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雄略天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2014年8月23日 (土)
古市古墳群の「高鷲丸山古墳」が比定されている。文久の修陵では、幕府ではなく、館林藩秋元家によって、修復された。隼人の墓と伝える塚が付属している。修陵事業中に禁門の変が起こり、物価が高騰したため、計画通りに修復できず、他の陵墓のように石燈籠などが整備されなかったという。本来は円墳であったが、前方後円墳にみせるため、前方に方形の区画を「雄略天皇前陵」として設定した。ただ文久の修陵の時点では拝所はまだ円墳部に接して設けられていた。1882年(明治15年)になって前方部が整備・造営されて、拝所の位置も移動した。(『文久山陵図』213)