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興福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年4月23日 (火)
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市にある藤原氏ゆかりの南都仏教の本山寺院。本尊は釈迦如来。官寺七大寺・四大寺の一つで、歴代の公武政権の崇敬を受けた。平城京の右京三条七坊に当たる。延暦寺と共に南都北嶺として恐れられた。法相宗の中心道場として発展。神仏習合を唱え、春日大社を鎮守として支配下に取り込んだ。藤原氏の隆盛と共に多くの荘園を持ち、繁栄。鎌倉幕府から大和国守護職に任ぜられ、一国を支配した。一乗院と大乗院の二つの門跡が本坊となった。明治初年、神仏分離の影響で一時廃絶したが、まもなく復興した。不空羂索観音を祀る南円堂は特に信仰を集め、西国三十三所第9番札所。法相宗大本山。興福寺関連旧跡も参照。(参考 同名寺院興福寺 (同名))
目次 |
歴史
創建
天智天皇8年(669)、藤原鎌足の死に際して、念持仏を妻の鏡女王が山城国の山階邸に祀ったのが始まりとされる。山階寺と呼ばれる。 その後、藤原不比等が藤原京に移転し、厩坂寺と称した。 平城遷都で左京三条七坊の現在地に移った。平城京での造営を実質的な創建とする見方もある。
白鳳時代
奈良時代
養老4年(720)には官寺となった。中金堂の造営年代は不明だが、不比等が亡くなったこの年までには着工していたとみられる。 翌年8月、長屋王が北円堂を建立。 養老7年、施薬院、悲田院を建立。 神亀3年(726)、聖武天皇が元正上皇の病気平癒のために東金堂を建立。薬師三尊を祀った。 天平2年『730)、光明皇后が五重塔を建立。天平6年、皇后は釈迦三尊を祀る西金堂を建立。 その他天平16年までに講堂、食堂、僧坊が建てられ、七堂伽藍を備えた。天平18年、講堂本尊の不空羂索観音が造立された。 天平宝字元年(757)、藤原仲麻呂が、鎌足起源と伝える維摩会を盛大に実施。以後、南都三会の一つとして重視された。
平安時代
弘仁4年(813)、藤原冬嗣が南円堂を建立。南円堂は本来は西塔の位置に当たる。講堂の不空羂索観音を移して南円堂本尊とした。この不空羂索観音はのち春日大社一宮の鹿島明神の本地仏と考えられるようになった。 以後、藤原氏が摂関家として興隆すると共に興福寺も発展した。 そのため、平安遷都後に平城京が衰退していく中、興福寺は衰えを見せなかった。 空海の伝承も伝え、密教興隆の時流に乗った。
元来、春日大社と興福寺に直接の関連はなかったが、両者への摂関家の関与が深まると共に、興福寺が春日明神を法相宗擁護の神と位置付け、興福寺の鎮守と主張し、影響力を持つようになった。 全国的な神仏習合の発展と共にあった。
寛仁2年(1018)には春日大社神前で法華八講を執行している。 さらに春日明神が託宣して慈悲万行菩薩と称したと興福寺は喧伝した。 興福寺の強訴に春日大社の神木を動座させるに及んで、興福寺の春日大社支配は基本的な完成をみた。 院政期には興福寺が春日大社の神領を支配。 永久4年(1116)、関白藤原忠実が神域に塔(春日西塔)を建て、境内の一体化も進んだ。 保延元年(1135)、興福寺は春日大社本殿近くに若宮を創建。翌年、「若宮おん祭」を始め、西塔近くの御旅所に神幸するようになった。 この祭礼の創始で興福寺の春日大社支配は完成した。そして、おん祭の運営を通して興福寺は大和国全域への支配拡大を正当化していくのである。
数多くの古刹をも服従させ、大寺の長官(住職)の多くを興福寺の僧が独占した。 興福寺に無数の伽藍と塔頭が建てられ、繁栄を極めた。 教学が発展。また僧兵による軍事力も持った。
平氏政権ができると、平清盛が大和国に支配を伸ばし、さらに治承4年(1180)の南都焼討で大被害を受けた。
鎌倉時代
春日明神の神威を背景に寄進を得て伽藍復興。 鎌倉幕府が興福寺を大和国守護職とし(黙認?)、 一国の地方行政を司る無類の権門寺院となり、その地位を不動のものとした。 国内の有力領主を衆徒や国民と称して興福寺や春日大社の諸役に任命して、事実上の家臣とした。 摂関家の子弟が入る一乗院門跡と大乗院門跡が成立。荘園の帰属や国内領主の対立が複雑にからんで、門跡の対立が激化。 鎌倉時代末から武力抗争に発展。南北朝の対立も重なり乱世に拍車を掛けた。
南北朝時代
室町時代
室町幕府の成立で、寺内の対立や国内の戦乱は沈静化するが、葛藤は尾を引いた。 興福寺の事実上の家臣であった衆徒や国民は大名化。 実効支配する領土は奪われていった。
戦国時代
安土桃山時代
織豊政権の成立で、興福寺は勢力を削がれた。
江戸時代
徳川幕府の成立で基盤は安定。 伽藍も復興した。 享保2年(1717)講堂から出火して焼失。 これが大打撃となる。 寛政元年(1789)4月、南円堂を再建。 文政2年(1819)頃、中金堂の仮堂を建立。
近代
明治初年に興福寺は廃絶。ただ廃寺となった決定的要因は、神仏分離よりも寺社領の没収にあった。 財源のほとんどが絶え、権益を失った貴族出身の幹部僧侶は全員還俗。廃寺となった。
寺院としての活動は断絶し、貴族出身でない僧らによって伽藍が守られたが、 興福寺復興の機運が高まって再興した。
現代
現在の伽藍
- 中金堂:
- 仮講堂:
- 南大門跡:
- 般若の芝:
- 経蔵跡:
- 鐘楼跡:
- 東金堂:
- 五重塔:
- 西金堂跡:
- 南円堂:
- 一言観音堂:
- 不動堂:
- 賓頭盧堂:
- 鐘楼:
- 額塚:
- 延命地蔵:
- 摩利支天石:
- 三重塔:
- 興福寺会館:
- 北円堂:
- 国宝館:
- 本坊:
- 本坊持仏堂:
- 大湯屋:
- 大御堂:
- 無縁仏石塔:
- 猿沢池:
- 鶯滝歓喜天:
- 山田寺:
- 興善院:
- 菩提院:
- 大聖院:
- 常如院:
- 賢聖院:
- 勧禅院:
- 南円堂大垣別院:
組織
住職
興福寺別当
凡例
- 『日本仏教基礎講座』掲載の一覧(「基礎講座」と略称)を基礎とする。在職年は主に『日本仏家人名辞書』「法相宗興福寺別当次第」(「仏家次第」と略称)に基づく。略歴・生没年は『日本仏家人名辞書』本文(『仏家』と略称)や「仏家次第」、「基礎講座」、その他の諸書に基づく。
- 現在では住職を貫首(かんす)と呼称する。宗教法人の代表役員を兼ねる。
古代
世数 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 慈訓 | 691-777 | 757- | 法相宗・華厳宗の僧。興福寺別当1世。船氏。河内出身。興福寺で出家して玄昉、良敏に学ぶ。審祥から華厳宗を学ぶ。740年(天平12年)審祥が華厳経の講義をする時に復師を務めた。756年(天平勝宝8年)少僧都。757年(天平宝字1年)別当就任。763年(天平宝字7年)、道鏡政権下で僧位を停止され、寺務は弟子の仁秀が行った。770年(宝亀1年)8月16日少僧都に復帰し、興福寺別当に戻る。777年(宝亀8年)興福寺で死去。弟子に法相宗の永叡(永厳?)、仁秀、華厳宗の正義、明哲がいた。(『仏家』) |
2 | 永厳 | 生没年不詳 | 779- | 興福寺別当2世。慈訓の弟子。772年(宝亀3年)中律師、11月4日大律師。779年(宝亀10年)別当就任。弟子に行賀や常騰。(『仏家』) |
3 | 行賀 | 729-803 | 791- | 興福寺別当3世。長谷寺別当5世。法相宗六祖の一人。上毛氏。大和国広瀬郡出身。永厳に師事。のち元興寺平備に学ぶ。753年(天平勝宝5年)入唐。法相・天台を請来。帰国後、東大寺明一に、質問に即答できなかったことをなじられる。791年(延暦10年)別当就任。803年(延暦22年)2月11日死去。著書多数。(『仏家』) |
4 | 修円 | 771-835 | 812- | 興福寺別当4世。長谷寺別当10世。大和出身。賢憬に師事。812年(弘仁3年)興福寺別当就任。興福寺伝法院、室生寺を創建。室生寺に引退し835年(承和2年)6月15日死去。65歳。弟子に興昭、徳一、寿広、春徳。(『仏家』) |
5 | 隆慧 | 生没年不詳 | 834- | 興福寺別当5世。略歴不詳。834年(承和1年)別当就任。 |
6 | 寿朗 | ?-863 | 847- | 興福寺別当6世。略歴不詳。847年(承和14年)別当就任。863年(貞観5年)死去。 |
7 | 興昭 | ?-883 | 859- | 興福寺別当7世。修円の弟子。859年(貞観1年)別当就任。862年(貞観4年)維摩会講師。863年(貞観5年)1月最勝会講師。883年(元慶7年)1月28日死去。(『仏家』) |
8 | 孝忠 | ?-882 | 877- | 興福寺別当8世。878年(元慶2年)豊楽殿での最勝会講師を務める。877年(元慶1年)別当就任。882年(元慶6年)5月8日死去。(『仏家』) |
9 | 房忠 | 832-893 | 888- | 興福寺別当9世。維摩会講師を経て883年(元慶7年)最勝会講師。同年10月7日、仁寿殿での各宗の僧侶の議論に出仕。888年(仁和4年)興福寺別当(「仏家次第」)(日本人名大辞典では886年(仁和2年))。893年(寛平5年)7月21日死去(「仏家次第」)。(『仏家』) |
10 | 仙忠 | ?-905 | 893- | 興福寺別当10世。略歴不詳。893年(寛平5年)別当就任。905年(延喜5年)6月4日死去。 |
