起根本本。平安時代11世紀。国宝。1007年発見。
    • 鳴鏑矢:太子が物部守屋との戦いに使用したという。飛鳥時代。7世紀。重要文化財。鉄造。竹製。正倉院に伝わる同種のものより古様を示す。
    • 細字法華経(夢来経):聖徳太子所持と伝える。平安時代。聖徳太子が斑鳩宮の夢殿に籠り、霊魂のみ唐の衡山に飛ばして、前世の慧思所持の法華経を取り寄せた。山背大兄王の死後、行方不明になったが、1214年(建保2年)に四天王寺で「発見」された。発見の経緯は順徳天皇の日記に記される。この時は宝蔵に納められた。一時忘却されたが1347年(正平2年/貞和3年)、再発見され、金堂に奉安された。以後、四天王寺の霊宝として現在まで伝わる。1686年(貞享3年)経箱が新調された。
  • 三経義疏
    • 法華経義疏:聖徳太子自筆という。法隆寺に伝わり、現在は天皇御物。
    • 勝鬘経義疏
    • 維摩経義疏
  • 細字法華経(御同朋経):聖徳太子所持と伝える。唐時代。694年、李元恵が書写。「御同朋経」と呼ばれた。聖徳太子が使者を唐に派遣して前世慧思の仲間(同朋)が使用した法華経を取りに行かせたものという。法隆寺献納宝物。

墓廟


旧跡一覧

御所

七大寺

『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』(747)では次の七大寺を挙げる。

また『大唐七代記』では中宮寺を抜き、法興寺と定林寺(立部寺)を入れた八大寺を挙げる

三太子

四十六寺

『太子伝玉林抄』(『聖徳太子の本』)掲載のリスト。異説あり。由来が不明な寺院も多い。

  • 苻神寺:廃絶。不詳。駿河国。
  • 四天王寺:大阪府大阪市天王寺区。摂津国東生郡。物部守屋との戦いで創建。
  • 菅田寺:廃絶。不詳。河内国。
  • 御廟寺:大阪府南河内郡太子町。河内国石川郡。叡福寺。太子の墓。
  • 中宮寺:奈良県生駒郡斑鳩町。大和国平群郡。太子は母后穴穂部間人皇女のため、皇后の宮殿を改めて寺院としたのが起源。創建時期は皇后の生前とも皇后の死後とも伝える。
  • 妙安寺:奈良県高市郡明日香村。飛鳥葛城寺の後身という。大和国高市郡。
  • 定林寺:奈良県高市郡明日香村。飛鳥にあった。大和国高市郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 熊凝寺:奈良県大和郡山市。大和国平群郡。大安寺額安寺の前身。聖徳太子が田村王子に遺言して建てられたとも、推古天皇病気平癒のためともいう。
  • 信貴山:奈良県生駒郡平群町。大和国平群郡。物部守屋との戦いで創建。
  • 牛臥寺:奈良県生駒郡平群町。信貴山にあった?大和国平群郡。
  • 広隆寺:京都府京都市右京区。山城国葛野郡。秦河勝が太子から仏像を賜って祀ったのが始まりという。
  • 蒲生寺:不詳。近江国蒲生郡には太子建立と伝える寺が多いが関連するか。
  • 阿弥陀寺:不詳。
  • 観音寺:不詳。
  • 勝善寺:不詳。
  • 日向寺:奈良県橿原市南浦町。大和国高市郡。藤原京左京八条四坊にあたる。なぜ太子建立とされたかは不明。
  • 大后寺:奈良県橿原市?。大和国高市郡。不詳。なぜ太子建立とされたかは不明。
  • 坂田寺:奈良県高市郡明日香村。廃絶。大和国高市郡。太子との関係は不明。
  • 太子寺:不詳。
  • 当麻寺:奈良県葛城市。大和国葛下郡。麻呂子親王が兄の聖徳太子の教えを受けて二上山の西に創建したという。
  • 武作寺:滋賀県近江八幡市。近江国蒲生郡。聖徳太子妃の高橋妃の出産にまつわる縁起がある。
  • 山田寺:奈良県桜井市。大和国十市郡。太子との関係は不明。
  • 野中寺:大阪府羽曳野市。河内国丹南郡。太子の命で蘇我馬子が創建したという。
  • 真福寺:愛知県岡崎市。三河国額田郡。物部真福が創建し、太子がこれを褒めて寺領を与えたという。
  • 阿弥陀院:不詳。善光寺という説がある。
  • 茨田寺:大阪府寝屋川市。廃絶。河内国茨田郡。跡地のそばには太子の弟の茨田王塚がある。
  • 太平寺:大阪府柏原市。河内国大県郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 法隆寺:奈良県生駒郡斑鳩町。大和国平群郡。太子の御所の斑鳩宮に付属した。
  • 元興寺:奈良県高市郡明日香村(旧地)。大和国高市郡。太子が伽藍縁起を記したという伝承がある。
  • 法起寺:奈良県生駒郡斑鳩町。大和国平群郡。聖徳太子が法華経を講義した岡本宮を寺に改めたもの。
  • 葛城寺:奈良県御所市??
  • 長琳寺:奈良県北葛城郡河合町。大和国広瀬郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 西安寺:奈良県北葛城郡王寺町。大和国葛下郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 比蘇寺:奈良県吉野郡大淀町。大和国吉野郡。太子建立とされた由縁は不明。
  • 六角堂:京都府京都市中京区。山城国愛宕郡。太子が四天王寺建立のために材木を探しに山城国に来た時に念持仏の如意輪観音を祀ったという。
  • 石塔寺:滋賀県東近江市。近江国蒲生郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 金剛寺:滋賀県。不詳。近江国。
  • 繖寺:滋賀県近江八幡市の観音正寺か。
  • 味摩寺:滋賀県犬上郡多賀町。敏満寺。近江国犬上郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 般若寺:不詳。近江国。
  • 妙教寺:不詳。大和国。
  • 豊浦寺:奈良県高市郡明日香村。大和国高市郡。この寺の沿革ははっきりしないが、桜井道場の時代に聖徳太子の進言で善信・禅蔵・恵善の尼僧3人を住まわせたという。
  • 百済寺:大阪府大阪市天王寺区にあった古代寺院。廃絶。難波京に含む。堂ケ芝廃寺か。摂津国東成郡。当時は百済郡。太子との具体的関係は不明だが、四天王寺に近いことや百済国との関係などから太子に結び付けられたか。のち河内国に移転したという(河内・百済寺)。
  • 久米寺:奈良県橿原市にある真言宗寺院。聖徳太子弟の来目皇子が創建したとの説がある。大和国高市郡。真言宗御室派。
  • 瓦寺:滋賀県東近江市にある臨済宗寺院。近江国神崎郡。摂津四天王寺を建設する時に太子がこの地に寺を建て、瓦を焼いたという。白鳳瓦が出土。臨済宗妙心寺派。瓦屋寺。
  • 施鹿園寺:奈良県生駒郡三郷町にある融通念仏宗寺院。大和国平群郡。平群氏の氏寺で、太子が休息したところと伝える。平隆寺。
  • 四天王寺:秋田県秋田市の秋田城にあった古代寺院。出羽国秋田郡。廃絶。古四王神社別当。太子と結び付ける理由は不詳。

