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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

越後・本誓寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年12月18日 (火)

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本誓寺(ほんせいじ)は、新潟県上越市(越後国頸城郡)越後高田にある、蓮如旧跡の伝統を継承する浄土真宗寺院。「笠原御坊」として知られる。真宗大谷派。「笠原本誓寺」「笠原山本誓寺」。磯部六寺の一つ。浄興寺真宗大谷派高田別院とともに越後高田城下の寺町を代表する寺院。真宗大谷派の別院寺院だった。別格別院だった(大谷派寺院録)。(参考:同名寺院本誓寺


由緒

井上満政という武士が出家し、下総国相馬郡布川(現・茨城県北相馬郡利根町布川)(現在の利根川左岸・北岸)で寺院を創建。教念と名乗った。当初は真言宗真宗寺だったが、教念は稲田の草庵で親鸞に会い、帰依した。教念は、親鸞の高弟二十四輩第9番の善性房の縁者とされ、そのため、当寺は北信上越地方にある善性房(磯部御坊勝願寺)系統のいわゆる磯部六寺(磯部六カ寺)の一つとされる。


歴史

7世性順のとき、信濃国高井郡笠原(現・長野県中野市笠原)に移り、ここで蓮如が訪ねてきて「本誓寺」に改称した。「笠原御坊」と呼ばれるようになる。旧地は「散法院」という地にあったといい、現在の式内笠原神社の近くと思われ、一般的に神祇信仰を否定する浄土真宗寺院にも関わらず、同神社の神宮寺であったという。

第10世超賢上杉謙信に協力したため、越後布教を許可され、加賀国小山(尾山、現在の石川県金沢市)を経て、上杉家居城の越後国頸城郡高田の春日山城下に移転した。超賢は、川中島合戦にも上杉軍として従軍し、また大坂の石山合戦では、上越地方の門徒から徴収した金品を送ったり、門徒を徴兵し戦地に送り込んだりして、石山本願寺軍を大きく支えた。

越後高田では当初、春日山城東麓にあった。上杉家のあとに入った堀家が直江津港近くに築城しようとすると寺地を求められて譲ったという伝承があり(「越後本誓寺由緒鑑」)、このときには旧福島城の位置(現・市立古城小学校の地)にあったことになる。「旧・本誓寺町」(現・東本町4丁目)に移転し、松平忠輝の高田開府に当って元寺町に移り、寛文年間に高田城の西北1.8kmにある下寺町の現在地に移った。

宝暦10年(1760)の寺町大火で被災した。 「川越の名号」を所蔵。

当寺の門徒が集団移住した栃木県真岡市(下野国芳賀郡真岡郷)に当寺より別れた同名の寺院がある。


参考文献

  • 由谷裕哉 2008「磯部六ヶ寺の伝承」

ほか

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E3%83%BB%E6%9C%AC%E8%AA%93%E5%AF%BA」より作成

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