11 | 真覚 | ?-915 | 905- | 興福寺別当11世。略歴不詳。905年(延喜5年)別当就任。915年(延喜15年)12月1日死去。「仏家次第」は「直覚」とする。 |
12 | 基継 | 850-932 | 915- | 興福寺別当12世。越前出身。昌海に師事。909年(延喜9年)維摩会講師。915年(延喜15年)別当就任(「仏家次第」)。弟子に義光。931年(承平1年)2月16日死去(「仏家次第」では930年(延長8年)2月4日)。82歳。(『仏家』) |
13 | 平源 | 861-949 | 931- | 興福寺別当13世。伊勢出身。金勝寺願安に学ぶ。923年(延長1年)維摩会講主。931年(承平1年)別当就任(「仏家次第」では930年(延長8年))。興福寺新院を創建。949年(天暦3年)5月2日死去。89歳。弟子に安秀。(『仏家』) |
14 | 空晴 | 878-957 | 949- | 興福寺別当14世。藤原隆光の子とあるが不詳。あるいは伊勢氏。延賓、基継に師事。932年(承平2年)維摩会講師。喜多院に住す。病気平癒で右大臣藤原師輔の信任を得た。949年(天暦3年)12月26日別当就任(「仏家次第」)。957年(天徳1年)12月9日死去。80歳。弟子に松室仲算、喜多院真喜、一乗院守朝、東大寺平忍(平仁)。「くうせい」「こうしょう」などと訓ずる。(『仏家』『国史大辞典』) |
15 | 助精 | ?-961 | 957- | 興福寺別当15世。略歴不詳。957年(天徳1年)12月17日別当就任。961年(応和1年)4月17日死去。 |
16 | 延空 | ?-967 | 961- | 興福寺別当16世。略歴不詳。961年(応和1年)別当就任。967年(康保4年)7月7日死去。 |
17 | 安秀 | ?-971 | 967- | 興福寺別当17世。963年(応和3年)、村上天皇が各宗派の学僧を集めて議論させた「応和の宗論」に出仕。967年(康保4年)7月20日別当就任。971年(天禄2年)4月16日死去。 |
18 | 定昭 | 906-983 | 971- | 興福寺別当18世。一乗院門跡開山。大覚寺門跡3世。東寺長者。金峰山寺検校。金剛峯寺座主。971年(天禄2年)興福寺別当就任。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
19 | 真喜 | 927-1000 | 983- | 興福寺別当19世。983年(永観1年)別当就任。1000年(長保2年)2月7日死去。 |
20 | 定澄 | ?-1015 | 1000- | 興福寺別当20世。略歴不詳。1000年(長保2年)8月29日別当就任。1015年(長和4年)11月1日死去。 |
21 | 林懐 | 951-1025 | 1016- | 興福寺別当21世。1016年(長和5年)5月15日別当就任。1025年(万寿2年)4月4日死去。 |
22 | 扶公 | 966-1035 | 1025- | 興福寺別当22世。万寿2年(1025)6月27日別当就任。1035年(長元8年)7月7日死去。 |
23 | 経救 | 978-1044 | 1035- | 興福寺別当23世。1035年(長元8年)8月27日別当就任。1044年(寛徳1年)5月2日死去。 |
24 | 真範 | 986/987-1054 | 1044- | 興福寺別当24世。一乗院門跡3世。大覚寺門跡5世、元興寺別当、長谷寺別当27世。1044年(寛徳1年)6月25日興福寺別当就任。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
25 | 円縁 | ?-1060 | 1055- | 興福寺別当25世。扶公の弟子。中宮院(慈明寺?)に住す。1055年(天喜3年)1月23日別当就任。1060年(康平3年)5月1日死去。西大寺別当。(『仏家』ほか) |
26 | 明懐 | 988-1072 | 1060- | 興福寺別当26世。長谷寺別当28世。1060年(康平3年)6月16日別当就任。1072年(延久4年)8月2日死去。 |
27 | 頼信 | 1010-1076 | 1062- | 興福寺別当27世。一乗院門跡4世。大覚寺門跡6世。長谷寺別当29世。龍華樹院開山。1062年(康平5年)8月14日興福寺別当就任。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
28 | 公範 | ?-1086 | 1076- | 興福寺別当28世。法隆寺別当26世。長谷寺別当31世。平以康の子。1053年(天喜1年)維摩会講師。はじめ新院に住す。弟子に俊範。1076年(承保3年)8月17日別当就任。1086年(応徳3年)10月9日死去(「仏家次第」では19日死去)。(『仏家』) |
29 | 頼尊 | ?-1100 | 1089- | 興福寺別当29世。一乗院門跡5世。大覚寺門跡7世。1089年(寛治3年)3月6日別当就任。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
30 | 覚信 | 1065-1121 | 1100- | 興福寺別当30世。一乗院門跡6世。大覚寺門跡8世。1100年(康和2年)8月20日別当就任。1121年(保安2年)5月8日死去。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
31 | 永縁 | 1048-1125 | 1121- | 興福寺別当31世。1121年(保安2年)10月27日別当就任。1125年(天治2年)4月5日死去。 |
32 | 玄覚 | ?-1138 | 1125- | 興福寺別当32世・34世。一乗院門跡7世。大覚寺門跡9世。1125年(天治2年)4月26日別当就任。1132年(長承1年)7月8日再任。1138年(保延4年)9月21日死去。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
33 | 経尋 | ?-1132 | 1129- | 興福寺別当33世。法隆寺別当32世。略歴不詳。1129年(大治4年)12月10日別当就任。1132年(長承1年)6月3日死去。 |
34 | 玄覚 | ?-1138 | 1132- | 再任。32世・34世。 |
35 | 隆覚 | 1074-1158 | 1138- | 興福寺別当35世・38世。薬師寺別当。法華寺別当。1138年(保延4年)10月29日興福寺別当就任。1150年(久安6年)8月16日別当再任(8月はかすれて読みづらい)。1158年(保元3年)6月4日死去。 |
36 | 覚誉 | ?-1146 | 1139- | 興福寺別当36世。法隆寺別当33世。略歴不詳。1139年(保延5年)12月15日別当就任。1146年(久安2年)12月17日死去。 |
37 | 覚晴 | ?-1148 | 1147- | 興福寺別当37世。法隆寺別当34世。薬師寺別当。左大臣藤原宗忠の子。湛秀に師事。1114年(永久2年)維摩会講師。唐院に住す。1147年(久安3年)2月13日別当就任。1148年(久安4年)5月17日死去。(『仏家』) |
38 | 隆覚 | 1074-1158 | 1150- | 再任。35世・38世。 |
39 | 恵信(覚継) | 1124-1171 | 1157- | 興福寺別当39世。一乗院門跡9世。大覚寺門跡11世。九条兼実の兄。覚継とも。1157年(保元2年)10月6日別当就任。1171年(承安1年)9月25日死去。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
40 | 尋範 | 1101-1174 | 1164- | 興福寺別当40世。大乗院門跡3世。長谷寺別当36世。内山永久寺住職。1164年(長寛2年)5月11日別当就任。1174年(承安4年)4月9日死去。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) |
41 | 覚珍 | ?-1175 | 1173- | 興福寺別当41世。略歴不詳。1173年(承安3年)8月24日別当就任。1175年(安元1年)10月24日死去。 |
42 | 教縁 | ?-1179 | 1175- | 興福寺別当42世。略歴不詳。1175年(安元1年)11月8日別当就任。1179年(治承3年)4月12日死去。 |
43 | 玄縁 | ?-1179 | 在職年不詳 | 興福寺別当43世。長谷寺別当39世。略歴不詳。1179年(治承3年)4月29日死去。 |
鎌倉時代
- 44信円(1153-1224)<1181->:興福寺別当44世。一乗院門跡10世と大乗院門跡4世を兼務。長谷寺別当41世。1181年(養和1年)1月29日別当就任(「仏家次第」)。(略歴は興福寺一乗院#組織を参照)
- 45覚憲(1131-1212)<1189->:法相宗・律宗の僧。興福寺別当45世。唐招提寺長老18世。藤原通憲の子。蔵俊に師事。法相と戒律を学ぶ。壺阪寺に住し、宝積院住職となる。1189年(文治5年)5月28日別当就任(「仏家次第」)。1195年(建久6年)春、東大寺大仏殿再建の落慶法要の導師を務めた。1212年(建暦2年)12月27日死去。82歳。著書に『三国通鈔』。(『仏家』)
- 46範玄(?-1199)<1195->:興福寺別当46世。法隆寺別当39世。1195年(建久6年)2月28日別当就任(「仏家次第」)。1199年(正治1年)6月1日死去(「基礎講座」)。