その他

その他の建立寺院


上宮寺も参照。

人物

太子信仰を宣揚した人物など。

古典籍

著作

  • 法華経義疏
  • 維摩経義疏
  • 勝鬘経義疏

伝記(古代)

  • 『天寿国繍帳』銘文:
  • 『日本書紀』薨伝:
  • 『上宮太子菩薩伝』:聖徳太子の伝記。著者は思託(鑑真の弟子)。延暦年間の成立。『延暦僧録』の一部。『上宮皇太子菩薩伝』とも。
  • 『上宮聖徳法王帝説』:聖徳太子の伝記に関する史料集。平安時代中期の成立。法隆寺系のもの。没年など日本書紀とは異なる記述がある。
  • 『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』
  • 『異本上宮太子伝』:七代記
  • 『上宮聖徳太子伝補闕記』:平安時代前期の成立か。聖徳太子を救世観音の化身とみる伝承が初めて明確に現れる。

伝記(中世)

  • 『聖徳太子伝暦』:聖徳太子の伝説的な伝記の集大成。現在まで太子信仰に最も大きな影響を与えている。四天王寺系。917年成立か。992年説もある。太子信仰の御影画や彫像や絵伝も本書に基づき制作された。
  • 『聖徳太子伝私記』:法隆寺の寺誌と聖徳太子の伝説的な伝記。1238年頃成立。著者は法隆寺顕真。『古今目録抄』とも。
  • 『聖徳太子平氏伝雑勘文』:1314
  • 『上宮太子拾遺記』:1314
  • 『太子伝玉林抄』:『伝暦』の注釈書。1448年成立。著者は法隆寺訓海。
  • 『太子伝金玉抄』:
  • 『聖誉抄』:応永年間の成立。『聖誉鈔』。

絵伝

  • 絵巻
  • 掛幅
  • 1069年(延久1年):法隆寺旧東院絵伝本。
  • 1305年(嘉元3年):法隆寺。四幅。
  • 上宮寺本:1巻
  • 本證寺本:9巻。
  • 香雪美術館本:9巻のうち3巻。
  • フェノロサ収集本。9巻のうち5巻。香雪美術館本と一具とみられる。
  • 徳川家本:10巻。

未来記

講式・和讃など

  • 『聖徳太子讃歎講式』:法隆寺聖霊会に用いる。平安時代末に作られ始め、鎌倉時代に流行した漢文体の文で書かれ、音楽を伴う。
  • 『管絃伽陀』:法隆寺聖霊会に用いる。訓伽陀を含むのが特徴で梁塵秘抄からの引用を含む。
  • 『太子和讃』:法隆寺聖霊会に用いる。平安時代末に作られ始め、鎌倉時代に流行した和文の七五調の文。四句一章。明恵が作ったという説がある。
  • 『太子和讃』:貞慶作。
  • 『聖徳太子講式』:慈円作。現在も奇数月の四天王寺太子忌日にもちいる。
  • 『聖徳太子生身供式』:1121年成立。広隆寺定海。
  • 『皇太子和讃』:叡尊作。15首。
  • 『上宮太子講式』:顕真(生没年不詳)作。
  • 『如意輪講式』:円運(生没年不詳)作。
  • 『曼荼羅講式』:定円(生没年不詳)作。1275年(建治1年)成立。
  • 「皇太子聖徳奉讃」(『正像末和讃』所収):親鸞著。11首。
  • 『皇太子聖徳奉讃』:親鸞著。75首
  • 『大日本国粟散王聖徳太子和讃』:親鸞著。114首。

