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英彦山招魂社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年6月20日 (木)
英彦山招魂社は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある招魂社。幕末殉難僧11柱を祀る。官祭招魂社。田川護国神社の元宮であり、奥宮とされる。英彦山官修墳墓を併設。
歴史
- 1863年(文久3年)8月:挙兵計画
- 1863年(文久3年)11月11日:一斉捕縛
- 1864年(元治1年)7月19日:禁門の変で水谷左門が戦死。
- 1864年(元治1年)7月20日:禁門の変。佐竹織江と藤山衛門が六角獄舎で処刑される。霊山官修墳墓に墓碑。
- 1866年(慶応2年)6月7日:第二次長州征討始まる。
- 1866年(慶応2年)6月19日:佐久間勝信、獄死(17日とも)
- 1866年(慶応2年)8月1日:小倉藩、八百屋獄舎で6人を処刑。延命寺に仮埋葬。
- 1866年(慶応2年)8月7日:城島公茂、獄死。
- 1866年(慶応2年)8月21日:幕府軍停戦。
- 1867年(慶応3年)11月14日:一行が小倉から英彦山に帰還。6人の遺体と共に。
- 1869年(明治2年)1月6日:高千穂教有が斎主となり幣帛を捧げて合同葬儀。当初は英彦山招魂場と称した。『靖国神社誌』にも1869年(明治2年)1月とある[1]。
- 1869年(明治2年):祭典直後には報復事件が起きて松浦タキが私刑に処された。
- 1891年(明治24年)9月:殉難11僧、靖国神社に合祀。
- 1896年(明治29年)5月11日:官祭招魂社となり、以後毎年度25円下賜[2]。4/5とも[3]
- 1902年(明治35年)11月:明治天皇九州行幸の時、義僧15人に贈位。安達泰(安達昇)、南条丹三(鬼谷瞋)は選に漏れたという。
- 1910年(明治43年)5月6日:鉄砲町(福岡県田川市伊田鉄砲町)に遷座(田川護国神社)。以後、英彦山の社は「奥宮」と位置付けられるようになる。明治38年とも
- 1934年(昭和9年)12月:田川招魂社に「尽忠殉国之碑」建立[4]。11人の名も刻む。
- 1939年(昭和14年):田川招魂社、田川護国神社と改称。
- 1941年(昭和16年):福岡県、「官修墳墓監守者設置并に給料支給規程」を制定(訓令23号)[5]。
- 1948年(昭和23年)12月28日:福岡県、「官修墳墓監守者設置并に給料支給規程」を廃止[6]。
- 1965年(昭和40年)11月1日:殉難100年大祭[7]。
祭神
- 『幕末秘史英彦山殉難録』[8]
- この他、安達昇(如蔵坊英継)、高根正也(良什坊幸貫)、橋本有幸(橋本坊間道)、鬼谷瞋(浄現坊栄樹)、阿部豪一(中之坊豪端)、柏木民部(祐玉坊慶典)の6人が尊攘運動に加わっており、殉難11人と合わせて十七義僧と呼ばれる。
- 『靖国神社誌』にも11柱とある[9]。
- 1政所有緜(1821-1866):英彦山座主代。山口藩と通じて1863年(文久3年)8月、挙兵を計画するが、11月11日、小倉藩に捕まり1866年(慶応2年)8月1日、八百屋獄舎で処刑。政所坊有緜。正五位。
- 2鷹羽浄典(1823-1866):英彦山執当。山口藩と通じて1863年(文久3年)8月、挙兵を計画するが、11月11日捕まり、処刑。正応坊浄典。正五位。
- 3渋川栄承(1827-1866):奉行職。1863年(文久3年)挙兵計画に参加。1863年(文久3年)11月11日、小倉藩に捕縛され、政所有緜らとともに1866年(慶応2年)8月1日処刑。義俊坊順道。正五位。
- 4宇都宮堯珉(1820-1866):英彦山奉行職。座主高千穂教有の命で攘夷祈願の祈祷を行う。1863年(文久3年)挙兵計画に参加。11月11日の一斉捕縛から逃れて肥後に向かう途中に豊後日田で捕縛。1866年(慶応2年)8月1日処刑。本覚坊英山。正五位。
- 5宇都宮有允(1837-1866):英彦山執当。1863年(文久3年)8月の挙兵計画で中心的な役割を担った。11月11日の一斉捕縛からは逃れるが熊本で捕縛。1866年(慶応2年)8月1日処刑。成円坊貫之。正五位。
- 6生島大炊(1834?-1866):座主家家臣。京都出身。1853年(嘉永6年)ペリー来航の際、敵国降伏の祈祷を行う。1863年(文久3年)11月11日、小倉藩に捕縛され、1866年(慶応2年)8月1日処刑。従五位。
- 7城島公茂(1821-1865):座主家家臣。1863年(文久3年)挙兵計画に参加。11月11日捕まり、1866年(慶応2年)8月7日獄死。城島主税。正五位。
- 8佐久間勝信(1842-1866):座主家家臣。1863年(文久3年)の挙兵計画には加わらなかったが、11月11日捕縛される。1866年(慶応2年)6月19日(17日)、八百屋獄舎で獄死。従五位。
- 9佐竹織江(1816-1864):英彦山の僧侶。教務を司った。1863年(文久3年)、長光太郎、藤山衛門、水谷左門らと共に山口藩に渡り、座主の先発として上洛。そのため一斉捕縛は逃れた。久坂玄瑞と共に三条実美の「秘物」を収めて大阪に下る途中、藤山衛門と共に幕吏に捕縛された。1864年(元治1年)7月20日、禁門の変のときに六角獄舎で処刑。厳瑶坊亮親。正五位。霊山官修墳墓に墓碑。
- 10藤山衛門(1831-1864):英彦山奉行職。1863年(文久3年)の挙兵計画で山口藩奇兵隊との連絡役を務めた。1863年(文久3年)、長光太郎、佐竹織江、水谷左門らと共に山口藩に渡り、座主の先発として上洛。そのため一斉捕縛は逃れた。久坂玄瑞と共に三条実美の「秘物」を収めて大阪に下る途中、藤山衛門と共に幕吏に捕縛された。1864年(元治1年)7月20日、禁門の変のときに六角獄舎で処刑。教観坊成連。正五位。霊山官修墳墓に墓碑。
- 11水谷左門(1844-1864):英彦山の僧侶。1863年(文久3年)、長光太郎、佐竹織江、水谷左門らと共に山口藩に渡り、座主の先発として上洛。そのため一斉捕縛は逃れた。真木保臣、久坂玄瑞と行動を共にし、1864年(元治1年)7月19日、禁門の変で戦死。京都には墓なしか。水口坊観清。正五位。