- 47雅縁(1138-1223)<1198->:興福寺別当47世・49世・51世・53世。薬師寺別当。1195年(建久6年)12月25日、興福寺権別当。1198年(建久9年)12月20日、興福寺別当(1度目。退任は1202年(建仁2年)7月13日か)。1202年(建仁2年)7月13日、権法務。1208年(承元2年)2月10日から1213年(建保1年)11月24日まで興福寺別当(2度目)。1208年(承元2年)9月7日、探題を辞す。1217年(建保5年)12月7日、興福寺別当(3度目)。1218年(建保6年)12月12日、衆徒が蜂起して雅縁の側近を衆勘に処し、雅縁は興福寺別当を退任。1220年(承久2年)1月18日から1223年(貞応2年)2月7日まで興福寺別当(4度目)。1223年(貞応2年)2月21日死去。弘雅とも。(大日本史料総合DBほか)
- 48良円(1178-1220)<1207-1208>:興福寺別当48世・52世。一乗院門跡11世。1207年(承元1年)1月22日から1208年(承元2年)2月10日まで別当(大日本史料DB)。1218年(建保6年)12月26日別当再任(「仏家次第」)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 49雅縁(1138-1223)<1208-1213>:再任。47世・49世・51世・53世。1208年(承元2年)2月10日から1213年(建保1年)11月24日まで興福寺別当。
- 50信憲(1145-1225)<1213-1217>:興福寺別当50世。1145年(久安1年)生。権別当となり、1208年(承元2年)9月7日探題(大日本史料DB)。1213年(建保1年)12月4日(「仏家次第」。大日本史料DBでは11月24日)から1217年(建保5年)12月7日まで興福寺別当。1225年(嘉禄1年)9月11日死去(「基礎講座」)。
- 51雅縁(1138-1223)<1217-1218>:再任。47世・49世・51世・53世。1217年(建保5年)12月7日、興福寺別当(3度目)。1218年(建保6年)12月12日、衆徒が蜂起して雅縁の側近を衆勘に処し、雅縁は興福寺別当を退任。
- 52良円(1178-1220)<1218-1220>:再任。48世・52世。1218年(建保6年)12月26日別当再任(「仏家次第」)。1220年(承久2年)1月14日、在職で死去。
- 53雅縁(1138-1223)<1220-1223>:再任。47世・49世・51世・53世。1220年(承久2年)1月18日から1223年(貞応2年)2月7日まで興福寺別当(4度目)。
- 54範円(生没年不詳)<1653-1226>:興福寺別当54世。法隆寺別当43世。1226年(嘉禄2年)6月27日辞任(「仏家次第」)。1653年(承応2年)2月9日別当就任、1226年(嘉禄2年)6月27日退任(「仏家次第」)。1227年(安貞1年)2月22日、法隆寺別当(大日本史料DB)。
- 55実尊(1180-1236)<1226-1230>:興福寺別当55世。大乗院門跡5世。長谷寺別当42世。1226年(嘉禄2年)7月2日別当就任(「仏家次第」)。1228年(安貞2年)4月23日、興福寺衆徒が多武峰を焼き、そのため別当を辞任(DB)。同年8月13日、興福寺別当に復帰(DB)。1230年(寛喜2年)3月9日退任(DB)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 56実信(?-1256)<1230-1232>:興福寺別当56世・58世・61世・63世・66世。一乗院門跡12世。1230年(寛喜2年)3月21日から1232年(貞永1年)2月20日まで興福寺別当(「仏家次第」、1度目)。1233年(天福1年)3月28日から1235年(嘉禎1年)2月22日まで興福寺別当(「仏家次第」、2度目)。1245年(寛元3年)12月2日から1247年(宝治1年)11月24日まで興福寺別当(「仏家次第」、3度目)。1248年(宝治2年)閏12月18日から1249年(建長1年)7月10日まで興福寺別当(「仏家次第」、4度目)。1250年(建長2年)10月28日、興福寺別当(「仏家次第」、5度目)。1256年(康元1年)10月17日死去(「基礎講座」)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 57円玄(?-1250)<1232-1233>:興福寺別当57世・64世。薬師寺別当。1232年(貞永1年)3月9日から1233年(天福1年)3月20日まで興福寺別当(「仏家次第」)。1249年(建長1年)8月20日から翌年1月10日まで興福寺別当(「仏家次第」)。1250年(建長2年)11月28日死去(「基礎講座」)。
- 58実信(?-1256)<1233-1235>:再任。56世・58世・61世・63世・66世。1233年(天福1年)3月28日から1235年(嘉禎1年)2月22日まで興福寺別当(「仏家次第」、2度目)。
- 59円実(1214-1272)<1235->:興福寺別当59世・69世。大乗院門跡6世。長谷寺別当43世。1235年(嘉禎1年)3月4日別当就任(「仏家次第」)。同年閏6月25日の衆徒蜂起の責任で辞任。1236年(嘉禎2年)2月19日、興福寺別当に復帰。1243年(寛元1年)末頃退任か。1258年(正嘉2年)10月18日別当再任(「仏家次第」)。1259年(正元1年)退任か。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 60定玄(?-1247)<1244-1245>:興福寺別当60世。権別当を経て1244年(寛元2年)1月2日から1245年(寛元3年)11月29日まで興福寺別当(「仏家次第」)。1247年(宝治1年)7月11日死去(「基礎講座」)。
- 61実信(?-1256)<1245-1247>:再任。56世・58世・61世・63世・66世。1245年(寛元3年)12月2日から1247年(宝治1年)11月24日まで興福寺別当(「仏家次第」、3度目)。
- 62覚遍(?-1258)<1247-1248>:興福寺別当62世。権別当を経て1247年(宝治1年)12月28日別当就任(「仏家次第」)。1248年(宝治2年)退任。1258年(正嘉2年)7月29日死去(「基礎講座」)。
- 63実信(?-1256)<1248-1249>:再任。56世・58世・61世・63世・66世。1248年(宝治2年)閏12月18日から1249年(建長1年)7月10日まで興福寺別当(「仏家次第」、4度目)。
- 64円玄(?-1250)<1249-1250>:再任。57世・64世。1249年(建長1年)8月20日から翌年1月10日まで興福寺別当(「仏家次第」)。同年死去。
- 65公縁(生没年不詳)<1250-1250>:興福寺別当65世。参議藤原実相の子。興福寺憲円に師事。東北院円玄に学ぶ。1212年(建暦2年)維摩会講師。1250年(建長2年)1月21日別当就任、同年10月28日退任(「仏家次第」)。建長年間死去。69歳。(『仏家』)
- 66実信(?-1256)<1250-1253>:再任。56世・58世・61世・63世・66世。1250年(建長2年)10月28日、興福寺別当(「仏家次第」、5度目)。1253年(建長5年)退任か。
- 67親縁(生没年不詳)<1253->:興福寺別当67世。薬師寺別当。1253年(建長5年)10月15日別当就任(「仏家次第」、大日本史料DBでは12月12日)。
- 68良盛(1196-1262)<1256->:興福寺別当68世。法隆寺別当48世。1256年(康元1年)2月21日別当就任(「仏家次第」)。1259年(正元1年)5月27日、興福寺別当。まもなく退任か。(略歴は、法隆寺#組織を参照)
- 69円実(1214-1272)<1258->:再任。59世・69世。1258年(正嘉2年)10月18日別当再任(「仏家次第」)。1259年(正元1年)退任か。
- (良盛)(1196-1262)<1259-1259>:1259年(正元1年)5月27日、興福寺別当。まもなく退任か。
- 70尊信(1226-1283)<1259-1266>:興福寺別当70世・75世。大乗院門跡8世。薬師寺寺務。長谷寺別当44世。1259年(正元1年)11月21日別当就任、1266年(文永3年)4月4日退任(「仏家次第」)。1278年(弘安1年)1月16日から1279年(弘安2年)12月2日まで再び興福寺別当(大日本史料総合DB)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 71頼円(生没年不詳)<1266->:法相宗の僧。興福寺別当71世。法隆寺別当49世。中納言藤原頼資の子。興福寺良兼に師事。13歳で最勝会講師。東光院に住す。1266年(文永3年)7月2日別当就任(「仏家次第」)(『法隆寺別当次第』には1262年(弘長2年)6月16日、興福寺別当に就任とある)。
- 72実性(生没年不詳)<1268-1273>:興福寺別当72世。薬師寺別当。1268年(文永5年)12月28日別当就任、1273年(文永10年)4月16日退任(「仏家次第」)。