年表

略年譜

聖徳太子年譜
月日 年齢 事項
574年(敏達3年) 1 誕生(法王帝説)。橘寺の地とされる。『伝略』では敏達1年1月1日、『元亨釈書』では敏達2年1月1日という。
575年(敏達4年) 2 南無仏太子の逸話。太子が東を向いて合唱し「南無仏」と唱え、その時誕生以来握っていた仏舎利が初めて姿を現したともいう(伝暦)。『補闕記』では3歳の時の事績として毎朝東に向かって南無仏と唱えて再拝したという。
576年(敏達5年) 3
577年(敏達6年) 6月22日 4 慧思死去。(聖徳太子の前世とされる)
578年(敏達7年) 5
579年(敏達8年) 6
580年(敏達9年) 7 経論披見の逸話。
581年(敏達10年) 8
582年(敏達11年) 9
583年(敏達12年) 10 百済の日羅が来日(日本書紀)。日羅は聖徳太子を拝して「敬礼救世観世音大菩薩、伝燈東方粟散王」と述べたという(伝暦)。
584年(敏達13年) 11
585年(敏達14年) 12 2月、蘇我馬子、舎利塔を建てるが、3月、物部守屋が疫病流行は崇仏のためとして仏塔・仏殿を廃棄させる。
586年(用明1年) 13 母の穴穂部間人皇女が皇后となる。
586年(用明1年) 聖徳太子、上宮に初めて移る。
586年(用明1年) 用明天皇、病気平癒を願って薬師如来造仏を発願(法隆寺金堂薬師如来像光背銘)
587年(用明2年) 4月 14 用明天皇、崇仏の可否を群臣に諮る。
587年(用明2年) 4月 豊国法師、参内して用明天皇の病を看る。
587年(用明2年) 4月 聖徳太子、天皇不予のため衣帯を解かず、日夜看病する。
587年(用明2年) 7月 用明天皇崩御し磐余池上に埋葬(日本書紀)。太子、斬服して徒歩で従い、両足に血がみえる(伝暦)。
587年(用明2年) 7月 蘇我馬子と共に物部守屋を討つ。太子、白膠木を得て四天王像を刻み戦勝祈願し、結願の時は四天王寺創建を誓願する。
588年(崇峻1年) 15 崇峻天皇即位。(日本書紀)
588年(崇峻1年) 百済の慧聡が仏舎利を献納。(日本書紀)
588年(崇峻1年) 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺、元興寺)を創建。日本初の本格的な伽藍を備えた仏教寺院となる。
589年(崇峻2年) 16 香炉を手にして父の病気平癒を祈ったという。「孝養太子」像の起源。(伝暦)
589年(崇峻2年) 龍田神に出会う逸話。明日香から平群郡に来た時に老翁に会い、斑鳩の地に伽藍を建てるように言われる。太子、老翁の正体(龍田神)を問い、寺の守護を請う。(太子伝私記)
590年(崇峻3年) 17
591年(崇峻4年) 18
592年(崇峻5年) 10月 19 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺、元興寺)の金堂を建立。
592年(崇峻5年) 崇峻天皇暗殺。推古天皇即位。(日本書紀)
593年(推古1年) 20 四天王寺を「荒陵」に移転(日本書紀)。
593年(推古1年) 1月 法興寺(飛鳥寺、元興寺)に塔を建て仏舎利を安置。
593年(推古1年) 4月10日 皇太子となり、摂政となる。高麗僧の恵慈を仏教の師とし、覚〓をその他の師匠とする。(日本書紀)
593年(推古1年) 用明天皇陵を磯長に改葬。(日本書紀)
594年(推古2年) 21 法隆寺を起工。(太子伝私記)
594年(推古2年) 三宝興隆の詔。(日本書紀)
595年(推古3年) 5月10日 22 高句麗の恵慈が帰化。(日本書紀)
595年(推古3年) 5月 聖徳太子、恵慈の法華経の誤字を指摘する。(伝暦)
595年(推古3年) 百済の慧聡が再び来日(日本書紀)
596年(推古4年) 10月 23 聖徳太子、慧総・蘇我馬子と共に伊予の湯に行く。(釈日本紀所収湯岡碑文)
596年(推古4年) 11月 法興寺竣工。恵慈・慧総が住す。(書紀)。
597年(推古5年) 24 百済の阿佐太子が来日(日本書紀)。『伝暦』(599年条)によれば阿佐太子は聖徳太子を「救世大慈観音菩薩」と呼び、救世観音の化身として礼拝、聖徳太子は「阿佐太子は前世の弟子であったので謝したのである」と述べたという。
598年(推古6年) 25 聖徳太子、勝鬘経と法華経を説く。推古天皇、法隆寺に田地施入。(『法隆寺資財帳』『上宮聖徳法王帝説』)
598年(推古6年) 4月 聖徳太子、諸国に良馬を求める(日本書紀)。
599年(推古7年) 26
600年(推古8年) 27 遣隋使を初めて派遣。(隋書倭国伝)
601年(推古9年) 2月 28 斑鳩宮を造営。(日本書紀)
601年(推古9年) 3月5日 聖徳太子、使者を高麗・百済に遣わし、「任那を救え」という。(書紀)
602年(推古10年) 29 百済僧の勧勒、来日。(日本書紀)
603年(推古11年) 10月 30 聖徳太子、諸法師に安宅経を講させる(伝暦)
603年(推古11年) 11月 聖徳太子、仏像を秦河勝に授け、蜂岡寺(広隆寺)を創建させる。(書紀)
603年(推古11年) 11月 聖徳太子、用明天皇に請いて大楯・靫・旗幟を作る。(書紀)
