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陸奥・大善院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年6月25日 (土)
大善院(だいぜんいん)は福島県東白川郡棚倉町八槻(陸奥国白河郡)にあった天台修験寺院。修験道本山派。八槻都々古別神社の別当。八溝山修験の拠点だった。建造物の一部は八槻家住宅として現存する。大膳院とも。寺号は長広寺。八槻別当、近津別当と呼ばれた。山号は生母山。(参考:同名寺院大善院)
目次 |
歴史
- 1392年:二階堂高盛、良源から伊豆山権現、箱根権現、熊野三山の先達職を譲り受ける。八槻家の祖。
- 1447年:結城直朝、八槻別当に「菊田庄内小山田三良天神別当并御礼堂別当」職を寄進。
- 1462年:石川郡霞地の先達職を巡り、竹貫別当と争う。
- 1484年:聖護院門跡、石川郡の赤坂家の熊野先達職を、竹貫別当から奪い、八槻別当に認める。
- 1487年:聖護院門跡の道興、東国巡教の際に宿泊
- 1494年:聖護院門跡、石川別当・竹貫別当を処分し、その檀那を八槻別当に預けた。
- 1496年:霞地の争論に際して、八槻別当に対抗し、石川別当を支援するため、石川一族が一揆を結成
- 1505年:結城政朝、八槻別当に石川郡内の所領寄進
- 1588年7月23日:聖護院から白河本領の惣年行事職を安堵される。同年、「大善院」の名称が初出。
- 中世末:金光寺(下野宮近津神社別当)が配下から離れる。のち徳川光圀が金光寺を当山派とする。
- 1602年:聖護院門跡、白河本領、保内、小里の年行事職を安堵
- 1609年:聖護院門跡、石川郡66郷の年行事職は石川別当に安堵
- 近世:八溝山修験を支配下に置く。
- 1727年:八溝山神社を再建。
- 1738年:社僧如意輪寺が大善院支配を離れようとして争論となる
- 1842年:配下108院
- 明治初年:神仏分離で廃絶。
(『日本歴史地名大系』ほか)
組織
住職
南北朝時代に熊野先達職を継承した淳良から妻帯となり、八槻家が世襲する。神仏分離後は都々古別神社の神職を務める。幹良の記録に「八槻別当大善院少納言権少僧都法眼<号長広寺>神主左衛門大夫従五位下式部少輔又主殿頭。但別当と神主を兼帯し在りしなり。」(棚倉沿革私考)とあるように、僧侶としての官位(権少僧都法眼)と神職としての官位(従五位下式部少輔又主殿頭)を1人の人物がそれぞれ持っていたと記述されている。
- 1良祐()<>:
- 2良海()<>:1312年譲る?
- 3良光()<>:
- 4良珍()<>:1352年譲る?
- 5良朝()<>:1384年、伊豆山箱根熊野の先達を譲る。
- 6良源()<>:駒石侍従阿闍梨。1390年、伊豆山箱根熊野の先達を譲る。1392年にも。
- 7淳良()<>:八槻家の祖。以後、妻帯世襲。左衛門大夫。俗名は藤原高盛。伊勢国出身の浪人で二階堂家に寓した。明徳年間(1390年か)、良源から修験職を譲り受けた。また会津城主に敗れた太田城主佐竹氏に加担して追放された高野長広の跡を継ぎ、八槻神主職を継承した。1428年譲る?
- 8賢良()<>:応永18年在職。1517年譲る?
- 9幹良()<>:文明7年上京し参内。文明8年、土御門天皇から剣を賜るという。少納言権少僧都法眼。
- 10真良()<>:1597年譲る?
- 11鎮良()<>:
- 19永良(?-1684)<>:龍蔵寺と争論となり寛文8年勝訴。1684年4月18日死去。式部少輔。
- 20宗良()<>:主殿頭。
- 21俊良()<>:主殿亮。
- 22幸良(?-1761)<>:1722年相続。1731年系図を記す。1740年、如意輪寺を神前奉仕から追放。1749年8月10日、上京して「正一位」勅宣を得る。1761年3月3日死去。式部少輔。(浜良は誤植か)
- 23生良()<>:主殿。
- 24栄良()<>:式部。
- 25孝良(?-1820)<>:昌平黌で学ぶ。1778年3/16神主就任。1792年3/16別当就任。1818年隠居して維哲と名乗り、幽墨斎と号す。1820年8月25日死去。
- 26廉良()<>:式部少輔。隠居して宿里院や雪荘と号す。
- 27顕良()<>:主殿頭。貫一斎と号す。
- 28猷良()<>:観水と号す。最後の住職か。