- 73信昭(1253-1286)<1273-1275>:興福寺別当73世・76世。一乗院門跡14世。1273年(文永10年)4月21日別当就任、1275年(建治1年)12月29日退任(「仏家次第」)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 74性誉(?-1306)<1276-1277>:興福寺別当74世・84世。法隆寺別当54世。1276年(建治2年)8月別当就任、翌年12月29日退任(「仏家次第」)。1292年(正応5年)6月6日から1293年(永仁1年)まで興福寺別当(寺務次第)。1295年(永仁3年)法隆寺別当に補任。在職4年。1306年(徳治1年)12月24日死去(「基礎講座」)。
- 75尊信(1226-1283)<1278-1279>:再任。70世・75世。1278年(弘安1年)1月16日から1279年(弘安2年)12月2日まで再び興福寺別当(大日本史料総合DB)。
- 76信昭(1253-1286)<1279->:再任。73世・76世。1279年(弘安2年)12月10日、興福寺別当に再任。1281年(弘安4年)大僧正。1286年(弘安9年)6月14日、死去。36歳。
- 77慈信(1257-1325)<1281-1281>:法務。興福寺別当77世・80世・83世・85世・歴代外・90世・113世。大乗院門跡9世。薬師寺別当。長谷寺別当45世・48世。橘寺別当。金峰山寺検校。1257年(正嘉1年)生。摂政関白一条実経の子。尊信に師事。1265年(文永2年)得度。1270年(文永7年)維摩会竪義。1275年(建治1年)維摩会講師。1361年(康安1年)維摩会他寺探題。1279年(弘安2年)権僧正。1281年(弘安4年)4月6日から同年10月5日まで興福寺別当(1度目)。春日神木入洛により辞任。1284年(弘安7年)僧正。1286年(弘安9年)5月、大僧正。1286年(弘安9年)閏12月25日から1288年(正応1年)2月19日(5月23日とも)まで興福寺別当(2度目)。1287年(弘安10年)10月、法務。1291年(正応4年)3月17日から1292年(正応5年)1月14日まで興福寺別当(3度目)。1293年(永仁1年)8月3日から1295年(永仁3年)5月5日まで興福寺別当(4度目)。年月不詳だが興福寺別当に再任し、1296年(永仁4年)9月16日まで務めた(5度目)。1300年(正安2年)11月4日から1301年(正安3年)9月4日まで興福寺別当(6度目)。1323年(元亨3年)5月9日から同年8月15日まで興福寺別当(7度目)。1325年(正中2年)閏1月26日死去(「基礎講座」)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 78玄雅(?-1283)<1282-1283>:興福寺別当78世。法隆寺別当50世。自坊は中南院。1266年(文永3年)7月28日法隆寺別当に補任(法隆寺別当次第)。1282年(弘安5年)12月19日、興福寺別当(大日本史料DB)。1283年(弘安6年)12月8日、死去(「基礎講座」)。興福寺と法隆寺の別当在職での死去とみられる。
- 79宗懐(?-1289)<1283-1286>:興福寺別当79世。権別当を経て1283年(弘安6年)10月28日から1286年(弘安9年)まで興福寺別当(大日本史料DB)。1289年(正応2年)3月25日死去(「基礎講座」)。
- 80慈信(?-1325)<1286-1288>:再任。77世・80世・83世・85世・90世・113世。1286年(弘安9年)閏12月25日から1288年(正応1年)2月19日(5月23日とも)まで興福寺別当(2度目)。
- 81尊清(?-1289)<1288-1289>:興福寺別当81世。自坊は勝願院。権別当を経て1288年(正応1年)5月26日、興福寺別当(大日本史料DB)。1289年(正応2年)9月2日死去(興福寺寺務次第)。
- 82実懐(1235-1291)<1289-?>:興福寺別当82世。法隆寺別当52世。自坊は興福寺松林院。1257年(正嘉1年)研学竪義。1281年(弘安4年)他寺探題。1284年(弘安7年)10月、法隆寺別当就任。1288年(正応1年)6月15日、興福寺権別当。1289年(正応2年)8月16日、興福寺別当(大日本史料DB)。退任年不詳。1291年(正応4年)4月24日死去(大日本史料DB)。57歳。法印。
- 83慈信(?-1325)<1291-1292>:再任。77世・80世・83世・85世・90世・113世。1291年(正応4年)3月17日から1292年(正応5年)1月14日まで興福寺別当(3度目)。
- 84性誉(?-1306)<1292-1293>:再任。74世・84世。1292年(正応5年)6月6日から1293年(永仁1年)まで興福寺別当(寺務次第)。
- 85慈信(?-1325)<1293-1295>:再任。77世・80世・83世・85世・90世・113世。1293年(永仁1年)8月3日から1295年(永仁3年)5月5日まで興福寺別当(4度目)。
- 86顕覚(1239-1297)<1295-?>:興福寺別当86世。薬師寺別当。内大臣堀川具実の子。1239年(延応1年)生。1295年(永仁3年)6月9日興福寺別当(帝王編年記)。1297年(永仁5年)3月3日死去(「基礎講座」)。
- (慈信)(?-1325)<?-1296>:年月不詳だが興福寺別当に再任し、1296年(永仁4年)9月16日まで務めた(5度目)。
- (覚意)()<1296-?>:一乗院門跡という。1296年(永仁4年)9月16日、興福寺別当(興福寺略年代記)。
- 87尊憲(生没年不詳)<1297->:興福寺別当87世。1297年(永仁5年)3月16日興福寺別当。松室院。
- 88実昭(?-1299)<1298-1299>:興福寺別当88世。姉小路実尚の子。1297年(永仁5年)3月興福寺権別当。1298年(永仁6年)4月6日、権僧正。同年5月29日から1299年(正安1年)5月2日まで興福寺別当。5月4日死去。東光院に住す。
- 89範憲(1247-1339)<1299->:興福寺別当89世・92世・96世・102世・116世。出自不詳。興福寺尊憲の真弟子(実子)。中御門宗雅の猶子となる。東光院に住す。1278年(弘安1年)維摩会講師。1299年(正安1年)6月3日、興福寺別当(1度目)。在職1年。三蔵院を創建。1302年(乾元1年)11月15日、別当再任(2度目)。在職1年。1307年(徳治2年)1月11日、別当再任(3度目)。在職4カ月。1313年(正和2年)7月1日から翌年1月まで興福寺別当(4度目)。1327年(嘉暦2年)11月18日から翌年3月まで興福寺別当(5度目)。1339年(暦応2年)12月17日死去。93歳。(『日本仏家人名辞書増補』)
- 90慈信(?-1325)<1300-1301>:再任。77世・80世・83世・85世・90世・113世。1300年(正安2年)11月4日から1301年(正安3年)9月4日まで興福寺別当(6度目)。
- 91経誉(1244-)<1301->:興福寺別当91世。1244年(寛元2年)生。1301年(正安3年)9月12日興福寺別当。この時権僧正。在職1年。修学房。奥西院。
- 92範憲(1247-1339)<1302->:再任。89世・92世・96世・102世・116世。1302年(乾元1年)11月15日、別当再任(2度目)。在職1年。
- 93覚昭(?-1308)<1303->:興福寺別当93世。一乗院門跡17世。大覚寺門跡19世。1303年(嘉元1年)11月1日、興福寺別当93世。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 94尋覚(1282-1318)<1304-1306>:興福寺別当94世・99世・103世。大乗院門跡10世。薬師寺別当。長谷寺別当46世。1304年(嘉元2年)12月29日から1306年(徳治1年)4月24日まで興福寺別当94世(1度目)。1308年(延慶1年)10月6日、興福寺別当99世(2度目)。1315年(正和4年)2月9日興福寺別当103世(3度目)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 95宗親(生没年不詳)<1306->:興福寺別当95世。法隆寺別当56世。自坊は興福寺東林院。1301年(正安3年)9月12日興福寺権別当。1304年(嘉元2年)3月1日法隆寺別当に補任。在職1年。1306年(徳治1年)5月9日、興福寺別当。法印。
- 96範憲(1247-1339)<1307-1307>:再任。89世・92世・96世・102世・116世。1307年(徳治2年)1月11日、別当再任(3度目)。在職4カ月。
- 97良信(1278-1329)<1307-1307>:興福寺別当97世・100世・105世・114世。一乗院門跡18世。大覚寺門跡20世。1307年(徳治2年)4月23日から12月13日まで興福寺別当(1度目)。1310年(延慶3年)3月14日から1312年(正和1年)2月28日まで興福寺別当(2度目)。1316年(正和5年)11月28日から1317年(文保1年)11月18日まで興福寺別当(3度目)。1323年(元亨3年)8月15日から1326年(嘉暦1年)12月27日まで興福寺別当(4度目)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 98公寿(?-1315)<1308-1308>:興福寺別当98世。法隆寺別当55世・57世。1308年(延慶1年)7月1日興福寺別当。1315年(正和4年)10月16日死去(「基礎講座」)。