603年(推古11年) 12月5日 国政改革に着手。冠位十二階を定めた。(日本書紀)
604年(推古12年) 1月1日 31 初めて冠位を授ける。(書紀)
604年(推古12年) 4月3日 『十七条憲法』を発布(日本書紀)。『法王帝説』では推古13年7月のことという。
604年(推古12年) 10月 聖徳太子、諸寺の仏像を描かせる。(伝暦)
605年(推古13年) 32 用明天皇、聖徳太子らに詔を下して初めて丈六の銅仏・丈六の繍仏を作る。(書紀)
605年(推古13年) 閏7月1日 聖徳太子、諸王諸臣に命じて褶を着用させる。
605年(推古13年) 10月 聖徳太子、斑鳩宮に在す。(日本書紀)
606年(推古14年) 4月 33 元興寺金堂に銅仏・繍仏を安置する。(日本書紀)
606年(推古14年) 7月 聖徳太子、推古天皇の命で勝鬘経を3日間かけて説く。(日本書紀)
606年(推古14年) 聖徳太子、岡本宮で法華経を説く。推古天皇はこれを喜び、播磨国100町を斑鳩寺(法隆寺)に施入する。(日本書紀)
606年(推古14年) 橘寺建立(伝暦)。
607年(推古15年) 2月15日 34 聖徳太子、大臣と百寮を率いて神祇を祀る。(書紀)
607年(推古15年) 7月3日 小野妹子を遣隋使として派遣。(日本書紀)
607年(推古15年) 推古天皇と聖徳太子、用明天皇の遺志を受け継ぎ法隆寺を創建。薬師如来像を造立。(「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」、「帝説」もこの年とする)
608年(推古16年) 35 勝鬘経を講讃。「講讃太子」像の由来。(伝暦)
608年(推古16年) 4月 小野妹子、随の答礼使の裴世清と共に帰国。(日本書紀)
608年(推古16年) 9月 再び、小野妹子隋に派遣。
608年(推古16年) 9月 聖徳太子、17日間、夢殿に籠もる(補闕記、伝暦)。
609年(推古17年) 4月8日 36 勝鬘経義疏の執筆を始める。(「補闕記」「伝暦」)
610年(推古18年) 37
611年(推古19年) 1月25日 38 勝鬘経義疏の執筆を終える。(「補闕記」「伝暦」)
611年(推古19年) 5月 聖徳太子、天皇の遊猟を諫言して停止させる。
612年(推古20年) 1月15日 39 維摩経義疏の執筆を始める。(「補闕記」「伝暦」)
613年(推古21年) 12月1日 40 片岡山で飢餓人と出会う(日本書紀)。達磨の化身という。
613年(推古21年) 9月15日 維摩経義疏の執筆を終える。(「補闕記」「伝暦」)
613年(推古21年) 11月 聖徳太子、掖上池・畝火池・和珥池を作り、また難波から京に至る「大道」を作る。(日本書紀)
613年(推古21年)
614年(推古22年) 1月8日 41 法華経義疏の執筆を始める。(「補闕記」「伝暦」)
614年(推古22年) 6月13日 聖徳太子、犬神君御田鋤・矢田部造を隋に遣わす。(日本書紀)
614年(推古22年) 聖徳太子自ら、大臣に五戒を授ける。(伝暦)
615年(推古23年) 4月15日 42 法華経義疏の執筆を終える。(「補闕記」「伝暦」)
615年(推古23年) 11月15日 恵慈、高句麗に帰国。上宮御製疏を伝える。(日本書紀)(帝説)
616年(推古24年) 5月3日 43 聖徳太子、天皇の病気祈願を祈り、諸伽藍を立つ。(補闕記)
617年(推古25年) 44 聖徳太子、勝鬘経と法華経を説く。推古天皇、法隆寺に田地施入。(『聖徳太子伝補闕記』)
617年(推古25年) 聖徳太子、熊凝精舎(大安寺)を創建。(扶桑略記)
618年(推古26年) 12月 45 聖徳太子、磯長の墓所を造る者を視察させる。(伝暦)
618年(推古26年) 隋朝、滅亡
619年(推古27年) 1月 46 聖徳太子、勅により諸国の寺地を巡検する。(伝暦)
620年(推古28年) 47 蘇我馬子と議して「天皇記」「国記」を編纂。(日本書紀)
621年(推古29年) 48 法隆寺金堂釈迦三尊像台座に墨書を記す。(台座墨書)
621年(推古29年) 12月21日 母の間人皇后が死去。(「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」)
622年(推古30年) 1月22日 49 発病
622年(推古30年) 2月21日 太子妃の膳部菩岐々美郎女、死去。(「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」)
622年(推古30年) 2月22日 死去(「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」「天寿国繍帳銘」「上宮聖徳鳳凰帝説」「法起寺塔露盤銘」「聖徳太子伝補闕記」)。「法隆寺安居功徳講表白」「聖徳太子伝私記」などでは葦垣宮(現成福寺)で死去という。死去の直前、「大安寺資財帳」では推古天皇が田村皇子を葦垣宮に見舞いに派遣している。日本書紀では621年2月5日に斑鳩宮で死去とする。扶桑略記なら2月5日死去。