- 99尋覚(1282-1318)<1308->:再任。94世・99世・103世。1308年(延慶1年)10月6日、興福寺別当99世(2度目)。
- 100良信(1278-1329)<1310-1312>:再任。97世・100世・105世・114世。1310年(延慶3年)3月14日から1312年(正和1年)2月28日まで興福寺別当(2度目)。
- 101信顕(?-1313)<1312->:興福寺別当101世。中院通成の子。1308年(延慶1年)7月1日興福寺権別当。1312年(正和1年)3月3日、興福寺別当。在職1年。1313年(正和2年)1月10日死去(「基礎講座」。「応長三年」とあるのを改元を記さない誤記とみなし「正和二年」とみなした)。福薗院。
- 102範憲(1247-1339)<1313-1314>:再任。89世・92世・96世・102世・116世。1313年(正和2年)7月1日から翌年1月まで興福寺別当(4度目)。
- 103尋覚(1282-1318)<1315-1315>:再任。94世・99世・103世。1315年(正和4年)2月9日興福寺別当103世(3度目)。
- 104実聡(?-1328)<1315->:興福寺別当104世。法隆寺別当58世。自坊は興福寺西南院。1308年(延慶1年)7月3日法隆寺別当に補任。在職8年。1315年(正和4年)12月4日興福寺別当。1328年(嘉暦3年)1月4日死去(「基礎講座」)。
- 105良信(1278-1329)<1316-1317>:再任。97世・100世・105世・114世。1316年(正和5年)11月28日から1317年(文保1年)11月18日まで興福寺別当(3度目)。
- 106良覚(?-1332)<1317-1318>:興福寺別当106世・108世・110世・117世・119世。一乗院門跡19世。1317年(文保1年)11月29日から翌年6月16日まで興福寺別当(1度目)。1318年(文保2年)11月29日から興福寺別当(2度目)。1321年(元亨1年)2月26日から同年9月21日まで興福寺別当(3度目)。1328年(嘉暦3年)3月3日から1329年(元徳1年)2月9日まで興福寺別当(4度目)。1330年(元徳2年)1月29日興福寺別当(5度目)。1332年(正慶1年)8月14日死去(「基礎講座」)。 (略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 107隆遍(?-1338)<1318-1318>:興福寺別当107世。法隆寺別当59世。自坊は興福寺修南院。四条隆親の子。興福寺の澄誠に師事。1315年(正和4年)法隆寺別当。在職2年。1318年(文保2年)7月13日興福寺別当。1338年(延元3年/暦応1年)閏7月17日死去(「基礎講座」)。(略歴は、法隆寺#組織を参照)
- 108良覚(?-1332)<1318->:再任。106世・108世・110世・117世・119世。1318年(文保2年)11月29日から興福寺別当(2度目)。
- 109覚円(?-1340)<1319->:興福寺別当109世・122世。自坊は東北院。1319年(元応1年)12月22日、興福寺別当(1度目)(「僧官補任」の元応3年や、「寺務次第」の1319年(元応1年)1月は誤り)。1340年(暦応3年)6月29日死去(「基礎講座」)。
- 110良覚(?-1332)<1321-1321>:再任。106世・108世・110世・117世・119世。1321年(元亨1年)2月26日から同年9月21日まで興福寺別当(3度目)。
- 111顕親(生没年不詳)<1321-1321>:興福寺別当111世。1321年(元亨1年)9月から11月6日まで興福寺別当。
- 112覚尊(?-1339)<1321-1323>:興福寺別当112世・118世。薬師寺別当。長谷寺別当47世・50世・52世。1321年(元亨1年)11月6日から1323年(元亨3年)4月17日まで興福寺別当。1329年(元徳1年)3月25日から翌年1月27日まで興福寺別当。1339年(暦応2年)5月11日死去(「基礎講座」)。大乗院門跡?。瑜伽神社の近くに覚尊を祀った新宮社があったという。
- 113慈信(?-1325)<1323-1323>:再任。77世・80世・83世・85世・90世・113世。1323年(元亨3年)5月9日から同年8月15日まで興福寺別当(7度目)。
- 114良信(1278-1329)<1323-1326>:再任。97世・100世・105世・114世。1323年(元亨3年)8月15日から1326年(嘉暦1年)12月27日まで興福寺別当(4度目)。
- 115顕昭(?-1329)<1326->:興福寺別当115世。1326年(嘉暦1年)12月27日から興福寺別当。1329年(元徳1年)8月16日死去(「基礎講座」)。
- 116範憲(1247-1339)<1327-1328>:再任。89世・92世・96世・102世・116世。1327年(嘉暦2年)11月18日から翌年3月まで興福寺別当(5度目)。
- 117良覚(?-1332)<1328-1329>:再任。106世・108世・110世・117世・119世。1328年(嘉暦3年)3月3日から1329年(元徳1年)2月9日まで興福寺別当(4度目)。
- 118覚尊(?-1339)<1329-1330>:再任。112世・118世。1329年(元徳1年)3月25日から翌年1月27日まで興福寺別当。
- 119良覚(?-1332)<1330-1332?>:再任。106世・108世・110世・117世・119世。1330年(元徳2年)1月29日興福寺別当(5度目)。1332年(正慶1年)8月14日死去(「基礎講座」)。
南北朝・室町時代
- 120乗円(生没年不詳)<1332-1333>:興福寺別当120世。1326年(嘉暦1年)12月27日、興福寺権別当。1332年(元弘2年/正慶1年)8月17日、興福寺別当。1333年(元弘3年/正慶2年)6月14日、権別当に降格される。竹林院。
- 121覚実(1306-1352)<1333-1336>:興福寺別当121世・123世・125世。一乗院門跡21世。近衛家平の子。1306年(徳治1年)生。1333年(元弘3年/正慶2年)6月14日から1336年(延元1年/建武3年)11月24日まで興福寺別当(1度目)。1337年(延元2年/建武4年)6月11日、興福寺再任(2度目)。1340年(興国1年/暦応3年)4月26日に一旦退任するが同年6月4日に復帰。同年10月24日に退任し、半年の空白を得て1341年(興国2年/暦応4年)8月24日から11月7日まで興福寺別当を務めた。また半年の空白を挟んで1342年(興国3年/康永1年)6月23日から1343年(興国4年/康永2年)4月11日まで興福寺別当(ここまで2度目とみなす)。1346年(正平1年/貞和2年)2月17日から12月26日まで興福寺別当(3度目)。1352年(正平7年/文和1年)5月18日死去(1396年(応永3年)2月27日死去(「仏家次第」)とも)。大僧正。後喜光寺と号す。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 122覚円(?-1340)<1336-1337>:再任。109世・122世。1336年(延元1年/建武3年)11月24日から1337年(延元2年/建武4年)まで興福寺別当。
- 123覚実(1306-1352)<1337-1343>:再任。121世・123世・125世。1337年(延元2年/建武4年)6月11日、興福寺再任(2度目)。1340年(興国1年/暦応3年)4月26日に一旦退任するが同年6月4日に復帰。同年10月24日に退任し、半年の空白を得て1341年(興国2年/暦応4年)8月24日から11月7日まで興福寺別当を務めた。また半年の空白を挟んで1342年(興国3年/康永1年)6月23日から1343年(興国4年/康永2年)4月11日まで興福寺別当(ここまで2度目とみなす)。
- 124孝覚(1319-1368)<1343-1345>:興福寺別当124世・127世・129世。大乗院門跡13世。薬師寺別当。長谷寺別当53世。橘寺別当。1343年(興国4年/康永2年)8月3日から11月21日まで興福寺別当。同年12月5日から1344年(興国5年/康永3年)11月4日まで興福寺別当。1345年(興国6年/貞和1年)2月16日から12月23日まで興福寺別当(ここまで1度目とみなす)。1347年(正平2年/貞和3年)10月23日から1348年(正平3年/貞和4年)12月21日まで興福寺別当。1349年(正平4年/貞和5年)3月14日から1354年(正平9年/文和3年)5月頃まで興福寺別当。また再任して1366年(正平21年/貞治5年)12月5日に退任(ここまで2度目とみなす)。1368年(正平23年/応安1年)3月25日興福寺別当に再任(3度目)するが同年9月19日死去。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 125覚実(1306-1352)<1346-1346>:再任。121世・123世・125世。1346年(正平1年/貞和2年)2月17日から12月26日まで興福寺別当(3度目)。
- 126良暁(1285-?)<1347-1347>:興福寺別当126世。法隆寺別当66世。自坊は興福寺修南院。1285年(弘安8年)生。1344年(康永3年)2月19日法隆寺別当に補任。在職2年。1347年(正平2年/貞和3年)2月6日から10月23日まで興福寺別当。(略歴は、法隆寺#組織を参照)
- 127孝覚(1319-1368)<1347-1366>:再任。124世・127世・129世。1347年(正平2年/貞和3年)10月23日から1348年(正平3年/貞和4年)12月21日まで興福寺別当。1349年(正平4年/貞和5年)3月14日から1354年(正平9年/文和3年)5月頃まで興福寺別当。また再任して1366年(正平21年/貞治5年)12月5日に退任(ここまで2度目とみなす)。
- 128懐雅(1301-1370)<1366-1368>:興福寺別当128世。法隆寺別当69世。自坊は興福寺松林院。1352年(正平7年/文和1年)10月9日法隆寺別当に補任。1366年(正平21年/貞治5年)12月25日から1368年(正平23年/応安1年)3月11日まで興福寺別当。1370年(建徳1年/応安3年)2月6日死去。70歳。法印。
- 129孝覚(1319-1368)<1368-1368>:再任。124世・127世・129世。1368年(正平23年/応安1年)3月25日興福寺別当に再任(3度目)するが同年9月19日死去。
- 130頼乗(生没年不詳)<1368->:興福寺別当130世。法隆寺別当70世。自坊は興福寺安養院。1366年(正平21年/貞治5年)12月25日、興福寺権別当。1368年(正平23年/応安1年)10月3日、興福寺別当。1370年(応安3年)2月21日法隆寺別当。在職2年。(略歴は、法隆寺#組織を参照)
- 131盛深(生没年不詳)<1370-1370>:興福寺別当131世・133世。1368年(正平23年/応安1年)10月3日頃、権別当。1370年(建徳1年/応安3年)2月13日、興福寺別当。
- 132顕遍(生没年不詳)<1370-1372>:興福寺別当132世。権別当を経て1370年(建徳1年/応安3年)12月25日から1372年(文中1年/応安5年)1月まで興福寺別当。
- 133盛深(生没年不詳)<1372->:再任。131世・133世。1372年(文中1年/応安5年)1月22日から興福寺別当。
- 134実遍(1311-1382)<1373->:興福寺別当134世・137世・139世。洞院公敏の子。1311年(応長1年)生。自坊は法雲院。法隆寺別当72世。1373年(文中2年/応安6年)12月21日興福寺別当。1379年(天授5年/康暦1年)6月2日、興福寺別当。10月20日入洛。1380年(天授6年/康暦2年)退任。1381年(弘和1年/永徳1年)2月11日興福寺別当。1382年(弘和2年/永徳2年)3月16日死去。72歳。
- 135印覚(?-1378)<1377-1377>:興福寺別当135世。東北院。1377年(天授3年/永和3年)8月12日興福寺別当。1378年(永和4年)1月17日死去(「基礎講座」)。
- 136隆円(1317-1379)<1377->:興福寺別当136世。1317年(文保1年)生。1377年(天授3年/永和3年)12月27日興福寺別当。1379年(天授5年/康暦1年)5月17日死去。63歳。慈恩院。
- 137実遍(1311-1382)<保留>:再任。134世・137世・139世。
- 138円守(生没年不詳)<1378->:興福寺別当138世・140世。法隆寺別当74世。1378年(天授4年/永和4年)3月24日興福寺別当。1380年(天授6年/康暦2年)8月25日興福寺別当。1382年(弘和2年/永徳2年)3月10日興福寺別当。東院。
- 139実遍(1311-1382)<保留>:再任。134世・137世・139世。
- 140円守(生没年不詳)<保留>:再任。138世・140世。
- 141孝憲(生没年不詳)<>:興福寺別当141世。法隆寺別当73世。
- 142覚成(生没年不詳)<1386->:興福寺別当142世。1386年(元中3年/至徳3年)5月3日、興福寺別当。
- 143覚家(生没年不詳)<1387->:興福寺別当143世。西南院。1386年(元中3年/至徳3年)興福寺権別当。1387年(元中4年/嘉慶1年)1月28日、興福寺別当。
- 144円兼(?-1399)<1388-1388>:興福寺別当144世・150世。東北院。1363年(正平18年/貞治2年)竪義。1376年(天授2年/永和2年)や1377年(天授3年/永和3年)に覚家と事を争い兵を交える。1383年(弘和3年/永徳3年)講師。1386年(元中3年/至徳3年)他寺探題。1388年(嘉慶2年)2月25日から10月まで興福寺別当。1397年(応永4年)7月28日から1398年(応永5年)6月2日まで興福寺別当再任。退任と同時に大僧正となる。1399年(応永6年)5月2日死去。享年不詳。
- 145良昭(1385-1414)<1388->:興福寺別当145世・151世。一乗院門跡25世。1388年(元中5年/嘉慶2年)10月9日、興福寺別当。この時法印。1398年(応永5年)6月2日から1400年(応永7年)3月15日まで興福寺別当再任。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 146孝尋(?-1428)<1390->:興福寺別当146世・148世。大乗院門跡15世。長谷寺別当56世。橘寺別当。法務。鷹司冬通の子。九条経教の猶子。1387年(元中4年/嘉慶1年)維摩会講師。1390年(元中7年/明徳1年)3月12日、興福寺別当146世となり、1394年(応永1年)12月23日、興福寺別当148世に再任。1428年(正長1年)4月18日死去。大僧正。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 147長懐(1342-1396)<1392-1394>:興福寺別当147世。法隆寺別当75世。1342年(興国3年/康永1年)生。1392年(元中9年/明徳3年)12月23日から1394年(応永1年)12月23日まで興福寺別当。1396年(応永3年)7月12日死去。松林院。
- 148孝尋(?-1428)<1394->:再任。1394年(応永1年)12月23日、興福寺別当。
- 149長雅(?-1410)<1395-1397>:興福寺別当149世。薬師寺別当。太政大臣久我通相の子。1395年(応永2年)11月17日から1397年(応永4年)7月28日まで興福寺別当。1406年(応永13年)6月2日まで薬師寺別当。1410年(応永17年)8月7日死去。北戒壇院。大僧正。
- 150円兼(?-1399)<1397-1398>:再任。144世・150世。1397年(応永4年)7月28日から1398年(応永5年)6月2日まで興福寺別当。
- 151良昭(1385-1414)<1398-1400>:再任。145世・151世。1398年(応永5年)6月2日から1400年(応永7年)3月15日まで興福寺別当。
- 152実恵(生没年不詳)<1400-1402>:興福寺別当152世。修南院。1375年(天授1年/永和1年)竪義。1389年(元中6年/康応1年)(1379年(天授5年/康暦1年)とも)維摩会講師。1393年(明徳4年)初めて探題を務める。1395年(応永2年)12月17日、興福寺権別当。1400年(応永7年)3月15日から1402年(応永9年)5月まで興福寺別当。1403年(応永10年)3月16日(1406年(応永13年)10月6日とも)死去。70歳。(「仏家次第」では「実憲」)
- 153孝円(1378-1410)<1402-1405>:興福寺別当153世。大乗院門跡17世。薬師寺別当。長谷寺別当57世。橘寺別当。1402年(応永9年)4月29日から1405年(応永12年)12月18日まで興福寺別当。「教円」とも。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 154円尋(生没年不詳)<1405-1407>:興福寺別当154世。東門院。1405年(応永12年)12月18日から1407年(応永14年)2月18日まで興福寺別当。
- 155隆俊(生没年不詳)<1407-1408>:興福寺別当155世。西南院。1407年(応永14年)2月18日から1408年(応永15年)9月30日まで興福寺別当。
- 156良兼(1385-1414)<1408-1411>:興福寺別当156世。一乗院門跡27世。近衛兼嗣の子。1408年(応永15年)9月30日、興福寺別当。1410年(応永17年)11月17日自刃を図るが一命をとりとめた。1411年(応永18年)1月10日僧正。2月5日別当退任。1414年(応永21年)9月23日死去。30歳。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 157実照(生没年不詳)<>:興福寺別当157世。(「仏家次第」では「実昭」)
- 158兼覚(1361-1422)<1412->:興福寺別当158世。興福寺慈恩院住職。法隆寺別当76世。(略歴は、法隆寺#組織を参照)
- 159光暁(?-1433)<>:興福寺別当159世・167世。1433年(永享5年)7月14日死去(「基礎講座」)。
- 160孝俊(生没年不詳)<>:興福寺別当160世。法隆寺別当77世。
- 161空昭(生没年不詳)<>:興福寺別当161世。
- 162光雅(生没年不詳)<>:興福寺別当162世。
- 163隆雅(?-1466)<>:興福寺別当163世。薬師寺別当?(『日本仏教基礎講座』「法相宗薬師寺」の一覧にはない)。1466年(文正1年)2月死去(「基礎講座」)。