死後の年表

  • 623年(推古31年):高句麗に帰国した師の慧慈、太子の死を知って悲しみ、一年後の命日に自害したという(日本書紀)。
  • 623年(推古31年)3月:太子等身の像とされる法隆寺金堂釈迦三尊像が完成。
  • 643年(皇極2年):蘇我入鹿が斑鳩宮を襲撃。太子の一族は滅亡。
  • 645年(大化1年):難波宮遷都。四天王寺の重要性が高まる。
  • 天智天皇時代:天智天皇、斉明天皇の追善のため四天王寺金堂に弥勒菩薩像を祀る(大同縁起)。これはのちに救世観音、如意輪観音とされるようになる。
  • 720年(養老4年):『日本書紀』成立。「一に十人の訴を聞きたまひて」と神格化の兆候がある。薨伝に多数の記事を割く。
  • 721年(養老5年):聖徳太子100年忌。
  • 734年(天平6年):光明皇后、太子命日に法隆寺に寄進。736年(天平8年)にも。
  • 736年(天平8年)2月22日:行信が道慈を講師に招いて僧尼300人と共に法華経を講じるが一説に法隆寺の聖霊会初見とされる(『法隆寺東院縁起』)。
  • 739年(天平11年)11月:行信、斑鳩宮跡に上宮王院の造営を始める。
  • 748年(天平20年)2月22日:一説に法隆寺で聖霊会が初めて行われる(『法隆寺別当記』)。
  • 天平年間:行信、勝鬘経講讃像を作ると伝える(『太子伝私記』
  • 天平年間:『暦録』成立。
  • 753年(天平勝宝5年):鑑真来日。その動機に聖徳太子が慧思の生まれ変わりということに関心を持ったためともいう。
  • 天平勝宝年間(749-757):法隆寺東院伽藍にならい、四天王寺聖霊院が成立し、天平勝宝年間に絵堂が建立されたという(太子伝古今目録抄)。絵殿の成立は法隆寺より古い。
  • 747年(天平19年):『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』成立。
  • 761年(天平宝字5年):『上宮王院縁起資財帳』。救世観音像を「上宮王等身」とする。この時点で『勝鬘経』の首紙に「法王像」(聖徳太子像)を描くとある。
  • 771年(宝亀2年):四天王寺敬明ら、『四天王寺聖徳王伝』成立。『四天王寺障子絵伝』?
  • 延暦年間:思託、『上宮太子菩薩伝』を記す。慧思後身説を説く。
  • 明一、『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』を記す。
  • 奈良時代末:『七代記』成立。片岡山の飢人は達磨だったと記す。
  • 810年(弘仁1年):空海が聖徳太子墓に参拝したと伝える。100日参籠し、96日目に聖徳太子の夢告を受けたという。(『上宮太子廟参拝記文』『沙門遍照金剛記注』)。
  • 816年(弘仁7年):最澄が四天王寺の「上宮廟」に参詣し詩を献じた(伝述一心戒文)。聖徳太子は慧思の後身と記す。
  • 821年(弘仁12年):聖徳太子200年忌。
  • 833年(天長10年):四天王寺の塔の心柱に納められていた聖徳太子霊髪の中から明珠が出現(太子伝古今目録抄)。
  • 836年(承和3年)12月6日:四天王寺の塔が落雷で破損したが被害調査をした官吏が塔の中の聖徳太子霊髪を盗み妻に与える事件が発生。朝廷は祟りを恐れて捜索し、翌年12月8日に新造の木壺・銅壺に霊髪を納めて返却した。(続日本後紀)
  • 859年(貞観1年):道詮、上宮王院を復興。
  • 平安時代前記:『上宮聖徳太子伝補闕記』成立。819~917年頃。調子丸の初出。
  • 917年(延喜17年):『聖徳太子伝暦』成立。992年(正暦3年)とも。以後、この書を典拠として太子信仰は展開する。
  • 921年(延喜21年):聖徳太子300年忌。
  • 985年(寛和1年)頃:慶滋保胤、『日本往生極楽記』を記す。その中の太子伝(成立後の加筆とも)に勝鬘経講讃の時、袈裟を着用したと記す。
  • 1007年(寛弘4年)8月1日:四天王寺から『御手印縁起』が出現。都維那十禅師慈蓮により金堂の六重小塔の中から発見された。同縁起では四天王寺の金堂と塔が極楽浄土の東門に当たると記され、浄土教の発展に影響を与えた。
  • 1120年(保安1年):広隆寺の聖徳太子像造立。のち天皇即位と共に黄櫨染御袍を寄進するのが恒例となる。
  • 1021年(治安1年):聖徳太子400年忌。
  • 1054年(天喜2年)9月20日:聖徳太子墓の『御記文』(瑪瑙石文)が発掘。聖徳太子墓前に本格的寺院が成立したのはこれ以降のことという。
  • 1069年(延久1年):法隆寺で現存最古の聖徳太子絵伝(法隆寺献納宝物)が成立。
  • 1069年(延久1年):法隆寺絵殿の現存最古の聖徳太子像、造立。「七歳像」と呼ばれる坐像。童形像。