- 164乗雅(?-1429)<>:興福寺別当164世。1429年(永享1年)10月21日死去(「基礎講座」)。
- 165経覚(1395-1473)<1426->:興福寺別当165世・168世・182世・186世。大乗院門跡18世。蓮如の師。薬師寺別当。長谷寺別当58世。1426年(応永33年)興福寺別当。1431年(永享3年)興福寺別当・大僧正。1438年(永享10年)宝寿寺に隠居。1444年(文安1年)、鬼薗山に築城して筒井順永と戦い破れて安位寺に逃れた。1461年(寛正2年)2月興福寺別当。1469年(文明1年)4月、興福寺別当。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 166昭円(?-1437)<1428-1434>:興福寺別当166世。一乗院門跡28世。鷹司冬家の子。1428年(正長1年)3月22日、興福寺別当。1434年(永享6年)3月20日隠居。1437年(永享9年)9月3日死去(「基礎講座」)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 167光暁(?-1433)<>:再任。159世・167世。
- 168経覚(1395-1473)<1431->:再任。165世・168世・182世・186世。
- 169兼昭(?-1436)<>:興福寺別当169世。1436年(永享8年)10月3日死去(「基礎講座」)。
- 170覚雅(生没年不詳)<>:興福寺別当170世。
- 171隆秀(?-1465)<>:興福寺別当171世。1465年(寛正6年)9月23日死去(「基礎講座」)。
- 172実意(?-1454)<>:興福寺別当172世。1454年(享徳3年)12月8日死去(「基礎講座」)。
- 173俊円(?-1484)<>:興福寺別当173世。1484年(文明16年)5月12日死去(「基礎講座」)。
- 174兼暁(?-1450)<>:興福寺別当174世。1450年(宝徳2年)1月9日死去(「基礎講座」)。
- 175貞兼(1403-1452)<>:興福寺別当175世。大安寺・法華寺の別当。1452年(享徳1年)4月8日死去(「基礎講座」)。
- 176重覚(?-1450)<>:興福寺別当176世。1450年(宝徳2年)7月16日死去(「基礎講座」)。
- 177良雅(1387-1466)<>:興福寺別当177世。法華寺別当。1466年(文正1年)12月24日死去(「基礎講座」)。
- 178空俊(?-1469)<>:興福寺別当178世。1469年(文明1年)1月24日死去(「基礎講座」)。
- 179教玄(生没年不詳)<1454->:興福寺別当179世。一乗院門跡29世。鷹司房平の子。1454年(享徳3年)3月20日、興福寺別当。 (略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 180尋尊(1430-1508)<1456->:興福寺別当180世。大乗院門跡20世。橘寺別当。薬師寺別当。長谷寺別当59世・61世。法務。一条兼良の子。1430年(永享2年)生。1456年(康正2年)2月、興福寺別当。1457年(長禄1年)大僧正。1508年(永正5年)5月2日死去。79歳。後大乗三昧院と号す。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 181光憲(?-1481)<>:興福寺別当181世。1481年(文明13年)5月22日死去(「基礎講座」)。
- 182経覚(1395-1473)<1461->:再任。165世・168世・182世・186世。
- 183兼円(生没年不詳)<>:興福寺別当183世。
- 184兼雅(?-1481)<>:興福寺別当184世。1481年(文明13年)5月死去(「基礎講座」)。
- 185孝祐(生没年不詳)<>:興福寺別当185世。
- 186経覚(1395-1473)<1469->:再任。165世・168世・182世・186世。
- 187光淳(生没年不詳)<>:興福寺別当187世。
- 188任円(生没年不詳)<>:興福寺別当188世。
- 189尊誉(生没年不詳)<>:興福寺別当189世。
- 190政覚(1453-1494)<>:興福寺別当190世。大乗院門跡21世。長谷寺別当60世。薬師寺別当。1494年(明応3年)3月16日死去(「基礎講座」)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 191隆憲(?-1496)<>:興福寺別当191世。1496年(明応5年)12月27日死去(「仏家次第」)。
- 192空覚(生没年不詳)<>:興福寺別当192世。
- 193光慶(生没年不詳)<>:興福寺別当193世。
- 194良誉(?-1546)<1512->:興福寺別当194世。一乗院門跡31世。1512年(永正9年)2月21日(3月5日とも)、興福寺別当。1546年(天文15年)2月26日死去(「基礎講座」)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 195兼継(生没年不詳)<>:興福寺別当195世・201世。西大寺別当。
- 196経尋(1499-1526)<1522>:興福寺別当196世。大乗院門跡23世。薬師寺別当。1522年(大永2年)3月11日、興福寺別当。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 197円深(生没年不詳)<>:興福寺別当197世。
- 198孝縁(生没年不詳)<>:興福寺別当198世。
- 199実憲(生没年不詳)<>:興福寺別当199世。
- 200晃円(生没年不詳)<>:興福寺別当200世。法隆寺別当79世。
- 201兼継(生没年不詳)<>:再任。195世・201世。
- 202覚誉(?-1562)<1537-1549>:興福寺別当202世。一乗院門跡32世。1537年(天文6年)10月27日から1549年(天文18年)11月13日まで別当。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
- 203尋円(?-1581)<>:興福寺別当203世・208世。大乗院門跡24世。薬師寺別当。1549年(天文18年)11月25日興福寺別当。1581年(天正9年)1月14日死去(「基礎講座」)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 204空実(生没年不詳)<>:興福寺別当204世。
- 205光尊(生没年不詳)<>:興福寺別当205世。
- 206実暁(生没年不詳)<>:興福寺別当206世。
- 207光実(?-1585)<>:興福寺別当207世。1585年(天正13年)4月18日死去(「仏家次第」)。
- 208尋円(?-1581)<>:再任。203世・208世。「仏家次第」になし。
- 209尋憲(1529-1585)<1577->:興福寺別当209世。大乗院門跡25世。薬師寺別当。1577年(天正5年)12月21日、興福寺別当209世。「仏家次第」になし。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照)
- 210兼深(生没年不詳)<>:興福寺別当210世。「仏家次第」では208世。
- 211尊勢(?-1616)<1589->:興福寺別当211世。一乗院門跡34世。1589年(天正17年)8月16日別当就任(「仏家次第」)。1616年(元和2年)5月3日死去(「基礎講座」)(「仏家次第」では1617年(元和3年)とする)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照)
近世
歴代 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
212 | 光助 | ?-1618 | 1616- | 興福寺別当212世。1616年(元和2年)別当就任(「仏家次第」)。1618年(元和4年)死去(「仏家次第」)。 |
213 | 空慶 | 生没年不詳 | 興福寺別当213世。今出川公彦の子。興福寺喜多院住職。大和・白毫寺中興。学僧として名をはせ、1614年(慶長19年)3月、一乗院尊勢、東北院兼祐、法隆寺阿弥陀院実秀と共に駿府で徳川家康に、4月には将軍秀忠に進講したことで有名(『奈良市史』)。白毫寺御影堂に祀られている。「仏家次第」に名なし。 | |
214 | 信尊 | ?-1676 | 1619- | 興福寺別当214世・216世・218世。大乗院門跡27世。1619年(元和5年)3月10日別当就任(「仏家次第」)。1676年(延宝4年)4月3日死去(「基礎講座」)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) |
215 | 尊覚法親王 | 1608-1661 | 1622- | 興福寺別当215世・217世。一乗院門跡35世。1622年(元和8年)10月26日別当就任(「仏家次第」)。1653年(承応2年)1月20日別当再任(「仏家次第」)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
216 | 信尊 | ?-1676 | 再任。214世・216世・218世。 | |