  • 1069年(延久1年):法隆寺聖霊会で、七歳像と拳内舎利を夢殿に奉遷してさらに舞楽法要を加えて行うようになる。
  • 1072年(延久4年):「聖徳太子不断念仏の道場」として法隆寺西院に金光院を創建。金光院には太子堂があった。現在の律学院。
  • 平安時代中期:『上宮聖徳法王帝説』成立。
  • 1115年(永久3年)2月21日:法隆寺聖霊会のために水田5反施入(『法隆寺別当記』)。
  • 1121年(保安2年):聖徳太子500年忌。
  • 1121年(保安2年)11月:法隆寺聖霊院、成立。「聖徳院御影」開眼(造立は天仁年間(1108-1110)とも)。(『古今一陽抄』『法隆寺別当次第』)
  • 1126年(大治1年):法隆寺三経院、成立。
  • 1138年(保延4年)2月22日:現存する法隆寺聖霊会の行道面のほとんどがこの日に制作される(行道面墨書銘)。
  • 1140年:大江親通の『七大寺巡礼私記』に唐本御影が記載される。唐本御影の史料上の初出。
  • 1148年(久安4年)9月:鳥羽法皇、四天王寺御幸。絵堂で絵解を聞く。藤原頼長が随行。
  • 11世紀半ば:「天台高僧画像」(播磨・一乗寺)に聖徳太子が描かれる。
  • 1163年(長寛1年):同年銘の『高僧図像』(仁和寺本)に袈裟を着用した「孝養太子像」が描かれる。
  • 1191年(建久2年):親鸞が聖徳太子墓に参詣したと伝える。(『高田開山親鸞聖人正統伝』)
  • 1192年(建久3年)9月:慈円、四天王寺と聖徳太子墓に参詣。
  • 1195年(建久6年)頃:法隆寺、「聖徳院御影」を奉じて強訴。まもなく当時の別当の覚弁が1199年(正治1年)が不審死した。後世、御影動座と結び付ける説が出る。
  • 1199年(正治1年):源頼朝、法隆寺聖霊会に使う幡・舞台・舞楽面・羯鼓・鼉太鼓・鉦鼓などを寄進する(『法隆寺別当記』)。舞台、鼉太鼓、鉦鼓は現存する。
  • 1201年(建仁1年):親鸞、頂法寺に100日参籠し、聖徳太子の化身の観音から夢告を得て比叡山を去り、法然のもとに赴いたという。
  • 1202年(建仁2年):親鸞が聖徳太子墓に2度目の参詣をしたと伝える。(『高田開山親鸞聖人正統伝』)
  • 1203年:元当麻寺僧の浄戒と顕光が、太子墓から太子の歯骨を盗み出したという。
  • 1205年(元久2年)2月22日:叡福寺の大乗会式(忌日法要)が始まる。(応永年中旧記)
  • 1210年(承元4年)10月15日:源実朝、十七条憲法や四天王寺や法隆寺の旧記を入手。(吾妻鏡)
  • 1210年(承元4年)11月22日:源実朝、持仏堂に聖徳太子御影(南無仏)を祀る。(吾妻鏡)
  • 1212年(建暦2年)6月22日:源実朝、持仏堂で聖徳太子聖霊会を退耕行勇を導師に勤修。(吾妻鏡)
  • 1214年(建保2年)6月26日:四天王寺宝蔵から聖徳太子御持経を発見。(四天王寺解)
  • 1217年(建保5年)頃:入宋中の園城寺慶政、現地の僧侶から南無仏太子の「舎利」や達磨寺の塔を見たことあるかと聞かれて「ある」と嘘をつく。この「嘘」を「真実」にするため、帰国後の法隆寺の整備につながったという。(『聖誉抄』)
  • 1217年(建保5年):越後流罪を許された親鸞はこの年から20年間、稲田の草庵に滞在したが元は太子堂だったともいわれる。
  • 1220年(承久2年):園城寺慶政、法隆寺東院の七間亭を再建し舎利殿とする。
  • 1221年(承久3年):聖徳太子600年忌。
  • 1221年(承久3年):九条道家、広隆寺太子堂に参拝。絵解きを聞く。
  • 1224年(元仁1年):慈円、四天王寺絵堂を再建(法然上人行状絵図)。
  • 1225年(嘉禄1年)6月:法隆寺強訴で「聖徳院御影」が京都に動座。強訴は成功せず9月に法隆寺に還座。年末12月、別当の範信が寺僧に殺害された。後世、御影動座と結び付ける説が出る。
  • 1227年(安貞1年):四天王寺蔵『太子伝古今目録抄』成立。
  • 1228年(安貞2年)以後:『吉野吉水院楽書』成立。「四天王寺聖霊会」の語の初出。これ以前から四天王寺で聖霊会が行われていたかどうかは記録がない。
  • 1230年(寛喜2年):園城寺慶政、法隆寺東院伽藍の整備を行う。1240年(仁治1年)まで。
  • 1236年(嘉禎2年)5月8日:園城寺慶政、太子自筆の『法華義疏』を表装替えのため京都に運ぶように法隆寺に命じる。運搬に慎重を期すため、はじめ4巻のうち2巻を運ぶ。九条道家らが拝観。道家は残りの2巻を運ぶ時に太子自筆の『梵網経』も送るように慶政に命じ、慶政は下巻のみ京都に運んだという。法隆寺顕真も随行して上京した。「唐本御影」の表装替えもこの時ではないかと推定されている。(『法隆寺雑記』)