217 | 尊覚法親王 | 1608-1661 | 1653- | 再任。215世・217世。 |
218 | 信尊 | ?-1676 | 再任。214世・216世・218世。 | |
219 | 実雅 | ?-1681 | 1664- | 興福寺別当219世。1664年(寛文4年)1月19日別当就任(「仏家次第」)。1681年(天和1年)1月9日死去(「仏家次第」)。 |
220 | 真敬法親王 | 1649-1706 | 興福寺別当220世。興福寺別当220世・222世・224世。一乗院門跡36世。「仏家次第」に名前なし。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) | |
221 | 信賀(信雅) | ?-1690 | 興福寺別当221世。大乗院門跡28世。信雅とも。「仏家次第」に名前なし。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) | |
222 | 真敬法親王 | 1649-1706 | 再任。220世・222世・224世。 | |
223 | 信覚 | ?-1701 | 興福寺別当223世。大乗院門跡29世。1701年(元禄14年)5月2日死去(「基礎講座」)。 | |
224 | 真敬法親王 | 1649-1706 | 再任。220世・222世・224世。 | |
225 | 隆尊 | ?-1764 | 興福寺別当225世。興福寺別当225世・227世。大乗院門跡30世。1764年(明和1年)4月18日死去(「基礎講座」)。「仏家次第」に名前なし。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) | |
226 | 尊賞法親王 | 1699-1746 | 興福寺別当226世。一乗院門跡37世。1714年(正徳4年)9月22日別当就任(「仏家次第」)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) | |
227 | 隆尊 | ?-1764 | 再任。225世・227世。 | |
228 | 隆遍 | 1721-1777 | 1739- | 興福寺別当228世。大乗院門跡31世。1739年(元文4年)3月19日別当就任(「仏家次第」)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) |
229 | 尊映法親王 | 1748-1793 | 1769- | 興福寺別当229世。一乗院門跡39世。1769年(明和6年)10月10日別当就任(「仏家次第」。ただし「尊快」を「尊映」の誤記とみなした)。(略歴は、興福寺一乗院#組織を参照) |
230 | 隆範 | 1773-1829 | 興福寺別当230世。興福寺別当230世・232世。大乗院門跡32世。「仏家次第」に名前なし。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) | |
231 | 昭尋 | ?-1832 | 1814- | 興福寺別当231世・233世。1814年(文化11年)9月26日別当就任(「仏家次第」。ただし「照尋」とある)。1832年(天保3年)12月21日死去(「基礎講座」)。 |
232 | 隆範 | 1773-1829 | 再任。230世・232世。 | |
233 | 昭尋 | ?-1832 | 再任。231世・233世。 | |
234 | 隆温 | 1811-1875 | 興福寺別当234世・236世。二条治孝の子。大乗院門跡34世。還俗して松園隆温。男爵。「仏家次第」に名前なし。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) | |
235 | 尊応法親王 (久邇宮朝彦親王) | 1824-1891 | 1842- | 興福寺別当235世。一乗院門跡43世。1842年(天保13年)3月20日別当就任(「仏家次第」)。還俗して久邇宮朝彦親王となる。(略歴は、久邇宮#組織を参照) |
236 | 隆温 | 1811-1875 | 再任。234世・236世。 | |
237 | 隆芳 (松園尚嘉) | 1840-1903 | 興福寺別当237世。大乗院門跡35世。還俗して松園尚嘉。「仏家次第」に名前なし。薬師寺別当?(『日本仏教基礎講座』「法相宗薬師寺」の一覧にはない)。(略歴は、興福寺大乗院#組織を参照) | |
238 | 応昭 (水谷川忠起) | 1848-1923 | 1864- | 興福寺別当238世。一乗院門跡44世。還俗して水谷川忠起。春日大社宮司となる。男爵。1864年(元治1年)3月20日別当就任(「仏家次第」)。(略歴は、春日大社#組織を参照) |
近代の住職
歴代 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
(佐伯泓澄) | 1824-1906 | 1875-1882 | 真言宗・律宗の僧。西大寺長老64世。1875年(明治8年)5月14日から1882年(明治15年)4月1日まで「元興福寺守護職」(「元興福寺堂塔守護」とも。のち「奈良公園取締」)を務めた。(略歴は、西大寺#組織を参照) | |
239 | 園部忍慶 | 1842-1890 | 1881-1890 | 興福寺239世。本務は清水寺。1881年(明治14年)8月29日、復興した興福寺の住職に就任。(略歴は、清水寺#組織を参照) |
240 | 千早定朝 | 1823-1899 | 1890-1891 | 興福寺240世。本務は法隆寺。忍慶の死去で1890年(明治23年)3月23日から翌1891年(明治24年)2月16日まで興福寺住職兼清水寺住職を兼務。1895年(明治28年)4月14日再任(『法隆寺年表』。1894年(明治27年)からという説も)。(略歴は、法隆寺#組織を参照) |
241 | 雲井良海 | 1836-1894 | 1891-1894 | 興福寺241世。1891年(明治24年)2月16日、興福寺住職兼清水寺住職に就任。自害。(略歴は、清水寺#組織を参照) |
242 | 千早定朝 | 1823-1899 | 1895?-1899 | 再任。240世・242世。 |
243 | 大西良慶 | 1875-1983 | 1899-1942 | 興福寺243世。のち清水寺中興・北法相宗初代管長。1899年(明治32年)興福寺住職に就任。1942年(昭和17年)3月、興福寺住職を退任。(略歴は、清水寺#組織を参照) |
244 | 板橋良玄 | 1879?-1954 | 1942-1954 | 興福寺244世。1936年(昭和11年)、61歳という異例の高齢で竪義遂業。1942年(昭和17年)3月、興福寺住職に就任。1954年(昭和29年)1月26日死去、76歳(『法隆寺辞典』)。 |
245 | 多川乗俊 | 1904-1984 | 1954-1984 | 興福寺245世。奈良県の法隆寺近辺の出身。1904年(明治37年)生。1917年(大正6年)入寺。樋口定俊、佐伯良謙に師事。1942年(昭和17年)竪義。1946年(昭和21年)興善院住職。翌年、執事長・菩提院住職・勧善院住職。1954年(昭和29年)3月、興福寺住職就任(2月とも)。1984年(昭和59年)7月16日死去。(『現代人物誌第十八編』)(奈良県人物・人材情報リスト2017では1910年(明治43年)入寺。12歳で得度。1935年(昭和10年)執事、1945年(昭和20年)執事長、1954年(昭和29年)貫主、1960年(昭和35年)管長初任とある) |
246 | 多川乗覚 | 1935-2024 | 1984-1989 | 興福寺246世。多川乗俊の子。自坊は興善院。1935年(昭和10年)生。1951年(昭和26年)受戒得度。1957年(昭和32年)龍谷大学仏教学部卒。1959年(昭和34年)興福寺に入寺。1979年(昭和54年)慈恩会竪義加行を成満。1984年(昭和59年)9月から1989年(平成1年)8月31日まで興福寺住職。1986年(昭和61年)法相宗管長。2024年(令和6年)3月26日死去。88歳。 |
247 | 多川俊映 | 1947- | 1989-2019 | 興福寺247世。多川乗俊の子。自坊は菩提院。1947年(昭和22年)生。1969年(昭和44年)立命館大学文学部哲学科卒。1970年(昭和45年)興福寺に入寺。1972年(昭和47年)執事。1977年(昭和52年)慈恩会竪義加行を成満。同年、菩提院住職。1984年(昭和59年)9月、興福寺副住職。1989年(平成1年)9月1日から2019年(令和1年)8月31日まで興福寺貫首。2018年(平成30年)中金堂再建を実現。退任後、寺務老院。 |
248 | 森谷英俊 | 1949- | 2019-2024(予定) | 興福寺248世。群馬県高崎市出身。自坊は大聖院。1949年(昭和24年)生。1973年(昭和48年)法政大学法学部卒。鎌倉市役所勤務。1975年(昭和50年)興福寺に入寺。1989年(平成1年)興福寺執事。1991年(平成3年)慈恩会竪義加行を成満。同年、大聖院住職。2001年(平成13年)興福寺執事長。2004年(平成16年)山田寺住職を兼務。2014年(平成26年)副貫首となり興福寺湘南別院を兼務。2019年(令和1年)9月1日から2024年(令和6年)8月31日(予定)まで興福寺貫首。 |