  • 1238年(暦仁1年)8月11日:法隆寺宝物が京都に出開帳。法性寺に入る。12日に将軍九条頼経が父九条道家や母倫子らと共に拝観。13日は六条邸で宣陽門院謹子、北白河女院陳子、その父持明院基家が拝観。岡崎殿で陰明門院麗子が拝観。14日、猪熊御所で近衛家実、近衛兼経が荘厳な儀式を営んで迎えて拝観した。「唐本御影」を見た近衛兼経はこの時、「この像は異国のものではなく、日本人の装束は昔はみなこうだった」と述べたという。(『聖徳太子伝私記』)
  • 1238年(暦仁1年):法隆寺顕真、『聖徳太子伝私記』(『古今目録抄』)上巻を記す。下巻は10年後くらいの成立。「唐本御影」の語の初出。聖徳太子墓前の寺院んが初出(「御廟寺」または「転法輪寺」「科長寺」「石河寺」)
  • 1238年(暦仁1年)頃:成阿弥陀仏、橘寺再建の勧進所として東山太子堂(京都・白毫寺)を創建か。この時、十六歳像を本尊としたという。孝養太子像の初期の事例。東山太子堂は叡尊教団の拠点となり、以後の孝養太子像の造立は鎌倉時代ではいずれも叡尊教団の周辺で行われたという。
  • 1243年(寛元1年):九条道家、最後の法隆寺参詣。
  • 1246年(寛元4年):叡尊が聖徳太子墓に参詣。502人に授戒。(『叡尊感身学正記』)
  • 1247年(宝治1年):毛利季光、現存最古の聖徳太子孝養像(天洲寺像)の造立をこの年発願。
  • 1247年(宝治1年):『法華経義疏』開板。
  • 建長年間:法隆寺の播磨国斑鳩荘が収公される。
  • 1250年(建長2年):日蓮、四天王寺参詣(別頭統記)。
  • 1250年(建長2年):日蓮が聖徳太子墓に参詣したと伝える。(『日蓮大士真実伝』)
  • 1251年(建長3年):叡尊門下の中観澄禅が桂宮院を再興。
  • 1254年(建長6年):顕真考案の法隆寺『聖皇曼荼羅』成立。東大寺戒壇院円照や摂政近衛兼経の助力による。
  • 1254年(建長6年)1月:叡尊、聖徳太子講式を記す。
  • 1255年(建長7年):親鸞、『皇太子聖徳奉讃』75首を撰す。
  • 1257年(正嘉1年):親鸞、『大日本粟散王聖徳太子奉讃』115首を撰す。
  • 1258年(正嘉2年):叡尊が聖徳太子墓に2度目の参詣。(『叡尊感身学正記』)
  • 1259年(正元1年):叡尊、顕真の勧めで法隆寺の如意輪観音像を補修する。
  • 1261年(弘長1年)9月4日:後嵯峨上皇が法隆寺行幸。
  • 1262年(弘長2年)閏7月9日:執権北条時頼、鎌倉滞在中の叡尊を導師として法隆寺聖徳太子像の模刻を鎌倉苑寺で供養。
  • 1274年(文永11年):一遍、最初の巡礼地として四天王寺を参詣。
  • 文永年間:叡尊門下の信如尼が中宮寺を復興。
  • 鎌倉時代後期:顕智が伊勢に浄土真宗を初めて布教。太子寺が拠点とみられる。
  • 1284年(弘安7年)9月27日:叡尊、四天王寺別当となる。天台宗以外からは異例。一旦は固辞するが、翌年3月に入寺。
  • 1284年(弘安7年):法隆寺聖霊院改築。これ以降、現在の聖霊会の形式が確立する。
  • 1285年(弘安8年):『十七条憲法』や『四節願文』が初めて開板される。
  • 1286年(弘安9年):一遍、四天王寺参詣。
  • 1286年(弘安9年):一遍が聖徳太子墓を参詣。(『一遍上人絵伝』)
  • 鎌倉時代後期:戒学、橘寺を律院として復興。またこの頃、橘寺で二歳像が初めて造立されたという伝承がある。
  • 1292年(正応5年):現存最古の二歳像(ハーバード大学美術館蔵)を造立。
  • 1294年(永仁2年):忍性、四天王寺別当となる。
  • 1298年(永仁6年)4月:忍性の申請で34寺が関東祈祷所となるが、四天王寺の子院、橘寺、京都白毫寺など太子信仰の寺院がいくつか含まれている。
  • 1303年(嘉元1年):法隆寺、強訴を計画(実施されたかどうかは不明)。播磨国斑鳩荘の西の下司職が武力を用いて非法を行うため、是正を六波羅に訴え、この時、太子像(どの像かは不明)が動座が計画された。
  • 鎌倉時代後期:高田門徒系の円善が三河に浄土真宗を布教し、和田門徒を形成。浄土真宗の中でも特に太子信仰の強いグループという。
  • 1314年(正和3年):橘寺法空、『聖徳太子平氏伝雑勘文』を記す。
  • 1314年(正和3年):橘寺法空、『上宮太子拾遺記』を記す。
  • 1314年(正和3年):妙源寺太子堂(柳堂)再建。
  • 1318年(文保2年)頃:『聖徳太子伝(醍醐寺本)』成立。
  • 1321年(元亨1年):聖徳太子700年忌。
  • 1325年(正中2年):法隆寺、建長年間に没収された播磨国斑鳩荘の復帰を訴えるため、「唐本御影」や太子自筆「梵網経」や箭など宝物を鎌倉に動座させる。
  • 1325年(正中2年)頃:専修寺専空、『聖徳太子内因曼陀羅』成立。
  • 1329年(元徳1年):法隆寺、没収された播磨国斑鳩荘の復帰を実現。
  • 鎌倉時代末:『正法輪蔵』成立。
  • 1332年(元弘2年/正慶1年)8月:楠木正成、四天王寺で聖徳太子の未来記を見て、後醍醐天皇の倒幕が約束されていると知ったという(太平記)。
  • 1335年(建武2年)5月18日:後醍醐天皇、四天王寺より『御朱印縁起』を取り寄せ書写し、奥書を記す。
  • 1342年(興国3年/康永1年):北畠親房、結城親朝宛書状で聖徳太子御記文の示すところで皇統の運が開けると述べる。
  • 1352年(正平7年/文和1年)閏2月15日:後村上天皇が四天王寺行幸。
  • 1362年(正平17年/貞治1年):重懐、『法隆寺縁起白拍子』を記す。
  • 室町時代:『聖徳太子伝(愛知万徳寺本)』成立。
  • 1418年(応永25年):「叡福寺」の名の史料上の初出(叡福寺所蔵文書)。
  • 1421年(応永28年):聖徳太子800年忌。
  • 応永年間:『聖誉抄』成立。
  • 1443年(嘉吉3年)1月15日:寺僧の抗争で四天王寺炎上。焼失した聖徳太子像の中から黄金の小像が見つかり「奇得之事」として注目を集めた。(看聞御記)
  • 1448年(文安5年):訓戒、『太子伝玉林抄』成立。
  • 1462年(寛正3年):池坊専慶、佐々木高秀が招いて挿し花をさせたところ見事な出来栄えだったため、多くの人々が見に来たという記録がある(碧山日録)。池坊流華道の始まりとされる。
  • 1521年(大永1年):聖徳太子900年忌。
  • 1532年(天文1年):後奈良天皇、広隆寺聖徳太子像への黄櫨染御袍寄進を復興。
  • 天文年間:尊智女王が中宮寺を再興。現在地に移転したのもこの時とみられる。
  • 1576年(天正4年)5月3日:石山合戦で四天王寺焼失。
  • 1600年(慶長5年)3月27日:四天王寺再興落慶。豊臣秀吉、豊臣秀頼による。狩野山楽が絵堂の「太子之絵縁起」「漆塗太子一生涯之御絵」を描く。
  • 近世初頭:「河内三太子」が成立か。
  • 1603年(慶長8年):京都白毫寺、知恩院造成のため現在地に移転。
  • 1614年(慶長19年)11月6日:大阪冬の陣で四天王寺焼失。(慶長日記)
  • 1621年(元和7年):聖徳太子1000年忌。
  • 1632年(寛永9年)9月21日:四天王寺、徳川幕府により再建落慶(天王寺改渡帳)。狩野山楽が絵堂の絵を再度描く。
  • 1666年(寛文6年):『聖徳太子伝(寛文版)』刊行。
  • 1691年(元禄4年):法隆寺聖霊会、太子像・舎利を東院から西院講堂に奉遷して行うようになる。これ以前は東院と西院で別々に聖霊会が行われていた。
  • 1711年(正徳1年):この頃、越中井波瑞泉寺で太子絵伝の絵解きが始まる。
  • 1717年(享保2年):京都長楽寺で叡福寺の出開帳。初の出開帳の記録。(『河内国上ノ太子御霊宝目録』)
  • 1721年(享保6年):聖徳太子1100年忌。
  • 1730年(享保15年):太子墓前に廟窟偈文碑建立。
  • 1801年(享和1年)12月4日:落雷で四天王寺焼失。(大坂四天王寺雷火之次第)
  • 1812年(文化9年):四天王寺再建。(再興御披露文)
  • 1821年(文政4年):聖徳太子1200年忌。
  • 1863年(文久3年)7月18日:四天王寺太子殿、焼失。
  • 1879年(明治12年):四天王寺太子殿、再建。
  • 1879年(明治12年):四天王寺の聖霊会舞楽が復興。西本願寺の大谷光尊や大坂願泉寺小野樟蔭の尽力による。
  • 1879年(明治12年):有栖川宮が斑鳩寺に御衣奉納。以後、皇族による奉納が恒例となる。
  • 明治:各宗派の北海道開教で太子信仰が盛んに称揚される。
  • 1913年(大正2年)4月11日:叡福寺の大乗会式(忌日法要)が新暦換算した4月11日を中心に行われるようになる。
  • 1921年(大正10年):聖徳太子1300年忌
  • 1945年(昭和20年)3月13日:大阪大空襲で四天王寺焼失。
  • 1947年(昭和22年)6月22日:四天王寺、天台宗より離脱して和宗を設立。
  • 1949年(昭和24年):法隆寺金堂、火災。
  • 1957年(昭和32年):四天王寺、発掘調査。
  • 1959年(昭和34年):四天王寺、塔を再建。
  • 1963年(昭和38年):四天王寺、金堂を再建。
  • 1979年(昭和54年):四天王寺、太子殿奥殿を建立。1983年(昭和58年)絵堂・経堂も再建。
  • 2021年(令和3年):聖徳太子1400年忌

参考文献

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

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